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『村木道彦歌集』読書会レポート

自己紹介

玉野勇希:短詩作家(短歌/俳句)/音楽家。最近はロッテ「爽」を再評価しています。

かみしの:歌人/文筆家 R・D・レイン『結ぼれ』の解説を書いています。魚醤の使い所に悩んでいる。

カリフォルニア檸檬:という名前でTwitter @y_aao しています

江永泉:この夏は、熱中症になり、こわれた。

玉野(以下、玉):はい。では、あけましておめでとうございます。

一同:あけましておめでとうございます。

玉:最近はどんなかんじですか?

カリフォルニア檸檬(以下、檸):とりあえず前回の、初回の反響があってよかったんじゃないですか?

玉:何かあれですね。面子が面子だからかあんまり短歌プロパーじゃない方も読んでくれている感じがあって。

江永泉(以下、江):ありがたいですね。

玉:ほんとに文字起こしした甲斐がありました。

江:本当にありがとうございました。

玉:でもこいつ(CLOVA NOTEアプリ)が結構活躍してくれたんでゼロからやったって感じでもなかったんですけどね

江:あ~。

玉:なんかどうですか、最近皆様活動など……。個人的にはかみしのさんにもご寄稿頂いた『崩壊系列2』が絶賛通販中です。というかんじ。

かみしの(以下、か):特になし。

玉:いやでもかみしのさんはレインの解説書かれたりしてたじゃないですか(笑)

か:あ~、レインの解説を書きました。R・D・レイン『結ぼれ』のね。河出文庫から刊行されているのでね……是非!っていうことで……。

一同:(笑)

玉:でもこれが公開される頃には刊行1か月くらい経ってる感じになりますけどね。

か:そうですね。是非是非読んでください。

玉:そんな感じですかね。

か:そんな感じです。いやでも村木道彦。まさかのタイミングで。
※この読書会は3/15(金)に実施しました

玉:本当に。あたかもなんか緊急読書会の様相を呈してしてますけどね。実は全然そんなことなくて。前回の浜田到読書会の打ち上げで、次は村木道彦かなみたいな感じで言ってたんで。去年の時点で、もう話はあったという感じで、本当たまたま時期がぶつかっちゃって。
でも、だからあれですよね、 今日収録しているのが3月15日で、文字起こしして公開されるのが4月の上旬、中旬。多分そんなもんだと思うんですけど。なんかどっか総合誌とか特集とかありそうだけどね。

檸:まぁ研究ですかね。

玉:ですかね~。(※8月上旬現在特にそういった特集確認できてません…)と、言う感じで読書会やっていきますか……。前回同様僕の三首選から。

※注※ 

全体的に、男性的な身体的特徴や性欲にまつわる話題や、それに基づくようなナルシシズムにまつわる話題が含まれる箇所があります


玉野勇希・選

せいねんの君に惨たる不幸あれふかぶかとして青きてぶくろ

玉:この歌はそうですね。でもまず読み下した時にまず目につくのは他の歌にも言えることなんですけど、村木道彦の歌の特徴ともいえる仮名の開き方。あえて「せいねん」の部分がひらがなに開かれていて。他の歌でも全部ひらがなで通してる歌もあれば、結構こういう風にあえて一部分だけをかなに開いてる歌もあって。

か:うんうん。

玉:それが歌の、一首のデザインとしてもすごい成立してるっていうか。 漢字の部分がバランスよく配置されていて。それで、多分気になってくるのはこの「君」っていうのが果たして主体にとって誰なのかっていうとこで。まさか天皇ではないと思うんですけど。

か:(笑)

玉:だったら面白いんですけど。それはないとして。この歌自体が『天唇』の中でも1番最初の「風に継ぐ」っていう連作の中から取ってきたんですけど。この連作自体は通して読んでも別にそうと言われている示唆が別にあるわけではないんですけど。なんとなく、多分誰が読んでもこの「君」っていうのは主体自身のことなんじゃないかって読める感覚があると思っていて。それはなんでかって言うと、この「せいねんの君に惨たる不幸あれ」の三句目で綺麗に切れて、その後下句が続いていくっていう形でになっているんですが。上句はこれ所謂文語体なんですよね。で、下句はこれが口語かどうかっていうと怪しいところではあるんですけど。
「ふかぶかと」のこの母音が「う」の音で低く始まる感じっていうか。そこら辺もやはり他者に呼びかけてるっていう感じじゃないと思うんですよね。なんとなく。だから自分自身にこう「不幸あれ」と。ある種の自虐的っていうんすかね。なんかそういう気分の時って人間まあまああると思うんですけど。

檸:「ふかぶかとして青き手袋」は冬、ですかね。

玉:うん、そうですね。村木道彦自体、この『天唇』もそうですし、今日かみしのさんが持ってきてる『存在の夏』もそうだけど、結構な夏の歌人のイメージあるんですけど。第一歌集『天唇』は最初の冬から始まるっていう。

檸:やっぱ「君」って言うとどうしてもバイアスとして相聞歌バイアスで異性ってことになるところが、村木光彦が男だということに前提にしてますけど。わざわざ青年のっていうのを入れてるのは、結構テクいっていうか。

玉:たしかに。

檸:でも青年の君って言ったら、なんですか、二元論的にしてしまうと女ってことになるけど……

玉:確かにあえて結構そういうBLっぽく読むっていうか、そういうのも不可能ではないと思うんですけど。自分はやっぱり自分自身への言葉っていう読みのほうが通るかなと。

江:でも春日井(健)さんはめっちゃBLやられてますよね。

玉:確かに春日井健が解説の方でそういうこと言ってる。春日井健自身が結構そういう読まれ方をしている歌人でもあるし。

江:そうっすね。

か:でもやっぱこれは青年。多分青年はいるんだろうけど、鏡像としてというか、鏡写しに自分に帰ってきていて。 だから、ナルキッソス的というか。結構全体的にそういうところはあると思うんですけど。「青きてぶくろ」っていうのは普通に実景として取ればいいのかな。学生闘争の時代だから何かあったりするのかとかは、ちょっと思ったり。つまりブルーカラー、ブルーストッキングが響いていたりという。

玉:そういう歌も結構多いし。「ノンポリの~」みたいなことを解説で書かれてたりとかもして、うん。

江:「せいねん」がひらがなで、「青き」の「青」の感じはかなりキメてきてるなって(笑)

玉:手袋もそうですね、うん。 手袋がふかぶかとしてるっていうのもなんか絶妙な感じですよね。

か:ある種身の丈に合って無さみたいなことなのかなって。

玉:あ~そういう。

か:ふかぶかとしてっていうのはどういう……

玉:すごい厚手の、なんかこう、なんかふわふわっとした、すごいあったかい手袋みたいな話ではなさそうではないですよね。

檸:「ふかぶか」を経由した先に「青き手袋」があるっていう状態かも?
例えば、コートのポケットの中に手を入れたら、深々としたところに「青き手袋」があるっていうパターンか、それかその手袋の中に深々と手を入れた時に 青き手袋って認識してるのかどっちかなって気はしてるんですけど。

玉:あれですよね、わざわざ「きみに惨たる不幸あれ」って言ってるのに、手袋っていうのは少なくとも寒さから手を守るためのもので。そこは結構なんか相対的にされてるっていう感じ なのかなとか思ったり。

