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『浜田到歌集』読書会レポート

玉野(以下、玉):ではまず、自己紹介からいきましょう。私から。玉野勇希と申します。歌人としては「かばんの会」と「半夏生の会」に所属していて、あと「崩壊系列」っていう同人を詩人の北上郷夏さんたちとやっています。これは宣伝なんですが、今日も参加していただいてる江永泉さんにもご寄稿いただいた同人誌の創刊号が絶賛通販中です。本日は力不足ではあるのですが僭越ながら司会の方もやらせていただきます。よろしくお願いします。

かみしの(以下、か):じゃあ、順番で。かみしのと申します。歌人としては上篠翔という名前で「玲瓏」という塚本邦雄の作った結社に所属しております。『エモーショナルきりん大全』という歌集が2年前に出ています。歌集の読書会っていうのはあんまりやったことがなくて、どんな感じになるのか結構怖いところもあるんですけど、色々話せたらいいかなと思います。

江永泉(以下、江):江永泉と言います。加速主義と音楽と詩歌、みたいな興味関心からWEB上で読んだり書いたりしているうちに縁ができて、それで玉野さんのつくられている『ユーフォリクスver.1.5』や『崩壊系列』などに、寄稿の場をいただきました。自分は結社など未所属ですし、マージナルな身だと思います。このような集まりを企画してもらったこと、すごくありがたい機会だ、と感じています。

カリフォルニア檸檬(以下、檸):カリフォルニア檸檬という名前でTwitterをしています。個人としてはちょっとどうにもなってないんですけど、2023年は『エリア解放区』っていう 6週間に1回のペース刊行の同人誌があります。玉野勇希にもVol.1でのご寄稿があったりしました。今回の浜田到は2週間ぐらい前に玉野さんに本を貸してもらって、初めてちゃんと読んだんですけど。っていう感じのところで、ちょっと予備知識がない状態ではありますが、よろしくお願いします。

玉:はい。浜田到って所謂前衛短歌を調べていたらわりとすぐに名前を知る歌人ではあると思うんですが、そもそも著書が入手しづらいとかがあって。インターネットとかでも論じてる、論じてるとまではいかずとも話題にしてる人が少ない気がしてので読書会をしたら面白いのでは、とTwitterでなんとなくその旨ツイートしたら反応してくれたがかみしのさんと江永さんで。檸檬さんは連絡とりあってたのと、短歌の評には定評のある人物だと思うのでご参加いただきました。ちなみに皆さんは浜田到を最初に知ったのはいつとかって記憶ありますか?

か:アンソロジーの、『現代短歌の鑑賞101』かな、あれの中に入っていて。名前は見たことあったけれど、しっかり読んだのは本当今回が初めてで。そもそも著書は手に入りづらいし、今おっしゃったように、感想を書いてる人すらも結構少なくて。

玉:折りにふれ睫毛睫毛の歌、「硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ」は よく引かれてるイメージはあって、それを僕はどこかで目にして、ある時期までは浜田到の名前とこの歌をセットで覚えてるぐらいの感じでした。そういう人は結構多いんじゃないかなと思います。後から『浜田到歌集』を入手して紙面でこの歌を読んだ時には有名な観光スポットに来たような気持ちになりました。「これがあの有名な……」っていう。

江:じつは昨年の秋ごろ、偶然、歌集を手に入れて。というのも、通っていた図書館で、現代歌人文庫がいくつか除籍本として持ち帰り自由になっていたんです。それで、どんな歌人なのかを全く知らないまま手に取った一冊が『浜田到歌集』でした。それからしばらくして玉野さんの声かけがあって、これはとても奇遇なことだと思い、参加してみようとリプライした感じでした。

玉:それはすごい。江永さんが今持ってるってなんかリプライくださった時にまじかと思って。短歌読まれてることはもちろんも知ってましたし、そういう話もDMでしたことはあったのでおかしくはないけど浜田到の著書まで持っているというのは少し驚いて。

江:自分がどれほど幸運だったのかは、後から知りました。この読書会の前にインターネットなどであれこれ見て、どうも市場価格がたいへんなことになっているようだ、と。吉田隼人さんがSNS上で、自分が購入したときは千円台だったのに今では一万円以上の値段になっていると2021年時点で述べられていたんですが、それから二年程度でもっと高騰している雰囲気でした。
これもそのとき検索していて知ったのですが、吉田さんは浜田到についての評文を何度か執筆されているんですね。吉田さんの『忘却のための試論』は、以前に読んで記憶に残っていた歌集だったので、それにも奇縁を感じました。

玉:吉田さんはたしかに現役の歌人のなかでも浜田到を推してるイメージありますね。noteで浜田到ノート――詩歌の〈架橋〉のために(『ウルトラ』10号掲載)」という論考も公開されています。では予備知識はこんなところで、以下は各自『浜田到歌集』(現代歌人文庫 5)(国文社1980)から三首選して頂いて一首ずつ順番に話していきましょう。



