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【山岸一生衆議院議員インタビュー〔上〕】翁長雄志・沖縄県知事から学んだ言葉の力とリアリズム 「沖縄の課題は本土の課題だ」


 衆議院議員・山岸一生は立憲民主党に所属する1期目の衆院議員であり、菅直人元首相のグループに属するなど、党内外でリベラル系の若手と目されている政治家である。山岸は日本を代表する名門男子校である筑波大学附属駒場中高を経て、東大法学部に進学し、卒業後は朝日新聞で新聞記者として活躍した。いわば首都圏ベットタウンの典型的な野党のエリート政治家である。

 しかしこうした政治家が「なぜリベラルな価値観を持つに至ったのか」、「なぜ野党から立候補するのか」は自明視され、必ずしも重要視されない傾向にある。山岸によると、議員になる前の新聞記者時代には、現在所属する立憲民主党の政治家とは付き合いがほとんどなく、むしろ自民党との関係が深かったという。そんな山岸はなぜ、リベラルな価値観を持つようになり、立憲民主党から立候補するに至ったのだろうか。

 また山岸は初めて立候補した2019年の参議院選挙では辛くも落選しており、挫折を知る政治家でもある。だが、彼はそこで諦めることなく、現職大臣が有権者買収で有罪判決を受けるなど混乱の渦中にあった衆院の東京9区から立候補し、見事初当選を果たした。このような挫折と再起の過程の中で、山岸は何を考え、政治家として成長してきたのだろうか。

 野党第一党のこれからを担う若手政治家は、なぜ政治家になり、どのように成長してきたのか。シトワイヤンが山岸の真意と素顔に迫った。



▹ゼミをきっかけにジャーナリズムの道へ

山岸さんは筑駒の中高を経て東大の法学部に進学されましたが、 学生時代の思い出などを教えていただけますでしょうか。

山岸
 通っていた中学・高校は典型的な進学校で、学校と塾と家しか生活圏がないというような学生時代でした。それが大学入学後、大きく変わりました。東大では教養学部の名物ゼミ、「法と社会と人権ゼミ」という外部の弁護士の先生が主催しているゼミに入りました。

 そこでは、様々な社会課題の現場を訪ね、当事者にお会いし、現場の生の話を聞いて考えるフィールドワークを行いました。例えば、 ハンセン病の元患者の皆さんの療養所にお邪魔して、いかに差別や偏見、あるいは隔離政策がひどかったかを目の当たりにして学ぶ機会もありました。そのような活動を通じて、いかに自分が受験勉強ばかりで、社会を知らなかったかを気づかされました。そこからジャーナリズムの世界に進んでいったというのが私の学生時代の経験です。


▹政治家になって気づいた決断の苦悩

それで、大学ご卒業後、朝日新聞社に入社し新聞記者になられたのですね。

山岸
 様々な理不尽なことを目の当たりにし、世の中にこんなことがあったのか、なんとかしなければならないと問題意識を持っていく中で、経験したことをまとめて書いて、みんなに伝えるという活動がすごく充実していると感じました。そうするうちに、自分で現場に行って生の話を受け、それを言葉にして伝えていくジャーナリズムの仕事に憧れるようになりました。そして、大学4年生の時に朝日新聞に内定をもらい、朝日に行ったという経緯です。

朝日新聞に入社された当初は、どのようなお仕事がしたいと考えていらっしゃいましたか。

山岸
 実はこれは、今でもそうなのですが、基本的に来た球を打つというプレイスタイルでした。自分の専門や、やりたいことにこだわると、チャンスを逃すことになりかねませんし、分け隔てなくなんでもやろうと考えています。実際、全国紙の新人は、まず地方の支局に行き、そこで数年間は事故から高校野球までなんでもやります。そういったことを通じて、 世の中には、本当に様々な困り事、面白いこと、素晴らしいことがあるのだと学んだのが私の新人記者時代でした。

新聞記者としてのご経験が、政治家としての活動に生きていると感じる瞬間はありますか。

山岸
 何かあれば自分で行動し、現場で当事者からお話を伺い、そしてそれを言葉にするということを記者時代にしてきました。政治家としても、自分の中で消化をして、国会の質問や政策提言などをきちんと言葉にしていくという作業は、本当に新聞記者時代の訓練が生きていると思います。