江:なんかふかぶかと青いのかと思ってて。

玉:なるほど、そっちにかかる。

檸:あ~色の話をしてるっていう。

玉:ネイビーってことですよね。

江:ちょっとそうすると話が変になっちゃうかもしんないんで。

玉:いや、でもそれもありだと思います。

江:上で青年って引っ張ってるから手袋って言ってるけど、なんかめっちゃた単に手がツヤツヤしてんのかな。みたいな。青臭い手をしてるのかな、みたいなのをちょっと妄想させちゃうところがある気がして。なんか耽美はまりそうですね。

玉:でも確かに気がついたんですけど、これ全部ちゃんと漢字にしてたら、「青年の青」と「青き手袋の青」 で、青の漢字が2個かぶるんすけど、「せいねん」をひらがなに開いてるからそれがぶつかってないっていう。

檸:ね。過剰演出感っていうか、キメてる感としては、ちょっとやりすぎている感が(笑)

江:解説でもちょいちょい言われてましたね。来る歌はすごい来るっていう感じで。

玉:冒頭から読んでいくと、この歌は結構僕的にはピンと来たっていうあたりでしたね。この歌、とりあえず大丈夫ですかね。では二首目

性欲に疲れしわれは なんのとりいちわのとりにのぞかれしかな


玉:これはなんかもう、まずわかる……っていう。

か:(笑)

玉:なんか最近、石川義正『存在論的中絶』読んでて。そう、なんかその流れで、ベネターとかショーペンハウアーとか読み返してたタイミングでもあって。 それでこの歌自分でとったから、何話そうかなと思って、すごい考えてたら千葉雅也がTwitterで男性のマスターベーションと女性の生理を並列に話してちょっと炎上してたこととかもすごい思い出しちゃって……。

檸:ありましたね。

玉:あ、それで鳥っていうのが、唐突なんですけど。で丁度『存在論的中絶』を読んでいたら書いてあって初めて僕は知ったんですけど、なんか鳥って8割ぐらいの種類はペニスがないらしくて。

か:へぇ~

玉:そう、それを村木道彦が知っててこの歌を作ったかどうかわかんないんですけど。でも、なんかやっぱりすごいそういう連想もあるし。あとは結構タイムリーなところで言うと、『 君たちはどう生きるか』も、思い出したりとかして。鳥ってなんかやっぱり恐竜が鳥に進化したみたいなこととかも言われたりするぐらいで基本的になんか目を見ても何を考えてるかわかんないっていうか外部として存在してる感じがすごくあって。
鳥に覗かれてるっていうのは象徴的なのかなって。

檸:ひらがなだから「とりにのぞかれ」=「取り除かれ」の可能性ある? でも「覗かれ」ですかね?

玉:そっちもいけなくはないけど「覗かれ」ですよね。

檸:「に」が邪魔になっちゃいますもんね。

玉:でもこの歌もやっぱり三句以降が全部平仮名で開かれてて、だからそれこそ誤読のリスクが高まってくるんですよね。「かなに開く」って言い方をするくらいだし、こう読者の方にあえて任せるようなオープンな感じになる。

檸:ちゃんと何の鳥って言ってるから大丈夫ですけどね。

玉:でもそこの分岐は把握してる可能性はあるのかもしれない。

檸:うん。これも鏡像的っちゃ鏡像的じゃないですか。「なんのとり」と「いちわのとり」は別……言ってることわかります?

玉:はいはい。

檸:同一の鳥だとすると、下の「いちわのとり」に覗かれてるのって自分で自分の覗いてる的な鏡像?

玉:わかりますわかります。「なんのとり」は主体のことで、「いちわのとり」は他者的な。

檸:そう、だと思うんですよ。その「なんのとり」ていうのは、その種類のバードのことを言ってて、「いちわのとり」っていうのはTHE鳥なんだけど、それがその、 イコールじゃないと思うんですけど。イコールだとすると覗かれしかな。と言いつつ、覗いてるのは私だ。そして同時に、私が覗かれてるみたいな。

か:視線の同化みたいなのはあると思いますね。やっぱり。

玉:鳥同士が向き合ってるみたいなことですか?

檸:客観視だと思うってわけです。その客観視の視点が鳥になってるだけで、私は人間のままで、「なんのとり」

玉:なんすかね。この鳥が自分のペニスっていう可能性もあるんだろうけど。

江:ナルシシズムみたいなので言うと、あれですかね。鏡見ながらマスターベーションして賢者タイムになってから自分を見てるみたいな。なんかいくつかの歌で、なんか「男の液」みたいな単語も出てきていて。

檸:性欲に疲れたっていうのは、要するに自慰をして疲れたっていうことですか?

玉:この1回のマスターベーションかわからないですけど、でもいずれにしろ、翻弄されてるんですよね。自分の性欲に。

江:さっきの 自分で自分を見てるっていう話で。自分で自分に興奮して見てるのが、単に自分がなんだこれと思って見てるのか。さっきのBLっぽさみたいな話とかと被ったりもするし。あと、やっぱこれも性欲だけ漢字熟語なのずるいっすよね。

玉:この歌もやっぱり結句が「かな」っていう切字で。結句は文語体なんだけど、それ以外はやっぱり口語の感じで。村木道彦って定説として、「現代口語短歌の祖」みたいな感じで言われたりもする。俵万智が『短歌をよむ』で影響を公言しているのも凄く象徴的ですが。俵万智自身もやはり文語と口語がシームレスに入り混じったような文体の歌を作る方ですが。それの原型になったようなスタイルって感じしますよね。

じょっきりと重くおとたて切落す薔薇をうなじの細き少女が

玉:切り落とされた薔薇と、切り落としている少女の首がリンクしてるっていうか。この歌の中で繋がってるように読めるんですけど。僕がこの歌いいなと思ったのは「じょっきりと」なんですよね。

か:うん。この一首の「じょっきりと」いいですよね。

玉:これ所謂オノマトペなんですけど。村木道彦って改めてこれ読み返すまで旧かな遣いだと思い込んでたんですけど恐らく全首新かな遣いで作ってるんですよね。で、村木道彦の作風って、なんか現代の歌人で誰が近いかなって考えた時に1番最初に思い浮かんだのは山田航さんで。特に初期の山田航さんの屈折した感じを連想したりして。
で、山田航さんも第三歌集以降新かな遣いに移行されているんですが、捨て仮名が使えるとやっぱりオノマトペがすごく立つなと感じたのを思い出したり。

檸:「切り落とす」で三句切れなのはすごいんじゃないかって思って。 でも、それをすごいなと思うときに、いや「おとたて」の方が結構すごいんじゃないか? っていうのもあり。

玉:仮名開きになってるし。あと、偶然ですけど僕がとった歌。これ、三首とも三句で切れる感じですね。

か:村木道彦ってなんか、少女の首にめっちゃなんかフェチズム感じてないですか。首の長い少女の歌がめちゃめちゃあって(笑)

玉:だからそういうことやってると性欲に疲れちゃう(笑)

檸:でもこれは別に村木道彦に限らずのなんですけど、なんか習作を作る過程で習作を作るモチーフみたいなのがだいたいそういうところにあるみたいな説ってありません? こういうモチーフをとりあえず習作期に作るみたいな……

玉:うん、大ネタっていうか。確かに少女の首とかは、うん。1億首ぐらいありそうみたいな。

檸:そうそう。なんか今はともかくとして、ある時期の人だいたいとりあえずそういうとこ経てるんじゃないかみたいな。

か:この歌を読んだ時にものすごく古風な歌だなっていう感覚が。つまり、他の歌に比べると、ということですが。なんか「じょっきりと重くおとたて切落す」までやってなかったら何かを真似して作ってるのかなって気すらしてしまったかも。

玉:確かに。なんかその、その時代の耽美って感じですよね。うん。

江:首長い少女って聞いて何イメージします?

