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潮騒の缶ビール

ぼんやり海を眺める土曜の昼下がり。茅ヶ崎の海岸で一人、ぽつりぽつりと言葉を置いた。

あてもなく乗り込んだ電車に揺られること小一時間。駅の発車ベルがサザンオールスターズの『希望の轍』なのは、訪れるたびにいいなと思う。

降り立った湘南のど真ん中に、秋の気配はない。電車の進行方向からして向かうべきは南口。すれ違う人々から、喧騒とまではいかない活気を感じながらロータリーに出た。これまでも何度か足を運んだことはあったが、駅の海側に出るのは初めてだった。

海岸へ延びる大通りを避け、一つ外れた散歩道に入った。小さな石を敷き詰めた舗道の脇には、緑をゆたかにあしらった図書館やカフェが立ち並んでいた。ガラス越しに覗いた店内は賑やかそうに見えたけれど、辺り一帯はどこまでも静かで、時間の流れが次第にゆるやかになっていく。それに合わせたのか今日は珍しく足取りが落ち着いている気がしたのに、薄手のシャツにはもうじんわり汗が滲み始めていた。少年野球。公園の蝉。時折追い抜いていく車の音に、いくつもの夏の声が混じる。

前方の空が開けてきて、散歩道の終わりに差し掛かっているのがわかった。海へ出る前にコンビニに立ち寄ろうと、照り付ける日差しに逆らうようにして海沿いの大通りを歩いた。じっとり、額が汗ばむ。腕時計を外し、手首に浮かんだ水滴を右手で拭った。

行き交う人はみんな真っ黒で、生憎にも男性だけだが、上裸の人もちらほらいる。サーファーが集う街だから、きっと日常的な光景なのだろう。そういえば、サーフボードが外壁にたくさん立てかけられたマンションを見かけた。湘南ともなると共用スペースまで海の色に染まるらしい。至るところに健康の二文字が浮かんで見えるようで、何だかいいなと思った。シャツを着た細身のサラリーマンがここまで似合わない場所も珍しい。

ようやくありついたコンビニで買った缶ビールを片手に、海岸へと踵を返した。缶があっという間に汗をかく。足早に、ひと気が少なそうな一帯を探すこと数分。この辺りにしようと雑草をかき分け進んだところで、視界が一気に開けた。海だ。潮風に鼻孔をくすぐられ、いつにない情緒を感じてから、メッシュの入ったスニーカーを履いてきた準備の至らなさに愕然とした。砂浜まで足を運ぶ気が俄然失せたので、防波堤のそばにあったコンクリートブロックに仕方なく腰掛けた。でこぼこの岩肌が尾てい骨に当たり、何とも座り心地がよろしくない。


靴に付いた砂を払い、顔を上げると、青のコントラストだけで描かれた水平線が鮮やかに世界を画していた。

サザンビーチの異名を持つ海岸にはカップルや大学生が多いかと思いきや、一人で音楽を聴いたり、本を読んだりしている人の姿が目立つ。青空の下で、ささやかに広がる自由たち。でも、スピッツの『ロビンソン』を聴きながらサッポロ黒ラベルの缶をあおっている人は、他にはいなさそうだった。思い出のレコードを持ってなければ、大げさなエピソードもないが、疲れた肩ならある。何なら一気に歩いたせいで疲れたふくらはぎもある。歌詞をそらんじながらリピートを重ねた最後のサビが終わり、ようやくイヤホンを外すと、浜辺で遊ぶ子どもたちの声が波音に乗って届いた。

缶をあおってしばらく、風が出てきたのか、波が少し高くなってきた。五つほど先のコンクリートブロックに座っている男女が、英語と日本語で交互に話をしているのが聞こえる。女性の英語は流暢だった。アメリカ英語っぽいなと見当をつけたところで、答え合わせがあるわけでもない。

日の光が南西の空高くから差し込み、まだ夏を終わらせまいと告げている。海と空の境目に集まった光の粒が、小刻みに弾けては消えていく。風は西。磯の香りと一緒に飲むビールは何年ぶりだったかわからないけれど、ぬるい分だけ香ばしく、喉元をするすると抜けていった。


視線の先に広がる水平線を、何時間見つめていただろう。

海は果てしなく広い。けれど、ふと、それ以上に何かが「遠い」と思った。知らないもの、手の届かないものが、この遥か先にあるのかもしれないと感じるからだろうか。何を考えているのか、自分でもよくわからない。何かを考えていると言える自信もあまりない。頭の中に浮かんだそれは色も形も覚束なくて、揺らがないはずの水平線が波に漂いはじめてしまいそうだった。

夜中に散歩をすれば公園で空を見上げ、真昼の海辺へ来れば水平線をただ見つめていた。一人になる時間は決まって、どこまでも続く何かに想いを馳せたくなる。ちっぽけな悩みだと思いたいのもしれないし、ぜんぶを受け止めてくれそうな懐深さに焦がれているのかもしれない。どちらにせよ、頭の中から放り出して自由に漂わせてあげたいのだろうなと思った。漂うなら空と海のどちらがいいかと考えてみたけど、さっきの女性の英語のアクセントと同じくらいわからない。

小さくまとまってはいけない。まとまりたくない。収縮へと向かう見えない力に抗うから、生きていると実感する。本当に放り投げる気があるのなら、水平線の彼方、落ちた姿も見届けられないほど遠くにやってしまえばいい。そこで沈んでしまうならそれまでだし、どこかに打ち上げられるならそれでもいい。遠くであれば、また同じ場所に戻ってきたりはしない。

海と空に心を委ねる時間が必要だった。かといって足りたようにも思えないから、また近く、どこかでこうして遠くを見つめるのだろう。海と繋がった空を前にしなければ生まれない気持ちもあると知ったし、そうしたいとも、そうせねばならないとも思った。

次も、その次もまた海までとなると難しいけれど、缶ビールがあればどこだっていいような気もしている。そんなの、いつだって近所の公園でできること。でも、できないことを考えるために長く、水平線を眺めていた。できないこととは、何だろう。夜更け、もう考える気力は残っていないが、潮騒とともに反芻したこの日のサッポロ黒ラベルは、やっぱりおいしかった。


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