玉野勇希・選

人形にのみ水晶のあり寒冴えし睫毛を植うるひとひたに恋ふ

玉:この歌はまず人形っていう道具立てが印象的で。 人形って言っても、日本人形とか色々あるとは思うんですが水晶の瞳って言っているのでハンス・ベルメールの球体関節人形みたいなゴスいイメージで読みたくなる誘惑があります。 浜田到の歌ってそもそも、この歌じゃなくても道具立てがハードっていうか。結構パンチのある小道具で攻めてくる歌が多いと思うんですけど、この歌は『浜田到歌集』の中でも結構前半の方に載っていて、かっこいいな……みたいな。 それもめっちゃバカっぽい感想なんですけど。でも、水晶というあたりが浜田到の作中ですごく頻出する丸とか円のモチーフになっていて、これもすごい象徴的な歌だなっていうのと、 あとはやはり睫毛ですよね。睫毛を得意技としてる歌人というのも……。

か:睫毛の歌ありましたね。

玉:うん、結構あって印象に残りました。この歌は「寒冴えし」をどう読むかというところなんですけど二句目で一回切れて「寒冴えし」を読むイメージというか、人形と人形に睫毛を植えてる人がいて「寒冴えし」が背景にあるような。

檸:この「寒冴えし」なんか異物感が。でも前半と後半で、おそらく主体は別、主体は別っていうか、視覚があれですよね。人形に向かってるところと、下句は多分「恋ふ」のところ。

玉:そうなんですよね。だから人形がまずあって、寒が冴えており、 で、その人形にまつ毛を植えてる人がいて、その人のことを恋うている主体があるみたいな、そういう歌なんですよね。『文學界』「幻想の短歌」特集(2022年5月号)をやったときに大森静佳さん川野芽生さん平岡直子さんが座談会をされていて、そこで幻想の歌って言われる歌もよくよく読んでいくと写実、というか超・写実、ある種のシュルレアリズム的な把握であることがあるみたいな話をされているんですが。浜田到の歌も幻想、幻視的なモチーフや景が頻出するけどよく読んでみると実景っぽいことが結構あって。

江:ベタな連想だと思うんですけど「水晶の瞳」と「寒冴えし」で、ガラス窓とかに触れたときの、どこか融けない氷みたいな、冷たい手触りのイメージが頭に浮かびました。さっき玉野さんが挙げたのはベルメールでしたが、自分が真っ先に思い出したのは、澁澤龍彥の『少女コレクション序説』中公文庫版の表紙に映る、四谷シモンの人形でした。それと、PEACH-PITの『ローゼンメイデン』のビジュアルとかも想起しました。一方は幻想文学的で、他方はオタク的、って切り分けて話せるのも一応わかっているつもりなんですが、むしろここを地続きに捉えるとどう語れるのか考えていきたい気持ちも最近はあって。個人的には、一緒に受容したコンテンツ群だったので。

玉:うん。この歌も西洋人形からは離れてしまいますが、「着せ恋」(『その着せ替え人形は恋をする』)っぽいというか。そういう風に寄せた読みも可能かと思いました。「着せ恋」はそれこそ幻想の生物と言われている「オタクに優しいギャル」であるところの喜多川海夢さんと雛人形の頭師の修行中である五条新菜くんが色々あって恋する話ですけど。澁澤も「着せ恋」見たら喜ぶかもしれませんね。

か:結構近いところにあると。玲瓏に塚本のフォロワーがいて……まぁもちろんいるんですけど(笑)そのなかでも特にごりごりのフォロワーの人が嬉しそうに「アリプロ(ALI PROJECT)のライブにいったんだよね」って話していて。もう60歳くらいの方なんですけど。やはりゴシック的なものとある種のオタク的な感性は繋がるところがあるのかも。

玉:めっちゃいい話や……。

か:この歌について言うと、目っていうものを対象物としてとらえていて、他の歌を見ても、目とか手のひらとかを全体としてじゃなくて、手のひらだけとか目としてだけとか部分的にとらえている歌が多いような気がしていて。耳の歌とかもありましたね。

檸:「人形にのみ」の「のみ」に比重が高い気がします。たまたま?この後に言及される予定の二首目にも「のみ」入ってるんですけど、この「のみ」よりも「人形にのみ」のほうが限定が強い。人形と人間の対比だと思うんですけど、水晶の瞳は人形にしかなくて、人間にはないみたいな結構デカめのこと言ってる。この人形にのみ水晶の目があるとは言ってないんですよね、多分。