玉:なんすかね。難しいですよね。多分首が短い少女の方が珍しいかもしれないですね。

檸:生物学的に? 適当なことは言えないですけど。まぁでも誰と比べて細いんだっていうのはある。でもうなじが細いんですよね。

江:でもうなじが細いっていうのは総体的に首が長くなる。

か:でも、なんかイラストとかだとすんなり想像ができる。中原淳一とか。今だったら、あの人なんだっけ。アジカンの……

檸:中村……なんだっけ……(※中村佑介でした)

江:なんか割とイラストっぽいのかな、みたいな、うん、思ったりもして。

玉:でも、なんかこの切り落とされてる薔薇と少女の首をこう重ねてるのが事実で。すごいなんか加虐的なんですよね。怖い欲動を感じてるっていうか。

江:「じょっきり」も音として不穏ですよね。ちょっと鈍い音してんだよな。

玉:なんか僕がとった三首でなんかちょっと連作っぽいですね。たまたま僕が自分の最近の関心に引っ張られてる可能性はあるんですけど。村木道彦トピックとして割とこう出ているところをとったみたいな感じになってるのかもしれない。じゃあそんなところでかみしのさんお願いします。

かみしの・選

フランシーヌのようにひとりであるけれどさらにひとりになりたくて なつ

か:『天唇』って1974年ぐらいの歌集なんだけど、なんか全然今であってもおかしくない感じの、ものすごく現代感がある歌だなっていうのはまずありつつ。
で、村木道彦の歌は一字空けが全体的に多くて。そこにキメてる感っていうのがどうしても出てくる。人に見られてる私みたいな、そういうことへの意識が強くあるっていうのはまず前提として多くの歌にあって。

玉:うんうん。

か:で、この歌に関してはなんだろうね。フランシーヌって言った時に、きっとフランス人女性の孤独な、深窓の令嬢みたいなのがいて。それでその人が1人なんだけど、でもそれよりもっと1人になりたくて夏という季節を希求するみたいな構造になってるんだけど。このフランシーヌってちょっと調べてみたんですけど。1969年に焼身自殺した人がいるらしくて。

玉:へ~

か:初出がどこかわかんないんだけど、少なくとも歌集が刊行されるよりは前の出来事。そのフランシーヌなのかなって思ったりして。1969年って色々見ていくと、その1ヶ月前にも焼身自殺してる人がいて、その1ヶ月前にも焼身自殺してる人がいるっていう、3ヶ月連続焼身自殺があったみたいです。政治の季節なので、抵抗の手段としてそういうのを選んでる人たちがいて。で、その一人である江藤小三郎って人は日本人で、三島由紀夫の自決に影響を与えてるらしい。
だから、フランシーヌって言った時に、実はその後ろにはそういう人たちのことも透けてんじゃないかなって。だから表面的に政治っぽい歌っていうのはないように見えるんだけど、なんかこういう形で政治との距離を取りつつもそういう意識っていうのはどうしようもなくあったのかなっていう。同時代的なものがっていうのはちょっと思うとこでしたね。
江:燃えたフランシーナさんのエピソードみたいの見たら、あれみたいですね。なんかそもそもフランシーヌさんがベトナム戦争とかに心を痛めたりなどして、結構感じやすい人だったみたいで精神科にかかったりして。で、その焼身自殺して。で、フォークソング作った人が日本にもいて。歌詞が「フランシーヌの場合はあまりにも寂しい、3月30日の日曜日、パリの朝に燃えた命1つフランシーヌ」みたいな歌詞の歌だったらしくて。で、これがなんか反戦フォークソングとして一応 知られてるらしいですね。
か:そう思うと、この夏っていうのも実はいわゆる感性的な、我々が感じるような夏みたいなのとはまたちょっと違った、例えば敗戦っていうものの香りがしてきたりだとか。あるいは熱い炎の連想ってこともある。でも、一読してそういうのはかなり脱色されて今でも単に孤独みたいなのを歌う歌として、存在しているなっていう。

江:うん

か:連帯するものとの距離の置き方みたいなのはなんか感じるかな。「フランシーヌのようにひとりであるけれど」って、焼身自殺を選ぶような孤独っていうのもあるでしょうし、社会の中で連帯した人たちが迎えてしまった孤独な決断とか、そういうものへの目配せも感じる歌で。全体的にひらがなで開かれている感じは、単にデザインとしてすごく好きです。
玉:僕もこの歌、実はとるか迷ったんですけど。でもかみしのさんの話を聞く前までフランシーヌって、僕の知識の範囲だと1番最初に思い浮かんだのはデカルトのフランシーヌ人形の話で。デカルトは娘を5歳で亡くしてしまって、その後フランシーヌと名付けた人形を生涯連れて歩いたんだ。みたいな話があって。でもこれなんか諸説あって普通にフェイクって話も あるんですけど。でも結構有名な逸話で。

江:うんうん

玉:でも、だとすると、フランシーヌ人形はずっとデカルトに連れ回されてたわけだから、1人じゃない、1人じゃないんだけど。でも、その本当の方の5歳で亡くなってしまったフランシーヌの魂は孤独なんだみたいなそういうのも踏まえているのかなと思ったり。でも、かみしのさんの説のほうが説得力はだいぶありますね。

江:評論の「ノンポリティカルペーソス」で、福島(泰樹)さんの第1歌集に、デモとかの話してるやつで政治的には別にどうでもいいけど、めっちゃ感動したみたいな、なんかすごい評価の仕方して。そういう社会的な話とかで通常読まれるものを、すごい美とか性とかで評価してる感じがあって、この歌もそういう感じのあれだったのかな。みたいなことをさっきのフランシーヌさんの話とかで思ったりして。

玉:福島泰樹はだってゴリゴリですもんね。ゴリゴリの活動家というか、その学生運動の 中心にいたような人で。村木道彦「agitationとばすとばすつばきがくちびるにまつわるところみているばかり」って歌ってるくらいだから、やっぱりアジを飛ばしてる人を見てるだけなんですよね

江:そういうエネルギーが好きみたいな感じなんですかね。

玉:いわゆる冷笑系みたいな感じなんですかね、今で言うと。

か:その気がないかと言われると、なくはないかなっていうのが、ちょっとする

江:ただ、その馬鹿にしてるっていうよりは普通になんかエネルギッシュでめっちゃいいっすね。みたいな。

か:僕はちょっと無理っすけど。みたいな。だから慶応ボーイだから、みたいなことを評論でも書かれていて。めちゃくちゃなこと言うなと思いながらも、でも、わかるところはある。東京と言ったら早稲田、みたいなところで、慶応でやってるみたいな。なんか連帯してるものとの距離の置き方みたいなのはちょっと全体的に感じたかなっていうところですね。

玉:でも、コミットしないなら何もしてないのと一緒だよ、みたいな事いう人は今でもいますからね。


たまきわる ひとを愛せぬそのゆえにたれをも愛す星の数ほど

か:これもなかなかキメた感じの……人を愛せぬから誰をも愛すみたいな。星の数ほど。うん、500いいねみたいな(笑)

一同:(笑)