当時、政治記者もされていましたが、その時に見ていた政治家像と、実際に国会議員になってからの政治家像に違いはありましたか。

山岸
 見るとやるとは大違いで、こんなに大変だったのかというのが率直な感想です。政治家は自信ありげに「私は○○です!」と言いますが、その決定までにはすごい葛藤があったり、様々な方のご意見を背負ったりと、プロセスでの苦悩があります。

 もちろん、近くで取材する中で見えていた部分も一定ありますが、氷山の上ぐらいしか見えておらず、その下に苦悩や迷いがたくさんあったことには、政治家になって初めて気づきました。もちろん後悔はしていませんが、思ったよりも大変だったというのが正直な実感です。


▹翁長知事からの学びと沖縄

山岸さんは、記者時代に沖縄で、当時ご存命だった翁長雄志さんにも取材をされたと伺っています。印象に残っていることや思い出などがあれば教えてください。

山岸
 翁長さんは、極めて現実的な方でした。元々自民党でかなり保守の方でしたが、安倍政権の沖縄政策がひどすぎるということで、その状況を動かすために言わば軸足を移し、左から右まで全部まとめてオール沖縄の枠組みを作り上げた非常に力のある人です。実際に政治を変えるためにどのような行動が必要なのかを極めてリアルに考え、そのために自分が変わっていくという、本当にリアリズムに根差した行動する人だったと思います。

 知事選の前は、彼が「オール沖縄」という運動を起こした頃で、見ている僕らも新しいうねりにすごいなと思っていたのですが、ある時那覇の居酒屋さんでお酒をご一緒した時に、翁長さんはポツっと「あんた方はそう言うけれども、どんな政治運動も 2、3年で変わっていくからね、やっぱ局面変わっていくからね。今盛り上がったものでも、未来永劫ってことはない、常に数年間で色々動いていくから、その度ごとに変わっていくしかないんだよ」と自身のことを仰いました。

 高い理想を持ちながらも、具体的に政治を動かしていくために、言わば自分が作った運動も数年で変わっていくということを認識した上で、 常に次の手を考えていくというリアリストの姿勢は、本当に勉強になりました。

翁長さんと言えば、「イデオロギーよりアイデンティティ」「腹6分」といった印象的な言葉や、元々沖縄の自民党幹事長をされていたところから真ん中に寄り、保守から革新までまとめられたことが印象的です。まとまるということでいうと、特に東京では野党がまとまって戦う必要がありますが、山岸さんが国会議員になられてから翁長さんの姿を思い出されることはありますか。

山岸
 翁長さんは本当に言葉の力をすごく大事にする方でした。「イデオロギーよりアイデンティティ」、「腹8分、腹6分」、「誇りある豊かさ」など、彼が残した言葉は私の中でも大きな宝になっていますし、やはり普遍性があると思います。

 2010年代の沖縄という非常に限定された特殊な課題に向き合われていましたが、一方で政治を動かしていくために何が必要なのかというようなすごく普遍的なことも仰っています。それぞれが自分たちの言いたいことだけ言っていたらまとまらないので、それを束ねていくリーダーシップが大切で、そのリーダーシップは言葉によってまとめ上げていくのだということを彼は実践をしました。

 理念を持ちながら、言葉の力で具体的な政治運動としてまとめ上げていく彼の姿は、日本中の政治家が今一度学ぶべきだと思っていますし、自分の中でも大きな座標軸として今後も大事にしていきたいと思っています。

沖縄での取材経験や、国会議員としての活動を通じて、山岸さんご自身は、今の沖縄の課題は何で、それをどのように解決すべきだと考えていらっしゃいますか。

山岸
 「沖縄の課題は沖縄の課題ではない、沖縄の課題は本土の課題である」というのが私の考えです。 よく「沖縄問題、沖縄の米軍基地問題」と言いますが、そのことに無関心・無自覚でいる我々の側に私は問題があると思っています。ですから、日本全国で自分事としてみんなが考え、関心を持ってくれるかということが、最大の課題だと考えています。

 実は東京も全く無縁ではなく、東京にも米軍基地はたくさんあります。やはり本土の人たちの意識が変わっていかないと、基地負担の軽減には繋がりません。例えば日米地位協定の中の1つの分野として、環境の問題があります。米軍基地から何かしらの異物が地下水に流れ込んでいるかもしれないのに、そこに立ち入り検査すらできないというのが日本の姿です。

 最近、東京の地下水では、「PFAS」という化学物質の濃度が高いのではないかという結果がでてきました。横田基地でその原因となる物質の漏出事故があったのではないかとも言われていますが、それすら僕らは調べようがなく、日本の環境省も防衛省も外務省も、調査しようとすらしません。それはやはり非常に理不尽な状況、はっきり言って不平等だと思います。