玉:うん、確かに。人形にだけ水晶の目があって、このまつ毛植えてる人には水晶の目はないんだけど、そっちの方を恋うているんだと。

檸:なんか矢印がちょっと「寒冴えし」によってかなり混在してて。「寒冴えし」で一回切れますよね。

玉:あれですよね、別に睫毛に寒が冴えてるわけではないっていう。

檸:それは、そう思いたいですね。ただただ寒が冴えてるだけ。でも多分、目の前にある人形じゃない気がする。この主体のところには「寒冴えし」しかないのでは、みたいな。「寒冴えし」のところには主体がいるんだけど、この人形や水晶の瞳はこの主体の目の前にはなくて。多分その睫毛を植える人をひたに恋う私はいるかもしれないけど、睫毛を植えてる人っていうのは目の前にいない。でも、いるってことは知ってるじゃないですか。 人形を作る過程で。その、「寒冴えし」と上句下句の距離感が。

玉:確かに結構あれですよね。ニューウェーブ以降とかでありがちな。「寒冴えし」のところをパーレンで(寒冴えし)って括って位相をずらすというか背景化するみたいな。そういう技法っぽい感じ。

白昼の星のひかりにのみ開くドア、天使住居街に夏こもるかな

玉:これは結構有名な歌ですね。それこそ睫毛睫毛の次くらいに引かれてるイメージある。それこそ先ほども話題に上がった吉田隼人さんの第二歌集『霊体の蝶』にも「夏の最期のひかり浴びけむひさかたの天使住居街ロス・アンジェルスの浜田到も」っていう本歌取りの歌があって。でも、やっぱあれですよね。結構他の皆さんのとった歌見ても、そこまで大破調の歌ってとってきてないっていう印象があって。さっきの人形の歌も初句7音かつ句跨りはしているけどほぼ定型として読めるし。それでいうとこれは結構な破調になってる。

檸:三句目が7音なんですよね。さっき「のみ」の話しましたけど、ここ「のみ」無くせば定型になる。

江:『浜田到歌集』では「扉」にはルビが振ってあるけど「天使住居街」にはルビが無かったですね。はじめはびっくりしたんですが、たしかに「ロサンゼルスに・なつこもるかな」で七・七だから、そう読み上げると収まりがいい感じもします。この歌って、ロサンゼルスの情景が念頭に置かれていたんでしょうか?

玉:浜田到はそもそも幼少期にアメリカに住んでたっていう前提があるんですよね。ロサンゼルス(los angeles)という地名の由来がスペイン語の天使という言葉であるのがまずあって。その上で天使住居街をロサンゼルスとして詠んでいたかっていうのは浜田到に聞いてみないとわからないですけど……。どうしても下句の話がしたくなっちゃいますよね。でも「夏こもるかな」って言われると、やっぱり結構こう湿気っぽい、モワッとした東京の夏みたいなものを想像したくなっちゃうけど、西海岸の方のカラッとした夏のイメージなのかな。とか。

江:そうですね。白昼の空にある星っていうと、陽光に紛れて見えない光というものを想像させるからか、透明感があるような気がしてきます。

玉:じとじと暑くて、なんかもう嫌だな、みたいな感じのイメージでは全然ないっていうか。あとはこの「扉」に「ドア」っていうルビも結構パワーありますね。

檸:ほんとに。ドアだけでいいじゃんって思うけど……。

玉:やっぱり「天使住居街」というフレーズをどれぐらい浜田到本人がこれはイケてるぜって思ったかっていうのは、この下句の前に置かれた読点にも象徴的ですよね。

江:すごい発見ですよね。「住居街」って語句だけだと人の生活のにおいを感じるのに、前に「天使」を添えるだけでこんなに印象が変わってしまう。

玉:そもそも天使って生活感の無い上位存在というか、みんなで街を築いて暮らしてるみたいなイメージも別にないから。『灰羽連盟』みたいなかんじですよね。

江:たしかに安倍吉俊の絵の下とかに添えられててもよさそうに感じられてきました。

檸:なんかこれ具体的な地名とかないほうが良い気がしてきました。浜田到が本当にロサンゼルスのことを思ってるんだとしたら、結構そのロサンゼルスのことを美化してるというか。別に生きてる人は人間なのに天使としている、みたいな。ミューズ問題みたいに良くないっていうのは、違うかもしれないけど。

江:『歌集』の年譜を見る限りだと、ロサンゼルスに住んでいたのは4歳くらいまでみたいですね。そうすると、詳細なディティールが記憶にあるというよりも、ぼんやりとノスタルジックに回想される感じなのかもしれない。

玉:なんで引っ越したんだっけ。なんか家族が移住した理由は祖父が借金の保証人になってしまいその負債を返すためにアメリカに引っ越したみたいな。そういう話だった気がしますが。

檸:いや、なんかあれじゃないですか。元々白人に迫害されてたっていうか。嫌がられてたみたいな。

江:1918年、農園を経営する両親のもとに生まれる、とありますね。大雑把に言って、とくに明治末の日露戦争後の時期から、全国的な経済状況の諸々もあって日本からアメリカに渡ることになった人々が少なからずいた、という流れだったかと思うんですが、ジョンソン=リード法(いわゆる排日移民法)が成立したのが1924年のことだし、黄禍論とかが流布していた時代ではありますよね。