か:パンチラインとしていいんですよね、単純に。誰も愛せぬから誰でも愛せるみたいな、この感じですよね。しかも星の数ほどとかベタベタのことを加えてくるみたいな。フレーズの力みたいな。村木道彦の歌はそういう求心力がすごくあるんだろうなっていうのは思う。

玉:うん

か:これやっぱ「たまきわる」が結構変で。いわゆる枕詞だと思うんですけど、それをあえてここで一字空けして分断してるみたいな。やっぱここにもそういうなんだろう…… 連帯してる歴史とか文化みたいなものへちょっと距離を置くみたいなポジショニングをちょっと感じないではない。

玉:うむ

か:一般的に短歌で「たまきわる」とか使おうと思ったら、斎藤茂吉みたいな「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」みたいに使うと思うんだけども、 あえて一字空けて分断してるっていうのは、そういう意識を感じるかなっていう。

玉:なんかサンプリングみたいな感じですよね。

か:サンプリングみたいな、かもしれませんね。

檸:今流行ってる感じの

玉:あ~何か丁度この前Twitterで見ましたね。青松さんと堀田季何さんがやってるやつ。「ネット歌枕発掘プロジェクト」

か:みたいな、に近いのかもしれません。

玉:逆に言うと、この時代の短歌プロパーってそういう枕詞みたいなものって標準装備だったって感じですよね。多分。

か:そうだと思います。

檸:じゃないとここまでやりきれない一首ですよね……

玉:「たまきわる」と言ったときになんか全員がある程度さっきかみしのさんが話したみたいな用法をある程度こう、 理解してくれてっていうか。下句はなんかホストみたいな感じですよね。

江:あー、 それで言うと「たまきわる」って漢字で書いたら、魂が極まってるってことですよね。

玉:一億円プレイヤー!みたいな。

か:「たまきわる~」ってこの歌が書いてあるトレーラーとか走ってもおかしくない(笑) 

玉:たしかに(笑)

か:だから本当現代的な心象なんですよね。やっぱ人を誰も愛せないから誰でも愛すんだみたいな。

江:すごいボカロの曲でありそう。どっちかっていうと多分今だとボカロで女性キャラクターがこれを歌ってます。

か:そう、そんな気がします。ラビットホールとかこんな感じじゃなかったかな。DECO*27とかの感じありますね。

玉:今ね、twitterも「イイネ」になっちゃったからあれだけど。昔は「ふぁぼ」で★だったから。それこそ「星の数ほど」って感じで……

か:バズるな、これは(笑)で、このやっぱ星の数みたいな、そのロマンチシズムをどれぐらい意識して使ってんのかみたいなのがちょっと気になるところではあるけれど。

すてしこと それよりにがきすてられしこともあんずの花さけるころ

か:これは多分、村木道彦で一番有名な「するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら」とセットみたいな歌だと思うんですけど。

玉:うん

か:だからなんか、かなりナルシストというか。身勝手なことを感じていて、連帯的なものとは距離を置きたいんだけど、捨てられるのは嫌だみたいな。そういう感じ。そこの人間臭さが魅力的に映るんだけど。「あんずの花さけるころ」って春だと思うんだけど、ある春に巻き込まれたアンビバレンスみたいな。よく村木道彦について言われるように、青春詠が特徴のひとつだと思うんですが、そういうものが明確に見える歌だなっていう。

江:同じ動詞とかを使うのためらいなくやるのがすごいなと。このタイプの技をすごいいろんなとこで、村木さんの歌集の中で見た気がして。キマってる時とキマってない時はあると思いますけど、めちゃくちゃなんか 思い切りがいい感じがして。

檸:なんかこの、一首に同じ単語を二回つかうっていうリフレイン的な技法があるときに、村木短歌にとっての効果としては「さらに」だと思ってて。だからどっちかっていうと、二回目の時が一回目よりも上位というか、でかい。上だみたいな、その自我は結構あるのかなみたいな。しかもなおかつ、私の方が上みたいな書き方をしている。

か:うんうん。フランシーヌの歌もそうですよね。ちょっとだけ話がずれるんですが、自意識みたいなところかもしれないんだけど。結構「おっ」って思ったのは、連作のタイトルなんですが「僕の部屋に日が当たる」っていうのがあって。「マジで?」って思ったんです。(笑)

一同:(笑)

か:なんかすごいなって。「するだろう ぼくをすてたるものがたり~」の「ぼく」もそうだけど、やっぱこの「ぼく」っていうのは……ひらがなの「ぼく」の意識って結構特徴的に感じていて。やっぱ一般的にやっぱ「ぼく」って思い浮かぶのって村上春樹だと思うんですけど。

檸:はいはいはい。

か:で、村上春樹よりも前に、庄司薫っていう人がいて。『赤頭巾ちゃん気をつけて』っていうのが出たのか1969年。「するだろう ぼくをすてたるものがたり~」の歌はあれって『ジュルナール律』に出てるから、多分64年とか65年とかでもっと早いんですよね。だから相当早く文学に「ぼく」を取り入れた人で。

玉:(笑)

か:これなんかまた別の本で読んだんですけど、「僕」っていう一人称をよく使ってた人って吉田松陰らしいんですよ。要するに幕末志士というか、維新の仲間内のなんていうのかな……お互いに「僕」っていうのを使えば、なんか君も同士だってわかるみたいな。そういう連帯の合言葉みたいに僕っていうのは使われてて。で、全共闘の時にもそういう「僕」の使い方は残っていた。だけどその反動として、村上春樹的な「僕」、社会に連帯する「私」に対しての「僕」がでてきたっていうのがあって。その2つの方向性があるとき村木道彦は後者の方。連帯っていうものに対してのアンチとしてというか。距離を取った「ぼく」みたいな使い方をしているところがあるなって思って。

江:あー、そっか。『天唇』が1974年で、森田童子って1975年とかだからほとんど一緒の頃。

玉:なんでしたっけ。なんかあんま詳しくないからあれですけど「しらけ世代」みたいな言葉ありますよね。あれって全然被ってないですか?
江:ある程度は被ってるはず。あれっすよね、その上の世代が全共闘とかがいて。その次の「しらけ世代」っていう。

玉:でも、やっぱ若干だけど村木道彦の方が上になるのか。やっぱり「しらけ世代」よりは。でも、それを先駆してるみたいなこととしてもあるのかもしれないし。

か:うん、団塊の世代が1949年となるんで。それよりもっと6年7年ぐらい早いから。世代としてはかなりみんなで盛り上がってる政治闘争になんか乗り切れずに外側から見てるっていう類の文学というか。

玉:うん

か:1人っていう、なんかそういう……同時代的なポジションっていうのはなんかあんまり見たことがなくて。そういう位置付けなのかなって思ったりしたっていうのは要するにデタッチメント的な「ぼく」みたいな、とは思ったかな~っていうところでしたね。

カリフォルニア檸檬・選

なにとなくあやむるこころわきいずるひなかひぐれのごときひととき

「逆説にわれは溺れて」

くさはらにかぜいでしのみ鮒つられ持ちさられたるあとのゆうやみ

「逆説にわれは溺れて」

なつ真夏葉月八月ガラス越し玉の緒のごと蛙《かえる》を見たり

「葉月八月」

檸:はい。じゃあ次の三首選は纏めて話します。もともと村木道彦の前情報からすると、自分は読んでおくべきだなと思ってはいたんですけど、この機会に玉野さんから本をお借りして、まぁこの辺りじゃないかなと思って三首持ってきました。なんでしょう、偏りとしてはだいぶわかりやすい偏りかなと思うんですけど……。

