夏を航る
これは、六年間をともにした会社の後輩に捧げる手紙である。
彼と出会ったのは、2018年の夏。同期三人での新人配属だったこともあり、初対面の日は、フロアが歓迎ムードでとても賑やかだった。
彼は大学で研究に勤しむ傍ら、ハンドボールに励んでいたと教えてくれた。でも実は、会うよりも前からその話は知っていた。配属の一週間前、前の部署の後輩からこんなLINEが届いていたからだ。
この日ぼくはたまたま休暇を取っていて、全社オープンになった新人配属の連絡に目を通せていなかった。知っていたのは、うちの部署に新人が三人やってくるということだけ。誰がアドバイザーを務めるかはおろか、新人の名前すら知る由もなかった。
偶然も偶然だった。LINEをくれた彼はただの後輩ではなく、ぼくが会社で唯一新人アドバイザーを務めた教え子だったからだ。仮にぼくがまたアドバイザーだったら「それはそれで運命的なので少し期待してました。笑」と彼は言った。社員の数を考えれば、そう思っても不思議ではない。まだ名前しか知らない新人に、縁を感じずにはいられなかった。
配属からひと月ほど経った頃、当時北海道の部署にいたその後輩が上京してくるというので、三人で飲みに行ったことがあった。大手町の、いたって普通の居酒屋。ビールジョッキを片手に、目の前に座っている二人がどこか似ているように見えてきて、ぼくはわけもなくうれしくなった。
あの夏から六年。彼がこの部署を全力で駆け抜けた時間は、アメリカに旅立つための滑走路となった。
彼が新人配属されたのは、ぼくが今の部署に異動して二年目の年だった。業務内容が大きく変わり、手探りの状態が続いていた頃、彼は二人の同期とともにやってきた。
まだ半人前にもなれていなかった当時の自分にとって、新人を迎えるのは緊張することだった。別の部署でなまじ経験を積み、さながら転職したかのようなギャップに悩んでいたぼくなんかより、吸収も早く、すぐ追い抜かれてしまうと焦っていた。実際は、そんな心配をする余裕もないくらいボロボロの二年目を過ごしたのだが、彼らがいてくれたから、ぼくは背筋を伸ばし続けることができた。
思えば、前の部署で彼の義兄の新人アドバイザーを務めたときもそうだった。
入社二年目の自分が任命されるとは思ってなかったし、後輩(彼の義兄)としても、ベテランには程遠い一個上の先輩がアドバイザーなのは不安だったに違いなかった。何を与えられたかは今もわからないけれど、隣でひたむきに頑張る彼を見ては、ぼくは顔を上げ、躓きそうなときも両足を踏ん張っていられた。躓いても、前を向き続けることができた。
まもなくアメリカに発つ彼も、与える人だった。
切れ者で勉強熱心な彼は、いつも周りのことを真剣に考え、仕事を、組織を、世界を良くしていきたい気概に溢れていた。考えてばかりで、休むのが苦手だとよく言っていた。「今年の夏の金麦のラベルに描かれてる花火、どこがモデルなんだろう」みたいなことばかり考えているぼくにとっては彼我の存在だったが、探求心の強さにどこか通じるものを勝手に感じていた。気になったニュースについて議論したり、お互いの読んだ本を共有したりする時間が、ぼくは楽しかったし、何よりありがたかった。
同じ部署ではあったが、チームが別だったこともあり、仕事で直接関わる機会は決して多くなかった。それでも、年々と組織での存在感を高め、周りから頼られるようになっていく彼の姿は眩しかったし、たまに一緒にミーティングをしたときは、自分の意見を述べつつも他のメンバーへのリスペクトを欠かさない姿勢を見て、ぼくは、また背筋を伸ばそうとしている自分に気付かされるのだった。
最近はチームリーダーを任されたり、転入メンバーのサポート役を担ったりと、人材育成でも活躍の場を広げていた彼から聞いた、「フィードバックを大切にしたいんです」のひと言が忘れられない。一人ひとりの成長を心から願うから、そのための言葉を惜しみたくないのだと彼が熱く語ってくれたのは、つい先日の話。過去を振り返る「改善」にとどまらず、未来を良くしたい気持ちに溢れたそれは「向上」であり、いつだって前に踏み出そうとするフィード"フォワード"だった。彼と交わした言葉のおかげで歩みを止めずにいられたのは、きっとぼくだけではなかった。
ある日LINEで話していたとき、彼は言った。
座右の銘のとおり、彼は今よりもっと視野を広げるため、新たな地平に踏み出すことにした。次の成長の余白は、遥か海の向こうにあったのだ。
アメリカ行きの異動内示が出たのは数ヶ月前。この時期に一人で部署を離れることになるとは、本人も予想すらしていなかったのではないかと思う。
赴任期間は二年で、研修を織り交ぜながら現地の実務に携わるのだと聞いた。会社の期待が窺える内容で、アカデミックをプラクティカルに昇華するのに長けた彼ほど相応しい人はいないと、ぼくは自信を持って断言できる。
誰よりも働き、誰よりも考えてきた彼は、誰よりも悩んでいた一人に違いなかった。そんな素振りは垣間も見せず、いつも真面目に、でも楽しそうに言葉を交わしてくれた月日が、この手紙の結びへ向かうほど鮮明に浮かび上がってくる。あのときが、あのときのままであってほしいかのように。
期待と不安を抱え、彼は異国へと旅立つ。ぼくらは、彼が残してくれたものを受け継ぎ、今までどおりであろうとしながら、新しい組織へと生まれ変わる。次のステージへ向かうため、それぞれの夏を航ろうとしている。
「数字の結束は強いですよ!」とハンバーガーを頬張りながら陽気に叫ぶ声も、「あの店なら、ラストオーダーまだいけると思います」と遅い時間に餃子仲間を誘う声も、もう聞けなくなると思うと、急に寂しさが襲ってくる。きっと仕事はこれからも回っていくのだろうけど、彼のいない部署は、もう今までと同じではない。彼もまた、組織とは人であると教えてくれた先人の一人になろうとしている。
二年前、誰かと会うという当たり前が、当たり前でなかったあの頃。失ったものを数えもせずにいたことに気付かせてくれたうちの一人が、彼だった。いつかまた手にしたいのなら、数えなきゃいけない。そのために言葉はある。
だから、ぼくはまたこうして数えている。待っているのだと思う。いつか、新しい世界を見てきた彼と一緒に働ける日が来ることを。
また飲みに行こう。
そして、また一緒に良い仕事をしよう。
体調に気をつけて。六年間、ありがとう。