玉:そうですね。いずれにせよ浜田到にとってアメリカ、ロサンゼルスとかそんな良い思い出なのかどうかもちょっとわからないというか。

か:でも、もしロサンゼルスと読ませたいんだったらルビ振ると思う。そのほうが定型にもなるし。

檸:たしかに。ドアやってるわけだから。

か:すぐ塚本邦雄の話するんですけど、塚本に日本各地のかっこいい地名を集めて本にした『新歌枕東西百景』という本があって、例えば京都には「天使突抜」っていう地名がある。でもここでは、そういう使い方ではやっぱりないのかなっていう感じですよね。ドアが開いたら異界としての天使住居街、っていう感じがするかな。

玉:塚本邦雄にそんな「タモリ倶楽部」とか「VOW」みたいな本あるんですね。

か:あるんです。そういうフェチズム的な。

天と海のあいだ細き糸らちぎれちぎれ犬の中に雨降つている。

玉:この歌も結構な破調で。上句の「糸」っていうのは要は雨のことだと思うんですよね。ぱらぱらと細い雨が天と海を繋ぐように降っている、的な。そこまでの把握はまぁ結構でかい感じっていうか浜田到らしい幻想というかかっこいい感じなんですけど。それが下句で唐突に犬の中の雨に接続されていくっていう。正直いってよくわかんないんですけど……犬、かわいいなっていう。犬って言ってもゴールデンレトリーバーとかよりは柴犬ていうかその辺にいる犬みたいなイメージなんですけど。犬、好きだったんですかね。

檸:他の短歌にも、犬あったかな。そんな目立ってなかったような気が。

玉:犬の中に雨降っているっていうのは、なんか雨っていうとちょっと気落ちするなとか、テンション下がるなみたいな感じだと思うんですけど。どっちかっていうと、なんていうか動的なものっていうか。犬の中の血の流れだったりとか、生きてる感みたいなことだと思うんですよね。あとは、二句目三句目の跨りかつ字余りなんですけど、天と海っていうすごい大きな舞台を細い糸のような雨が繋いでるっていうのが、この膨らんだ破調で表現されていて、現代的なレトリックだなと思って。上句の破調を下句77の定型の犬に収束させていく感じというか。

か:「雨降っている」までは全部3音で切れてくんですよね。「天と/海の/あいだ/細き/糸ら/ちぎれ/ちぎれ/」

一同:あー。

玉:音楽の三連符っぽい。

か:「降っている」っていうところで犬の心象に降ってる雨というか。最後だけ定型にすることで実体化してくるみたいな。

江:さっきは読点「、」で目が留まる歌でしたけど、こっちは最後の句点「。」が印象的で、ともかく有無を言わさずにこうなんだと理解を強いられる読み心地でした。

檸:犬の中にの中にっていうのは、犬の体内にっていう認識で?

江:犬のからだに細い糸みたいに降りそそぐ雨水が染み込んでいくのを詠んでいるのかなとも思ったんですけど、ちょっと判然としなかったです。

檸:体内になんか空洞みたいなゾーンがあって。リアル体内っていうよりは、なんか空洞みたいなゾーン……イメージというか類似としては。 何かの体内とかにとか、大きい入れ物みたいなとこの中に異物を入れ込んでくみたいな短歌も、何首かあった気がする。

玉:僕はなんか、血潮というか。そういうもののイメージだったんですけど。かみしのさん的には心象っぽい感じですか?

か:犬の視線になってるというか、犬の見ている雨というか。

檸:それもいけなくはないですよね。そうなると、犬の目の視界で私が見てる系だと思うんですけど。スライドされてるというかそういう感じですね。イメージとしては。 何かの体内とかにとか、大きい入れ物みたいなとこの中に入れ込んでくみたいなのなんか何首かあった気がする。

玉:僕は海に雨が降ってるっていうのと、犬の中の血潮みたいなものを対置しているっていうか、相関させてるみたいなイメージだったんですけど、かみしのさんの把握だとあれですよね。浜辺に犬がいて、雨が降ってるのを犬が見てるみたいな。

か:現実的なこと言えば多分そういうことなのかもしれない。

檸:あざとさとしては、この「間」と「中」がなんかちょっとあざとくないですか。「間」と「中」ってほとんど同じこと言ってるって思えばさっき玉野さんが言っていたような読みに偏ると思うんですけど。

玉:確かに。でも海辺に犬が1匹いて雨を見てる方がかわいいとは思う。

檸:なぜか犬目線になって。

か:なんていうのかな、視線をジャックしてるような歌がいくつかあるんですよ。それこそ一首目の人形の歌も結構それに近いかなと。

檸:あー、そうですね。

か:まつ毛を植える人の視線で人形の目を見てるっていうか、そこから「恋ふ」っていう私の場所へ返ってくる。この犬の歌も「恋ふ」とは書いていないけど、犬の視界をジャックしたあとに返ってくる「恋ふ」私という視点が存在している気がする。