玉:ふむ

檸:どっちかっていうと私と関係なく動く時間、みたいな感じかなっていう気がしてて。私が動かなくて周囲の時間は動いているみたいなところかなっていう気がしていますね。なんか、二首目の「つられ」とか、かなり気になるところなんですけど。「鮒つられ」ってなんなんだろうって。なんか釣りをしてるのは私じゃなくて釣り人がいて。みたいなことですよね、おそらく。で、たぶん私は一緒に釣ってるのかもしれないけど、私の方は特に何が起こるわけでもなく。鮒を釣った人も帰った後の夕闇、みたいな状態みたいな。

玉:うんうん

檸:一首目は後半のこれ全部ひらがなですけど。下句の「ひなかひぐれのごときひととき」の「ひ」

玉:うん

檸:「葉月八月」は結構いい語感と思ってて。なんかタイトルでなんか良かったのが「水の夕暮れ」もなんかこの本の流れで見るとだいぶいいワードだなと思ってたんですけど「水の夕暮れ」が入ってる一首は「ちょっと、どうだろうか……」と思って。イマイチかなと思って持ってこなかったんですけど。決して「神経衰弱」っていう単語が入ってるから、ではなく。っていう弁護は一応しときたいんですが。三首目も「八月」と言いたいがための「なつ」な気がするんですけど。

玉:なんかすごい皆さんがとった歌を俯瞰した時にすごい思ったのが。やっぱりその村木道彦はいわゆる現代口語短歌のその原型みたいに言われるだけあって、というわけでもないですけど。檸檬さんがとった歌は檸檬さんの歌っぽさがある。

檸:そのあざとさは諸説あるところでもあるけど(笑)

玉:かみしのさんがとった歌はかみしのさんぽさあるし

か:それはちょっと思いましたけどね。

玉:でも韻律遊びみたいなのはやっぱりここまでに話した歌よりやっぱりすごい顕著にある感じがする。「ひなかひぐれのごときひととき」「なつ真夏葉月八月」とか。

檸:なんか自分がキャッチしていた前情報からすると、こういうのが多いのかなって思ってたんですけど、意外と少なかった。

玉:なんか唐突に別の話しちゃうと。三首選以外でとるか迷ったけど取らなかった歌だと「失恋の〈われ〉をしばらく刑に処す アイスクリーム断ちという刑」 これとかすごいなんかいわゆる青春詠。愚かな青春って感じでいいなとか思ったりとか。

江:アイスクリームどんぐらいの値段したんですか?

玉:そういう問題ですかね(笑)でも確かに今よりは高価だったかもしれないですよね。

江:いやでも……よくないな(笑)だから慶応ボーイだからめっちゃオシャレなアイス食べてるのかなって。

か:確かにアイスクリームを普段から食べてるやつって、もしかしたら今とちょっと違うかもしれない。

江:なんかこの中で村木さんのことを回顧してる人が言ってる早稲田はなんかすごい土の匂いとかしそうじゃない。アイスクリームとか洒落たもの食ってる人いなさそうな。

か:しかもちょうどそのページの上のスペアミントガムとかなんかね。

玉:ちょっと調子こいてる感じがするんだよね。この歌めっちゃいいですよね。「スペアミント・ガムを噛みつつわかものがセックスというときのはやくち」

か:檸檬さんがとった一首目について言うと。この「あやむるこころ」ていうのはやっぱどうなんでしょうか。塚本邦雄を意識してるのかどうか。

玉:それ絶対かみしのさんが言うと思った(笑)

か:(笑)『感幻樂』に入ってるんだけど、『感幻樂』って1969年なんですよ。そこは結構むずいところで。実は第二歌集の『存在の夏』の方にも塚本邦雄の歌をサンプリングしてんのかなみたいなのがあって。「似てはるかなれ」という文字列の含まれた歌が入っていて、 塚本邦雄の歌にも「 ほほゑみに肖てはるかなれ」っていう有名な歌がある。でもなんだろう、本歌取りっぽくないんですよね。本歌取り的な借用の仕方じゃなくて、サンプリングっぽいんですよ。同じようなもんとは思うんだけど、もうちょっとポップな取り方をしている。

江:ハイパーポップ(笑)、私は好きです。

玉:いや、でもなんかそれこそ歌論の「ノンポリティカルペーソス」でも結局岡井塚本の話してるから、うん。そこは当時のスーパースターとして。当時のっていうか今でもスーパースターですけど。

か: 「似てはるかなれ」も「あやむるこころ」も有名で、本歌取りしやすいから。

玉:「あやむるこころ」に関してはちょっと短歌やってる人だったら大体暗誦できますもんね。そんなことないか。

か:三首目すごいいいですよね。

玉:「玉の緒のごと蛙《かえる》を見たり」。その前の歌は鮒だし。

檸:意外と動物がいる。てか意外と田舎感ってことですか?

玉:慶応だとね、なんかもっとアーバンな感じしますが。まぁ当時は……

檸:いたかもしれないですけどね(笑)

江:なんか最近のみたいな話にはすげえ結びつけてるからなんですけど、脳内で浮かんだのが「感傷マゾ」だったんですけど。

玉:あ~

江:なんかそう全部ぼんやりしたり、ふわっとしたイメージがあって……すいません、全然説明になってない。

玉:でも、これもガラス越しだから、

江:そうですね、だから全部バーチャル感ある。さっきの少女イラストっぽい人とも多分自分の中では割と感覚的に近いです。なんか自然の風景とかも全部これゲームの「僕の夏休み」みたいなイメージしちゃうとこがあって。っていうのもちょっと変っていうか言い過ぎかなっていうのはありますが。

玉:まあまあ。ちょっと話戻りますけど。48ページの一首目の「会社員銃砲不法所持というちいさき記事をうつ夏の雨」とか二句目まで漢字だけで押してくる感じとかはなんか塚本影響感ありますよね。

か:いや、イズムを感じる歌は結構ある。

江:19ページの「自衛隊青年将校立像と積乱雲と――われはゆめみき」とか。

か:ダッシュね。ダッシュもありがちですね。

江:これ「自衛隊青年将校立像」と「積乱雲」っていう漢字を使いたかったんだなっていう。

玉:ダッシュ最近の歌人使わないですね。

檸:う~ん、だれかいるかな。

玉:石井辰彦さんとか使ってる気がする。

檸:使っている。

江:でも、自衛隊と青年将校って全然関係ないはずじゃないですか。だからすごいちゃんぽん感がすごいサンプリング感というか。

玉:仮名開きを得意としてるから漢字で押してくるところは、やっぱわざとやってるっていうか。すごく意識が働いてるんだろうなって感じがする。

か:ひらがなに開くっていうのは彼が編み出した技法なんですかね。

玉:どうなんすかね。これ以前にそういうスタイルの人がいたかどうか。
か:塚本邦雄は韻律において革命を起こしたから、俺はじゃあ仮名開きについて革命を起こそうみたいなそういう方法論なんだろうか。ちょっとそれはまた宿題という感じです。

玉:結構定型しっかり目の歌が結構多い中で、かみしのさんがとった一首目とかは初句七音なんですよね。初句七音の歌って他にもあるのかな。なんかあんまない気がするんですよね。

