「子どもたちの日」ではない理由
今朝、妻が「今日は子どもたちの日か」と間違えるほうが難しそうな言い間違いをしていた。
説明するまでもなく、本日は「子どもの日」である。未来明るい子どもの元気と健やかな成長を願う日である。日本語は、英語のように単数形と複数形を厳密に区別しない。だから「子どもたちの日」でも構わないような気がする。そう思っていた。妻の発言から0.5秒くらいは。
複数形になることによって、普通名詞であるにもかかわらず、なぜか特定多数の子どもだけを祝う日のように聞こえるのだ。child の複数形が childs でなく children である謎を遥かに凌駕する衝撃であった。一部の子どもに限定して捧げられる祝福。ダイバーシティと平等の意識がかつてなく高い現代にあって由々しき事態である。
こども家庭庁に報告せねばならない。2023年4月まで待てない。今タイプミスして「こどもかていちゅ」と打ったら「こども家庭(*´ε`*)チュッチュ」とキモさ大爆発の変換候補が出てきたので今ぼくは深呼吸をしている。
しかし、そうは言っても単複同形の日本語。普通名詞として祝日の名称に使われているだけなのだから、基本的に問題はないはずである。そこで試しに「母たちの日」「父たちの日」を考えてみた。俄然どこかの部族が偉大なる先祖を讃える日と化した。やはりこの運用には致命的な問題がある。
「たち」が適切でないだけかもしれない。
語尾変化をしない日本語では、名詞を複数として扱う場合、一般的に「たち」または「ら」を付加する。したがって「子どもらの日」も可能だが、違和感が限界突破して深呼吸もままならなくなった。理屈上可能かどうかの問題ではなかった。却下である。この話をしたら妻が「ぬいぐるみらが」「冷蔵庫のナスらが」と名詞に「ら」を付け始めるようになった。却下である。
漢字で書けば違和感も多少和らぐかもなどと安易な発想は控えた方がいい。「子ども等の日」である。子どものほかに一体誰を巻き込む気なのだ。「子ども」の明確な定義もないのに、それに輪をかけて曖昧さを付与する意味がわからない。帰省中、1つ残った柏餅を前にしたおばあちゃんが「『等』には75歳未満の者まで含まれるから、この柏餅は私にも食べる権利があるんだよ」とか言ってきたらどうするのだ。言うわけないだろうが。
この問題は、母の日と父の日以外の祝日にも甚大な影響を与える。
たとえば昨日。みどりたちの日。誰だよ。祝日法第2条によればこの日は「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」べきなのに、知り合いのみどりさんを全員呼び集めて謝恩会を催さなくちゃいけなくなった。「本たち」「水たち」と言わないことからもわかるように、無生物を複数形にすることは本来できないはずなので、奇跡的にも謝恩会の開催ができてしまった類稀な事例であるとしか思うほかない。
余談だが、かつて4月29日が昭和の日へと改められた際、ぼくはみどりの日はてっきり消滅したものと思っていた。実際は、名高きGWN(注:ゴールデンウィークの中日)の座を国民の祝日がみどりの日に明け渡す形で、5月4日がみどりの日に変わっていた。みどりは生きていたのだ。誰だよ。
さて、不思議なことに「成人たちの日」は、そこまで違和感がなかった。何が「さて」なのかよくわからない。とりあえずぼくは「子どもたちの日」に牛の牛肉ばりの違和感を覚えてしまったのだが、多分、これは人によって感じ方が違うだけだと思う。そう。大切なのはダイバーシティ&インクルージョン。ぼくらは、一人ひとりの感性や価値観を尊重し、認め合わなければいけない時代を生きている。
だがさすがに「天皇たちの誕生日」は土台無理な話である。華麗なる一族の盛大な生誕祝賀パーティーにしか聞こえないからである。パリピがすぎる。
そもそも「天皇たち」と複数形になる設定があり得ない。南北朝時代であれば両朝合一のために足利義満が後亀山天皇と後小松天皇の合同生誕祝賀パーティーを開催したかもしれないが、今時代は令和である。そんなパーテーを開いたら世論が黙っているわけないだろう。というかいくらGW顔負けにゴールデンな金閣寺を建てたパリピの義満でも開くわけないだろう。ぼくは何を書いているのだろう。
このくだりを書くために本棚で日本史の本を探したなんて誰にも言えない。妻がちょうど読んでいたらしく「ベッドの横の本たちにあるよ」と返されたなんてもっと言えない。