玉:うーん、わかります。では次、かみしのさん選の三首いきましょう。

か:僕のとった歌は多分、他の方々に比べると結構有名寄りな歌が多いのかなとは思うんですけど。

かみしの・選

一九四九年夏世界の黄昏れに一ぴきの白い山羊が揺れている

か:……かっこいいなっていう。

一同:(笑)

か:まず「よんじゅうきゅう」年と読むか、「よんじゅうく」年と読むかって、そういうところはあると思うんですけど。後者の方がまだ定型的になるのかなっていうところがありつつも、やっぱこう、どうしても、破調という問題って多分どの歌読んでもつきまとってくるところではあって。

玉:うんうん。

か:で、この歌とちょっと構造が似てるなって思う歌が佐佐木信綱の「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」で。場所というか、時間というか、そういうものが大枠で設定されて、そこから一つのものにフォーカスされていくっていうか。構造としては似てるかなと思ったんです。 ただ、捉え方がやっぱり違うなと思って。信綱の歌に関しては徐々にフォーカスしていくっていうか、動画的な、アナログな時間の動きがあると思うんですけど、この歌は完全に絵画的。「一九四九年夏世界の黄昏」っていうのがタイトル、もしくはキャプションで、一匹の白山羊が揺れてる絵画があるっていう。そういうのは破調によって要請されている気がする。

檸:うんうん。

か:信綱の歌は丁寧に57577なのでリズムに乗って、時間というかカメラも移動していくんだけど、この歌はいきなり破調の「一九四九年夏世界の黄昏」がくるからそこに立ち止まる隙というか時間が途切れる瞬間がある。あとは「揺れている」っていうのも面白いなと思って。 「立っている」でもいいはずなんだけど「揺れている」ってことは静物というんではなくて、生きているものとして捉えられている。どの歌にも死の予感めいたものがずっとあるんだけど、一方で「揺れている」っていうところに単純に対象物として捉えるだけじゃなくて、生を見出すような視線を感じました。とはいえ「一九四九年夏世界」がかっこよかったなっていうのが第一印象。

江:これも「天使住居街」みたいな語句の合成の妙がありますね。「一九四九年夏」だけだとニュース記事みたいなニュートラルさなんだけど、そこにいきなり「世界の黄昏」がくっつくと変わりますよね。イメージというか響き具合というか。「世界の黄昏」っていうだけだと具体的な感じがしないんですけど、その前に西暦と季節を添えただけで、ちゃんとした時点なり地点なりを指しているような印象もかもしだされている気がする。

か:実際に1949年夏に何があったかとか、あんま考えなくていいかなって思うんですよね。年表的には九州の方で、肺病みたいなのになったとは書いてあったんですけど。まぁそういうことはあんま考えずに。

檸:どちかって言うと浜田到自身の話っぽい気がしますけど。公的な、その世界がとかじゃなくて、私の世界っていうか、マイ・ワールド、この世界かなっていう気もする。

か:そうですね。

玉:「世界の黄昏」ですよね。結構ニーチェっぽいっていうか。『偶像の黄昏』じゃないですけど。ちょっとやっぱナルシスティックっていうか。

か:環世界っぽさというか。1949年が別の、例えば「ひさかたの」とかだったら、かなり抽象的なものになっちゃうんだけど。

玉:ここ実数なのはいいですよね。

か:何かわからないけど背景があるっていうような示唆になっている。

玉:改めて読んでみると韻律結構いいっすよね。どこが2句目3句目 っていうよりは「上句と下句」みたいな感じ。「黄昏れに」までが上句で切れて、「一ぴきの~」からは下句ですよっていうのはしっかり指示がある。

檸:この短歌の「夏世界」っていう文字列にちょっとグッときてしまう。 夏で切れるよりは「夏世界」っていう文字列が生じてるぞっていうところになんか…。夏で切れるのはそうだよねって思うんですけど。

玉:たしかに。「世界の黄昏に~」よりは「夏世界の黄昏に~」のほうが良さある。

星は血を眼は空をめぐりゆく美しき眩暈のなかに百舌飼はむ

か:どこをどう読むかっていう問題はありましてですね。「眼」を「まなこ」、「美しき」を「はしき」と読みましたけど。一応限りなく定型に近づけていくと、そういうような読みかたが一番いいのかなとは思いつつ。 この歌もやっぱり第一印象かっこいいなっていうところにかなり惹かれてはいるんですよね。「星は血を」めぐるっていうのがわからなくて。