檸:これの句跨りはすごくいい。

玉:26ページ下段一首目、「蔵書をうりはらいしのちのたましいにしょうじょうとしてなつはきりけり」この歌付箋つけてるんですけど『崩壊系列』に江永さんが寄稿してくれた連作にドゥルーズの本売りにいく歌とかあったじゃないですか。それとか思い出して。

江:いや、そうなんですよ。だからそれ見た瞬間に自分のやつを思い出して。ブックオフでそういえばあれ売ったな~とかちょっと色々思い出して切ない気もしました。

江永泉・選

こうこうと空《くう》にうかべるしろき雲何月何日とは識らねども 

「何月何日とは識らねども」20

江:村木さんは歌読んでて、言葉に引っ張られて次の言葉出してんのかなって思う時が結構あって。例えばさっきのカリフォルニア檸檬さんの「なつ真夏葉月八月ガラス越し」とかはここまで一気に作ってるというか。なんかそういう風に、ひょっとして歌作ってるんじゃないかみたいなことを感じるやつがちょいちょいあって。この歌も「こうこうと空《くう》にうかべるしろき雲」、ここまでをポンって作って下を足したのかなみたいな感じの作り方してんのかなっていう風に読んでたんですけど。「何月何日とは識らねども」っていう連作が一応風景の話をずっとやってる歌のはずなんですけど。リアリティない感じっていうか。ディティールが全然ない感じがして。どっちかっていうと頭の中でお題っていうかイメージだけ膨らましてわーっと、歌作った 感じなのかなっていう風には思ったんですよね。


玉:うん

江:で、そういう風に考えながら見ると逆に何月何日とか知らないのかっていうのが、いつのイメージかもよくわかんないようなある意味希望っぽい感じで。「こうこうと空《くう》にうかべるしろき雲」だけど「空」って言ってるし本当に空っぽな空というか。すいません、なんかあれです。ちょっと自分の感覚に引っ張りすぎだと思うんですけど。だから3DCGのなんにもオブジェクトのない青い空の、なんかゲームのあれに雲をポンと置いてみたみたいな状態をイメージして。そういう感じっていうのを、なんかデジタルとかない時代にやったって考えたらすごいなみたいな感じで読みました。この歌あげてみたって感じでした。あと、ちょっと僕が「こうこうと空《くう》に」とか繰り返してるとテンション上がってきちゃうんで……(笑)

一同:笑

玉:所謂韻律が良いっていう。「何月何日とは識らねども」っていう連作の一首目であり、表題歌なんですよね。

江:そうです。この浮かべるって変ですよね。

檸:だいぶ能動的なあれかなと思ってて。おそらく言われてたところの、能動的に作歌してるところにって浮かべてる感じというのは確かにわかりますよね。
なんですか。デジタルバーチャル空間に雲をぽんって置くみたいな。浮かべるっていうのが。

江:なんか文法的に古いやつだと、多分浮くとか多分浮かぶだから浮かぶるとかですよね。連帯系の。

か:これ、多分「浮かぶ」の已然形+「る」の、つまり完了の「り」なので、文語だと思うんですよ。

玉:つまり浮かんでるってこと。

檸:じゃあ能動的っていうのは嘘情報か。

玉:うん、でもそうとも読めちゃうよね。うん。

江:あと「何月何日とは識らねども」とかも。よく考えたら情報量全然ない。

玉:なんかちょっと読んでたら、この連作の三首目とかも結構いいですよ。「生きてある疲労極み。早急の黒点として狩りなきわう」

江:その狩りも。なんでその表現にしているんだろう

か:多分鳥の雁ですよね。

江:その手前の連作で 同じ狩りって言葉出てきて。その時は確かでも文法かなんかの狩りに行っちゃう。カリ活用のカリに。 本当に字面しか考えてないんじゃないかって一瞬考えちゃったんです。狩りと「カリ」の区別っていうか鳥と文法の時の音が一緒だから一緒になっちゃうみたいなすごい状態だなって。

か:意地でも漢字にしないっていう何かがあるんだろうな。

玉:すごいっすね。だから20ページ、21ページだけでもちょっと話違いますけど。一首目「せいしゅんはあわくせつなくおもわるれ わずか おとこの液なりしかど」21ページ下段一首目「せいしゅんはあらしのごときなみだとも いわんかたなく夏きたりけり」この見開きだけで二首「せいしゅんは」初句の歌が。

か:なかなか上段に構えた「せいしゅんは」ですよね(笑)

江:あと、ちょっとすいません。これnoteの記事に載せられないと思うんですけど。 「カリ」って見たせいで。あの男根の……そっちも思い出しちゃって。「男の液」ってみすぎて(笑)

一同:(笑)

玉:結構下ネタの歌がね、結構多いから。当時も「カリ」って言ってたのかな?

江:一応「カリ首」って鳥の「カリ」からきてるんですよね。

玉:あ、そうなんですね。

江:まじでやばいなって思ったのが、なんだっけ……歌集に入れてない方の歌で。 えっと、脳内で何万回か犯した女子生徒に読書会の図書を渡したいみたいな歌があって。

玉:そんな歌ありましたっけ?(笑)

江:ちょっと待って、この人教師だよなと思って。

玉:それはたしかに歌集からは落したほうがいい(笑)

江:ちょっと待ってくださいね。

檸:あ、ありました。43ページの……

玉:すごい

江:あとなんか直截に……はっきり言えばデカチチが好きみたいな。

檸:あったあった。

江:そうだから、22歳ぐらいでめっちゃなんかこうデビューしてみたいな。青春!みたいなのとくっついてるからギリギリ許せるけど、確かに中年以降だったらきついですよね。

玉:でもなんか好意的にとれば、そういうのもなんか男性学っぽいっていうか。森岡正博『感じない男』とかをちょっと連想したりもしますけど。あの人もね、大学教員ですけど結構なかなかなことを書いてたりする。もちろん批評の範囲ですけど。


江:きちんとマスターベーションの話とかしてましたね。

玉:それと村木道彦が一緒かって言うとそんなこともないのかもしれないけど(笑)

江:この頃ってまだあれですよね、1960年代後半から70年代ぐらいだから、その性やつとかもっとウキウキですよね。みんな。大島渚の映画とか。

玉:世界が寛容だったみたいなところも。

江:そんなノリですよね多分。ある程度はね。『仮面の告白』とか書いて三島由紀夫が元気で……いや腹切ったあたりか。

玉:うん。よくも悪くも盛り上がってたかもしれん。

江:僕も「何月何日」使いたくなりました。チャンスがあったら。

脱糞ののち出でてくる戸外にはすさまじきかな夕あかね充ち 

「みずのゆうぐれ」27

江:えっと~……まぁ脱糞ですね。

玉:なかなかないですよね。初句脱糞は。

一同:(笑)

江:連作で見ると、その手前の歌とかでトイレの話とか出てて。多分1つの流れとしてあって用を足してから出たら夕あかねが本当に満ちてるみたいな情景っていうような話だと思うんですけど。ぱっと見た時のインパクトが一首ですごくて。「脱糞ののち出てくる」の「のち」がひらがなで開いてあるせいで「脱糞」「出てくる」ってところだけが頭に入ってきたりとか。

か:ん~

江:あとは「ののち」の「のの」とか「出て」とか平仮名のレベルで反復が最初の方結構多くて。その辺りで「脱糞出てくる」みたいなちょっと繋がりやすくなってるのかなってのがあって。あと「すさまじきかな」もイメージが偏ってると思うんですけど、脱糞のあとに凄まじきってきたらもう匂いしかない……