 こういった身近な問題から可視化し、いわゆる沖縄問題は、実は日本の安全保障の問題、僕らの生き方の問題であるということを言い続けていくのが、東京の議員として必要なことだと思っています。


▹政界の言葉の貧困化に向き合う

山岸さんは記者時代に、菅さんの番記者を経験されていて、現在国会議員としても、菅さんの率いる 「国のかたち研究会」に所属をされていますが、菅さんからは政治家としてどのようなことを教わりましたか。

山岸
 菅さんは、市民運動の活動家として総理になった日本の歴史上で唯一の人です。元官僚や、親の代から政治家という人が圧倒的に多い中で、菅さんはいわば身ひとつで総理まで上り詰めました。菅政権の政策的な評価、歴史的な評価としては、私も批判的な部分がないわけではありません。しかし、政治は国民のものだ、政治は市民の手にあるのだということを、人生をかけて実践した菅さんの政治姿勢の右に出る人はいないと思います。

 どうしても菅さんというと、震災や原発事故対応などの評価が先についてしまいますが、何もないところから立ち上がった政治家の生き様からは、学ぶものが大変多いと思います。今、日本の政治は超硬直化していて、3世、4世が当たり前というような世界です。あるいは、サラリーマンのように政治家になって落選したら食っていけないというのではなく、弁護士や医者、企業の経営者など、落選しても食うに困らないような人ばかりが政治家になってしまう今の日本の状況を考えた時に、菅さんのような政治家のなり方があるということは、僕らもすごく参考になりますし、今後、多様ななり手を広げていく上でも、菅さんの道のりを伝えていきたいなと思います。

菅さんも安倍さんも「政治主導」を掲げ、首相のリーダーシップを強化しようという方向性がありましたが、お二人を近くで見られる中で、首相のリーダーシップ内実にはどのような違いがありましたか。

山岸
 旧民主党には鳩山政権、菅政権、野田政権と3人総理がいますが、鳩山政権の掲げた「新しい公共」という概念は、私は今でも通用すると思っています。近年、非常に政治が硬直化し、インナーで物事を決めていくようになってしまったことで、みんなが政治に対して無関心になってしまっています。結果的に及ばなかった部分はありましたが、そうではなく、当事者を含めてあらゆる人に参加してもらうフォーラム、いわば円卓会議を作ることで、政治を活性化し、合意形成を深みがあるものにしていこうという民主党のアプローチ自体は、間違っていなかったと思います。

 民主党政権の崩壊後に誕生した安倍政権は、結果的にそういったプラスのものは受け継がず、結局政治主導という名の「安倍一強」、声の大きい人が決めるという政治になりました。すると、内輪の少数の取り巻きだけが絶大な権力を持ついわゆる側近政治、宮廷政治のようなものになるのです。そして、非常に政治が硬直化し、インナーで物事を決めていくようになってしまったことで、国民は政治に対して無関心になってしまいました。

 社会課題が多様化していく中で、決める力を強めることも必要ですが、そこに多様なプレーヤーが参加し、幅広い国民の生の声が入ってくることがセットで初めて機能します。 この2つを車の両輪として、回していくのがこれからの政治改革の方向ではないかと私は思っています。

学生時代のフィールドワークや記者としての活動から、言葉の力を感じたご経験はありますか。

山岸
 全てを魔法のように解決する呪文のような言葉はないと思っています。 言葉というのは、双方向なもの、積み重ねていくものです。ですから日々のあらゆる営みにおいて、1つ1つの言葉を大事にしていきたいと思っています。例えば駅前で朝、演説をしていると、地域の人から「あれはおかしい」「頑張ってね」などと声をかけてもらいます。そういった1個1個のやり取りをおろそかにしないということです。

 3年間国会で働いていてつくづく思いますが、今、本当に政治の言葉は貧しくなっています。総理と議論をしても、「その問題は大変重要でございますから、是非とも真剣に検討いたし、取り組んでまいりたいと考えているところでございます。」というように、全く中身がなく、何の責任もない言葉を交わすことになります。そういう言葉がありふれる中で、私はきちんと言葉と向き合うことを追求していきたいです。

 それは自分が、言葉を生業として 生きてきた人間なので、政治の世界においてちゃんと噛み合う言葉、国民の思いに向き合う言葉を日々紡いでいくということを1個1個トライアンドエラーしながらこだわっていきたいと思っています。

第二弾に続く…

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