玉:うんうん。

か:星に血“が”巡るならばまだわかる。だけど、「星“は”血を」巡る。「眼は空を」巡るもわかる。だけど、例えば語順を変えて「血は眼を」「星は空を」なら素直に理解できるところを敢えてずらしていて。あとやはりここにもさっきの3・3のリズムがあってそれが眩暈っぽくもあるし。

玉:目が回るようなかんじが。

か:操作している気がする。あと、星と血みたいな取り合わせに寺山修司っぽさを感じるなと思って。「百舌飼はむ」っていうのも難しいですけど、まあ山羊みたいな感じかなと。「百舌鳥のはやにえ」とかを持ち出してもいいのかもしれないし……。むしろ「百」っていう漢字のほうに意識があるのかもしれないとちょっと思ったり。
中原中也の「千の天使がバスケットボールする」みたいなイメージの「百」。実体としての百舌というよりは、詩的なイメージで捉えられている百舌を飼いたいっていう。

玉:確かに。「百の舌」ですよね。

か:「百の舌」っていうグロテスクなイメージで使っているのかなっていう気はなんとなくしますね。あとはその玉野さんが送ってくださったニーチェと円環とリルケみたいな論文。ちょっと全部は読めてないんですけど、浜田到は円環みたいなモチーフがすごく多いなっていうのはありますね。

玉:河中正彦「リルケに於ける〈球〉と〈円環〉(I)」ですね。この論文自体はTwitterでフォロイーの方があげてらっしゃってたまたま知ったんですけど、リルケにおける球や円環のモチーフをニーチェの〈永遠回帰〉と接続するような内容で。この読書会の予定が決まった前後だったのでなんとなくピンときて皆さんに共有させて頂きました。到自身がリルケにすごい執着を持っており。例の「おい、リルケ!」っていう有名なエピソードもあって……。

檸:あれ面白い(笑)

玉:面白すぎるんですけど。でもそれこそ同人誌に載せた初期の作品のエピグラフにニーチェ引かれてるんですよ。だから結構ニーチェ読みも無理筋でもないかもっていう。

か:リルケとかニーチェとかと考えるとやっぱ実存主義っぽいところは全体的にあるのかもしれませんね。

れし黎明、すなはちくらき音楽のなかの日没いつ聴き終へむ

か:玉野さん選の二首目の「のみ」がなければ定型になってるみたいな話があったと思うんですけど。これも「すなはち」がなければほぼ定型なんですよね。 ちょっと字足らずかもしれないけど。あえて異物としての「すなはち」を入れてくるっていう。代表歌としてよく挙げられている「ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ」、これも「如き」がなければほぼ定型なんですよね。「如き」も「すなはち」も相当意味が薄い言葉です。なのに、そういう言葉を敢えて入れてくるっていうのは、定型を崩すための操作なんだろうな、と。あと「母」ね。

玉:うん、ですよね。

か:母もめっちゃ出てくる。だけど石川啄木が母親背負って軽かったとか、斎藤茂吉が、死にそうなお母さんと蛙聞いてるみたいな、そういう実体のある母ではなくて、もう無くなってる対象というか、なんというのかな〈対象a〉みたいな、そういうような失われた母像。

玉:そうですね、お母さんのモチーフもめちゃくちゃ出てくる。実際問題、母親を早く失くしたみたいな話があるんでしたっけ。

か:年表によると12歳ぐらいの時。

玉:あーそうなんですね。

か:母との生活感のある歌みたいなのはそんなになくて。「悲しみのはつか遣りし彼方、水蜜桃の夜の半球を亡母と啜れり」みたいな歌はあるんですけど。どっちかっていうと象徴的な母、〈狂う母〉みたいな。

玉:寺山っぽいかんじ。

か:やっぱ寺山修司。塚本とかとよく比べられると思うんだけど、寺山修司の感じがあるのかな。この歌も輪廻、円環のモチーフで、夜明けに母が狂って、そういう一日という音楽の中の、日没はいつ来るんだ、みたいな。安息の夜が終わって朝が来ればまた母が狂って……。そういう円環の構造になっている。

檸:うんうん。

か:そういう三拍子的な、ワルツ的なモチーフ。モチーフとか韻律の面もありつつ、何度も言って申し訳ないんですが、僕が浜田到に惹かれるのは、かっこよさなんです。なんかわからんけど「くらい」はこっちの「昏い」のがいいよなとか。

玉:1日のことを音楽って表現したりループものっぽさというか、その感じは結構あれですね。「まどマギ」(『魔法少女まどか☆マギカ』)みたいな感じもありますね。すぐアニメの話しますけど。

檸:どっちかっていうと「まどマギ」が影響受けてる側ですかね?多分「着せ恋」のひとも澁澤龍彥とか好きなんじゃないですか。

玉:あー、どうなんだろう。そこはちょっとわかんないですけど。「まどマギ」の虚淵玄は「叛逆の物語」(劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』[新編]叛逆の物語)で、フロイト「快感原則の彼岸」の〈いないいない遊び〉(fort-da)を引用したりしてしてますし、澁澤とかは読んでそうだと思います。