一同:(笑)

玉:まぁそうですよね

江:なんかそういう繋がりがなんか出てきちゃいそうなのに、なんかこう全然普通に「夕あかね充ち」っていうので夕あかね、光が満ちてるっていうので。ただ、この「充ち」も、なんでその「満ち」じゃなくて「充ち」にしちゃったのかなってちょっと思って。なんか僕の感覚だと光が満ちるうんとかはやっぱり「満ち」だと思うんですけど、この「充ち」だとなんか もうちょっと質量ありそうだから、やっぱ糞が来ちゃうと思って。基本的に脱糞以外は全部、特に強い言葉ないし、どっちかというとすごくプレーンな言葉で自然が綺麗みたいなことしか言ってないのに、なんか異様な 印象を与える歌になってて。なんだこれって思って持ってきたって感じでした。

玉:脱糞とそれ以外の部分の綺麗な情景をぶつけるっていうのは敢えてやってますよね。

江:ちょいちょいこのタイプの技をかましてるなって。玉野さんのとった二首目もそれに近いかも

玉:性欲の後は鳥の話しかしてないと言えばしてないですもんね。

檸:そうっすね。そうなんか……そうなのか?(笑)

か:さっきから江永さんがおっしゃってる、風景的風景みたいな、舞台装置としての風景みたいなのは、特に夕焼けと入道雲についてはものすごく、それっぽい記号めいてますよね。

江:書割感が、やっぱり。

玉:あ、デカチチの歌見つけました。31頁、「直截に言えば胸部のゆたかなる少女恋ほしも雨ふるよるは」

か:直截に言えばって(笑)

江:まあ、でもそっか、ここまで全部衒いがないからギリギリいいのか。みたいな感じに思えてくるってのがすごい変な感じです。面白いってことなんですかね。

玉:脱糞の歌に戻りますけど、「ののち」の「の」が二連になる感じとかも面白いですよね。

江:あとこれ完全に穿ちすぎだと思うんですけど。「脱糞」のあとに「ち」の感じとかも……

か:だからそれが夕焼けの赤にかかってくる。

江:戸外にはもやっぱり内と外だから尻のこととかも考えちゃって。下ネタみたいな妄想で言うと、多分便秘してたからすごい尻が切れちゃって凄まじい感じで血が出たみたいな……

玉:でも確かにわざわざ歌の真ん中に戸外って置いてるから。糞は外に出ていくもので、なんかその辺の意識が働いてないと言えば、どうなんですかねって感じもします。

江:そうですね、「みずのゆうぐれ」っていうのも、全体の中で見たら全然そういう感じじゃないのに印象変わるのがすごい自分の中の引っかかりポイントでもあって。連作で見ると、普通に自分の情景をすごいゆるい言葉で、たまに脱糞とか使っちゃうけど書いてるってだけなのによく見るとすごいなんか変なことになってるみたいな感じがあって。

玉:脱糞って言葉自体なんか、アルトーにおける〈糞便〉というか。アルトーの最晩年のテキスト『神の裁きと決別するために』の中に「糞便性の研究」という章があって「糞の臭うところには存在が臭う.」と言っていることを想起したりもしました。

か:多分、脱糞と性欲、同じ意味合いで使ってる気がするから。内と外の、内の汚さと外の綺麗さっていう対比で。

江:たしかに。

か:そうですね。自然物の圧倒的な災難でくる感じというか。

玉:なんかそれがやっぱり、なんていうかコントロールできざるものっていうか

江:あとなんか糞って漢字が画数多いのめっちゃ効いてるんですよね。

玉:確かにそれありますね。なんかこう塊感ありますもんね。シンメトリーだし。

江:そうですね、 結構そういうグラフィカルなところ、狙ってる感じもちゃんとありますね。多分。

南方洋上はるか台風あり全き破壊を持つごとくわれ 

「そして、どのように」39




江:東南方(とうなんぽう)かな。東南方(ひがしなんほう)かな……

玉:「とうなんぽう」だと6音ですね

江:で、これはやっぱり、その、漢字を最初にいっぱい並べるっていうの がちょいちょいあったので、ちょっと1個選びたかったんで、この歌とったっていうのがあったんですけど。あとこの歌で、 なんか「持つごとくわれ」になってんのがすごいなって。で、これ最初「待つ」かなと思ったんですよ。

か:ほんとだ「持つ」だ。

玉:誤字かと思いました。

江:そう誤字かなって。いやしかも、作品評で1人間違えてるんですよね。ひらがなで「まつごとくわれ」にしてるひとがいて。

玉:えーほんとですか

江:多分「持つ」で合ってるはずなんですけど。3人この歌ひいてて、「持つ」「持つ」「まつ」になってるんで。で、「まつ」なら、すごい分かりやすいのが、やっぱ台風が破壊力あって、台風がはるか東南方の洋上にあるから、なんかそれを待ってるって話だったらすぐわかるんですけど。われが破壊を持っちゃてるのかと思って。台風ははるか東南方にあるのにわれが破壊をすでにこれだと思ってることになってるから、 どういう状況なんだろうっていうのがちょっと最初の印象からずれて いくというか。「まつ」だとスッキリするのにっていう気持ち悪い感じになって。これどうなってんだろうなっていうのがすごい気になったんで引いたのと。あと、この連作の題が「そして、どのように」なるのがすごい。

玉:これすごいですよね。

か:巻末の歌なんですね、これ。

江:そうです

檸:これ(例の作品評)なんかこれすごい誤字しまくって。もう「われ」も漢字になっちゃってる。

か:初出から抜いてるとかそういうことなのかな。

玉:あー。「そして、どのように」って題はすごいですね。笹井賞の大賞の題が「そして、どのように」だったら気になりますもんね。

か:「持つごとく」の「ごとく」で、その「ごとく」の距離感っていうか、はるか遠くの台風と「ごとく」のとこで調整をとってるっていうのはなんかわかるんだけど、。きっと多分、性欲、脱糞と同じようなことだと思う。

檸:これ、台風ありで切れてると思うと、結構すんなり読めるのか。

江:あ、確かに。その台風あるし……

檸:それはそれとして、われは破壊を持ってる。

江:われは全き破壊持ってるってすごい(笑)

か:あの台風のように(笑)

玉:すごい全能感ですよね

檸:全能感、今流行ってないですよね

玉:全能感流行ってない。でも当時も流行ってなかったとは思いますけどね

江:「全き破壊」のなんだろうな。なんか言ってるだけがすごいから。うん、そんなに。なんか全能感とかでもないのかも。

玉:今は全く全能感流行ってないと思いますけど。むしろ不能感が流行ってると思うけど。でも当時はそれこそ学生運動とか、前衛短歌運動とかもそれこそそうだと思いますけど。なんか活動することで何かが変るみたいな可能性が感じられたみたいなものは……今よりはやっぱあったのかもしれないですよね。

檸:うん、どうしてもバイアスとしてはやっぱこの台風も性欲の比喩に見えるみたいなのはそうですかね。

か:うん

江:ただ、本当は……なんか本当はって言うとあれなんですけど。アブジェクト、アブジェクション、なんかおぞましいものとかってこんな切り型のイメージだとダメってことになってる気がするんですよ。台風とかじゃなくて、なんかもうすこし表現が異化していないといけないはずで。「全き破壊」とかは手垢しかないっていうか。

檸:そうですね。順当すぎる

江:凄まじい紋切型だと思うんですけど。でも、なんかそういう感じが逆にすごい現在っぽい感じなのかもしれないなっていう、現在っぽさと繋がってる感じなのかもしれないなって。すごい簡単な言葉とか語彙の組み合わせだけで、こんな変な気持ちにさせる歌作れるってすごいな、みたいなことをちょっと思いました。簡単っていうのもおかしいかもしれないけど。

か:全体的に風景描写はベタベタなんですよ。入道雲、夕暮れ、みたいな。

江:あと僕やっぱPCゲームとカードゲームに引っ張られてますね。「全き破壊」ってもうなんか呪文とかでありそう(笑)

玉:それにしてもあれですよね。前回の浜田到の時も塚本邦雄が到をディスりまくってるみたいな話しましたけど。これも解説でなんか中井英夫がすごいディスってるんだよな。村木道彦を。

か:う~ん。

玉:「この先二度と村木道彦について書くことはないと思われるので」って言ってる。

か:すごい(笑)今はもう村木道彦なんて読んでないみたいなやつもありませんでしたっけ?

