水無月、呼吸
5月が終わった
ここじゃまだクーラーをつけていない
あの部屋はいつも涼しかった
あなたの歳は最後まで知らなかった
私は明日、二十歳になる
歪んだ背骨越しに注ぐブルーライトを光源にして、小難しい小説を読むふりをしている
あなたは1時間に3本タバコを吸って
私は3時間に1度吸い殻を捨てた
あなたとの共通点が増えるなら目が悪くなるのも悪くない気がした
ちらとこちらを見て小さく有難うをくれるあなたの
細い紺のフレームで縁取られた奥二重はこの世で一番美しい
それを見ると自分の事がどうでも良くなって、酸素がなくても生きられそう、
というより、別に、生きられなくても良いとさえ思った
何もできないならここであなたの吐く煙にジワリ殺されるのがいちばんの幸せだ、とさえ
もしあなたから文学を取ったらどうなるのだろう
「生きてるか」
そう言って振り返る生気のない顔が、馬鹿な私にとって唯一の文学だった
「楽しいか、ここにいて」
ずっとそんな、恥ずかしい事を思っていたのに
私はあなたと居なくても、文学がなくても、生きていけるようだった
「明日、高知に帰ります。多分お母さんから聞いてると思うけど」
生きるのには酸素と水と栄養があれば十分らしい
「タバコ、辞められなくなったな」
私は馬鹿だから、その意味が分からなくて何も言えなかった
「元気でな」
あなたは巻き寿司のお弁当と少し薄いお茶と左上をホッチキスで留めた文章を私にくれた
高知帰ってから暇だったら読め、とか、言ってた気がする
巻き寿司は酸っぱくて、お茶は甘くて、
そうしたらもうやることがなくなったのでまだ浜松を過ぎたところだったけど、二つ折りの紙の束を解いてくことにした
それは居候の女と親戚の男の話だった
高知は少し暑くて、駅を出ると彩度の高い空が広がっている
ここの空気が特別に美味しいんじゃなくて、東京のそれが不味かったことに気付かされる
それでも息がし辛いのは、
三、副流煙
また無くなった。最近1時間に3本じゃ賄いきれなくなっている。
思い描く情景を記そうにも出てくる言葉が荒く、うまくフィルターを通らない感じがして、また一本タバコに手を伸ばしてしまうのだ。
「最近少しペースが早いですね」
吐いた煙が灰皿を取り替える彼女の肺に滑り込み、私への優しい忠告として再び吐き出される。
「曽祖父も肺を悪くしていたようですし... あ、お茶いりますか?」
そう言いつつも綺麗に中身がなくなった灰皿をマウスパッドの隣に置き、とうもろこしの味がするお茶を注いでくれた。
私と彼女共通である曽祖父は、肺癌で亡くなった。
とはいえ正直、私は長生きに執着をしていない。さらに言えば恐らく、いや勝手な憶測だが彼女もそうだ。
それでもタバコの本数を気にするのは、身体の心配というより、執筆活動の明らかな不調を喫煙で誤魔化しているその不健康さがいたたまれなかったからだろう。
「程々がいいですよ、私もそろそろ読書をやめて寝ることにします」
繊細に睫毛で縁取られた瞳は、私のメガネなんてものともせず全て見透かすようで、どこか恥ずかしい。
「あぁ、わかった、吸いすぎない。あと1本吸ったら私も寝るよ」
彼女は少し頷いて二度瞬きをしたが、朝には山になっている吸殻のことなど、きっととうにバレているだろう。
程々が出来ないからこうやって二十五になっても就職せず、小説家を志してひたすらに文章をかいている。
程々などない、生きるか死ぬか、書くか書かないか、吸うか吸わないか、だ。
吸わない、か
いい機会かもしれない。
来月、彼女が20歳になったら一度だけ二人でタバコを吸って、それでもうタバコに頼るのは終わりにしよう。残り全部捨ててしまおう。
彼女の人生初めての喫煙と、私の人生最後の喫煙だ。
そうしてこれからは三時間に一度、吸殻なんかじゃなくて私の思う美しい文章を見せよう。
彼女の呼吸のリズムで瞳に流れる私の文字は、きっとまた書いていないことまで見透かされているようで恥ずかしくなる。
そうしてゆっくりと吸い込み、吐き出した言葉は私の紡げない繊細な温度で新しい閃きを与えてくれるのだろう。
なんだ、タバコなどとうに要らなかった。
私に必要なのは彼女で濾過された私の文学なのだ。
私と生活するようになり日記のようにしたためていたらしいその文章は、所々読み辛くて馬鹿な私では一度じゃわからなかったから家に着いて何度も読み返した。
私は明日、二十歳になる。
お弁当と一緒に入れられていた残り3本の赤いマルボロはあなたの匂いがして、副流煙よりずっと身体に悪い。
あなたに殺されることもあなたと生きることもできなくなった私はこれからどうしたらいいのでしょう。
生温い部屋で縋るように文字を綴る私を照らすのは、遮るもののない日光で、目が悪くなることも肺が黒くなることももうないのに、どうしようもなく呼吸は浅くて苦しいのです。