か:寺山修司経由とかで。

檸:っていう気は、なんとなく。

か:っていう感じかな。あと一応、軽い補助線として同時代の、他ジャンルの作家ってどういう人がいるんだろうなって思って調べたんです。つまり戦争体験とかをどうやって受容してきたかっていう考証になりうるかと思って。浜田到は1918年生まれなので、全くの同い年の人としては、中村真一郎とか福永武彦がいる。福永武彦は池澤夏樹のお父さんですね。彼らはいわゆるマチネ・ポエティクっていう運動をしていた人たち。西洋の、定型押韻詩の技法を取り入れようみたいな運動です。
小説家で言うと島尾敏雄が一歳違い。第一次戦後派、第二次戦後派あたりになります。西洋的なものを日本の私小説的なものの中にどう取り込んでいくか、ということを意識した人たちと同年代です。

玉:詩も平行して書かれていたんですもんね。浜田遺太郎という名義で。同時に短歌もやっていて。初期の歌の方が、やっぱり結構定型っぽい歌が多くて塚本とかはその頃の歌はかなりもう絶賛していて、 後期の方の破調の歌のことをかなり批判というかボロカスに言ってて。でも大井学さん著の評伝『浜田到―歌と詩の生涯』によれば生前はやっぱり塚本もいたく感動して、塚本の方から手紙をよこしてやり取りをしていたっていう。有名な話として塚本が「鹿児島に行ったら遊ぼうよ」みたいな感じで手紙送ったら、もうそれだけはしてくれるなと。とにかく誰とも会いたくないからっていう話があったり。
あれらしいですよ。この現代歌人文庫の解説が塚本の浜田到批判の初出らしいですよ。これで今まで絶賛してた歌も批判し始めたみたいな。

か:なんでこんなことしたんだろう、ってめっちゃ思った。

江:さっき、オタク的なビジュアルイメージと幻想文学的なそれって実はけっこう地続きなのではないか、という話をしたと思うんですけど、1980年ごろの日本って、カルチャー方面で、いわゆる「ロリコン」ブームのただなかだったはずだから、そういう風潮に乗っかりたくないというので批判的になった面もあるのかもしれないな、と。そこと一緒くたにしていいわけではないとも思いますが、小説で言うと川端康成の「片腕」とか、あるいは河野多恵子とか、そういう系の耽美にも通ずる、偏愛的な目線を歌から感じなくもないです。

檸:前半の方は結構そういう目線ありますよね。

玉:少女のモチーフもめちゃくちゃ出てくる。

江:塚本さんの解説文のタイトルも、「晩熟未遂」だし、当時なにか未熟さとか倒錯性とか呼ばれてそうな要素が、塚本さん的に距離を取りたいものだったのかな、と。すごいわかりやすい記述だと、塚本さんから見た「失敗作」を六つ並べて引用した後の149頁のコメント。「一首一首が病んでいる」ってあって。

玉:「一首一首が病んでいる。それはこの六首にすら歴然たる少女趣味を指すのでは決してない」って(笑)

江:その次のページの段落行ったら「それに引き換へ、初期作品群「由緒」や「圓の影」 には、四十年代の少女趣味や、贋幻想派的発想は片鱗も見られない。」って言ってて。なんか とりあえずそこと違うんだって、めちゃくちゃ言いたかったのかって。

玉:最初は良かったんだけどっていう。

か:あとは夭折して神話化していて、みたいな。同時代的にはきっと絶賛されている中で、塚本邦雄のオルタナティブ精神が働いて脱神話化みたいなことをあえてしたのかなっていうことは思いますけど。なんとなく。
僕の選はそんなところでカリフォルニア檸檬さんお願いします。

檸:そうですね。三首選(三首に限定する、というニュアンスで)に困ったんですけど。とりあえず質がいいものを持ってきたつもりで。
でも、とりあえず2週間ぐらいで読んだ中で、なんて言えばいいんだろう、なんか序盤の方でやっぱどうしても習作が残されちゃってるなって思っちゃって。この歌集のタイトルになっている『架橋』としてまとめられているのって亡くなってからなんですよね。

玉:みたいですね。歌友の方々の有志で。

檸:(歌を)落としたどうかはわからないけど後半の方がちゃんとしてるじゃんって思って。同じモチーフとか、似たモチーフとか、好きなモチーフみたいなの結構使ってると思うんですけど。 2首目の「くらい」って言うのが最初の方は「曖い」とかで、あとは普通に常用の「暗い」を使ったりとか、「黄昏」の「昏い」使ったりとかっていうのを結構やってたりする。あと「空」とかも頻出するかなと。結構色々あると思うんですけど現状の読感で、到達度が高いと思ったものを三首もってきました。一首目からいくと。