玉:ある。基本的になんかディスられてる

か:『存在の夏』がでたときも相当ディスられたって話で。

玉:僕実は現代歌人文庫って2段組なのがあんま好きじゃないから、これでしか読めないような歌人のやつしか持ってなくて。村木道彦、浜田到とあと何があったかな。平井弘か。そもそもその3冊ぐらいしか持ってなくて。そんなに毎回ディスられてるもんじゃないですよね?(笑)

江:確かに散々言われてますね。なんか「ボールペンの雑な書体で、上から三字をあけた2行書きの、なんとも頼りない原稿」とか、うん、内容はそれでいながら新鮮ですごいって言ってるけど、うん。

玉:そこはなんか、どっちかというと。なんていうか。若者がやってくれてるっていう感じ、かましてるぜ!みたいな感じなのかもしれないですけど。
か:でも、なんかこう、若さっていう聖性から救いたい気持ちもありっていうか。

江:中井さんの最後のはひどい言いようですね。「歌をやめたのが正しい」とまで言い切ってて。

か:確かに『存在の夏』はう~~~んっていう感じはあったんだけど……。

玉:あれですよね、なんか村木道彦が教師として、なんでしたっけ……「タッチ」とかの作詞家の人が弟子じゃないけど、なんか、生徒でいたんですよね。

か:らしいですね。康 珍化という作詞家の。その感じは歌からびしびし感じるんですよ、つまりポップに開かれていく可能性みたいな。 ただ、康 珍化自身は、結構硬質な短歌を作ってたらしいんですけど。でもポップな方向になると「ギザギザハートの子守唄」とか……。

玉:あれでしたっけ。康 珍化は藤原龍一郎さんと同期なんでしたっけ?

か:らしいですね。早稲田短歌会の同期だったらしいみたいな。

玉:あれなんですかね。そのころは藤原さんも藤原月彦時代なのかな。

か:どうなんですかね。J-popっぽい可能性はすごく感じてるんですよね。

全体的に。僕のあげてる「その人を愛するその故に~」とかもね。

玉:うん、確かにそうですね。韻律のコントロールとか、もう歌詞っぽいと言えばそうなのかもしれないし。

江:「何も言えなくて…夏」でしたっけ、なんかドラマのそういう。

玉:「愛なんていらねえよ、夏」ってありましたよね

江:そう、なんか何かのドラマのタイトルで見たことあるみたいな感じ。

か:トレンディードラマ感はやっぱり。「僕の部屋に日が当たる」もそうだけど(笑)

江:フレーズ単位だとすごい、うん、ありますよね。広告とか歌詞にありそう。

玉:短歌のコピーライティング性みたいなものって、なんか割と折に触れ論じられるところではあるし、そういうのものの先駆っていう感じもするのかもしれないし。

か:今、コピーライティング短歌、というか短歌をコピーライティングするのが流行ってる気がしている。まあ、短歌が流行してるから幅が広がってるだけなのかもしれないけど。

玉:そうなんですか?

か:流行ってるというか、そこら中に使われてるイメージがあって。ルミネとか。伊藤紺さんとか。

玉:でもあれですよね、それこそ木下龍也さんとか元々コピーライティングの勉強してたみたいな話があったはずで。木下龍也っぽくもなくもないのかもしれないし。系譜としては。

か:うん、近いところはあるかも。村木道彦のほうが私的ではあるんだけどそっちのほうの道を開いている感じはあるんですよね。やっぱ口語の問題なのかな。

玉:文語だとやっぱりこうはならないっていうか。

江:「みずのゆうぐれ」見直してたら「自意識の」とかつかってるんだって。

か:確かに多いですよね。「たとうればけむりのごとき自意識のゆうぐれにしてのがれがたかり」自意識はめっちゃ感じます。

玉:なんかでも、その青春時代の自意識の暴走みたいな、結構なんか歌人論とかでも書かれてた気がする。111ページの大林明彦さんによる歌人論「性と死とを村木は好んでテーゼとしているようである」と。ここに下ネタの歌がいっぱい並んでますけど。「彼はかく淡々と歌いつづける。社会的問題や政治的事象は綺麗に捨象してしまって、あくまで自分の身のめぐりから彼は自分のイメージの絹糸をつむぎだす。したがってどこまでいっても村木と現実上の問題意識を共有することなどは不可能のようであり」と。
「彼の論文は稀代の詭弁家ジャン・ポール・サルトルの落し子のようで私は採らない」って。そんなことないだろ(笑)

か:やっぱ嫌われてたんだサルトル(笑)

玉:だから、それこそなんか今の加速主義の扱われ方とか、やっぱ結構近いんですかね、当時の実存主義みたいなものって。

江:あとやっぱモテやがってみたいのあったんですかね。

玉:モテてたんですかね?その逸話は載ってないからあれだけど。

江:いや、でも慶応ボーイだからモテたんじゃないですか。っていう。ダメだ偏見だ。これはよくない。

か:名詞の選択とかには出てますよね、そういう感じは。

江:ちょっとでもおしゃれ感はありますよね。もしもう1個選ぶんだったら、29ページ「なつ代くんなつ代よなつ代きみとともにさながらわれのなにかも恋いし」

玉:うん

江:「なつ代」って多分漢字になってる方の「夏代」の歌もなんか見た気がするんです。リフレインとちょっと変化加えながら、リフレインと「なつ代」っていう、このひらがなと代って字だけ読ませるっていうのだけで。

玉:33ページですね「欲望はうつむきがちにくるものを 例えば夏代さんという人」でも、この歌、あれですね、僕はさっき話した「アイスクリーム」の歌と同じ連作。夏代さんに振られたんですかね。

檸:でも夏代さんってそんなに出てこないですね。なんかエピソードとして、もっと夏代さんへの一連みたいのあるんだと思ってたんですけど、意外とない。いや、でもなんかエピソードとしてはなんか並べられますよね。その、寺山修司の「夏美の」とかと一緒に

玉:最後に一首だけ。34ページの、これすごい隔世の感と思ったんですけど。 「青春はまこときずつきやすくあれ ガーゼマスクの唇かわけるを」これなんかすごいコロナ禍の時期を想起させる。ガーゼマスクなのがあれですけど、なんか今でも通用しそうというか。やっぱそういう現代的なセンスというか、現代口語短歌のロールモデルであるというのは本当確かなんだなって。この歌文語ですけど。


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