カリフォルニア檸檬・選

神々の噂も絶えし裏町の日ざしあつめて象踊りゐつ

檸:まあなんか浜田到じゃなくてもみたいに言われると「まぁ……」って感じはありつつ。でもこの一首の取り立てていいところは、すごい謎の孤独感があるところだと思うんですけど。メタレベルで言うと、この人は噂を絶やしてないですよね。その、神々の噂。

江:あー。

檸:だけど多分、その場において神々の噂は耐えてると思っている状態でダメ押しの裏町って、別に裏町って思うんですけど。「裏町の日ざしあつめて」ってなんかいじらしいじゃないですか。「象踊り」ってなんやねんって思うんですけど。

玉:でも、可愛いですよね。象。

檸:象踊り。でもこれもさっきの犬の視点読みもできるかな。とか。象になって、象がいるわけじゃないと思うんですよね、実際に。「神々の噂“も”」とか。他の噂も絶えてるみたいな。なんかその、自分がしたい話も噂になってないみたいな。いや、それはその日によっては普通にみんなそうっていうか……なんて言えばいいんですかね。なんかそこがいいかなと思って持ってきました。 なんか話すことあんまりないかもしれないですけど、はい。

江:さっきの天使住居街みたいな架空の場所だと思うと、裏路地に入ったら謎のサーカスあるみたいなイメージで読めるかなとも思って。なんか象だけ踊ってる謎のテントとか想像して。

玉:panpanyaさんの漫画っぽい。

江:最近panpanyaさん読んでたからその影響かも。

玉:象が踊ってんのがやっぱいいですよね。神々の噂が~みたいな。そういう、ファンタジーっぽい感じから最終的にやっぱ象が踊ってるっていうのに着地させるっていうのは現代短歌っぽい修辞感覚っていうか。

檸:そうですね、小さくまとめすぎてない。みたいなところで。もうちょっと卑近なところの話に落ち込む場合もあるじゃないですか。

玉:単純に象がでかい。

江:象は身近にいない。

檸:かといってそのイメージが遠すぎるわけでもない、みたいな。なんか塩梅が。

玉:これ、仮に「天使踊り」とかだったらあんまおもろくない歌っていうか。まぁそういう感じですか。みたいな感じで。

か:いいチョイスですね。サーカスのイメージもあるし。

檸:「田園」って連作もあって普通に『田園に死す』(※寺山修司の第三歌集、および同名の映画)じゃない?みたいな、思ったんですけど。なんかそういうゾーンな感じがして。そっから持ってきた感じが。

江:「短歌のピーナツ」で引用されていた大井学『浜田到 歌と詩の生涯』の記事中の中井英夫とのやり取りの中で、確か佐藤春夫、太宰さん、あとなんか口語的系譜みたいなのになんか自分が例えられて嬉しいみたいな言い方してたのもあったと思うんですけど。その感じなのかなって。

まだ昏き咽喉《のど》へひとつの卵流しわが孵る空ひろがるを待つ

檸:これは、その、「くらき」関連で。なんか そんなちょっと嘘っぽいこと言いますけど。くらき関連のなかで1番ヴィヴィットな一首かなと思って持ってきました。全部から引用して並べてみたわけじゃないからあれなんですけど。この「まだ昏き」っていう「まだ」の初句も多くて。

玉:個人的に、卵のモチーフと言えば塚本邦雄っていうのがあって。それこそ「突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼」とか。卵っていうのが生まれる前の、とはいえ無生物でもない未然の生みたいな感じのモチーフとして初期歌集には頻出しているんですよね。それを真似たかどうかはまあともかくとして。或いはそれが当時の歌人の中で結構共有されてるレトリックだったかはわからないですけど、経由せざる得ない感じはありますよね。

か:そうですね。

江:目と卵と空、とかだとパッと連想したのはバタイユ『眼球譚』ですね。

檸:この「〜卵流しわが」の「わが」が「われが」とかなら……。でも、「孵る」のは「わたし(主体)」っぽい気がするんですけど……だとしたら、ちょっと嘘なんですけど。その、嘘っていうのは自分が卵になって孵るっていうのは嘘だと思うんだけど(笑)嘘っていうのはネガティブに使ってないから、ちょっと伝わりづらいかもですけど。「わが孵る」の「わが」のあたり丁寧に呼んだ方がいいところかな、と思うんです。だって、流してるのも主体ですよね。この「わが」ってなんなんだろう。

玉:普通に読んだら、こう卵をごくっと飲み込んで、いつか俺も成功してやるぞみたいな。

か:『ロッキー』みたいな。これも視点の移動を勝手にしてる気がするな。卵を飲み込んだ時点で視点が卵と一体化して内部に向かう。 自分も卵の中にいるつもりになって、空が広がるのを待つ、みたいな。

玉:また大井学さん著の評伝から引くんですが、浜田到は最初に中井英夫に見出だされて。『短歌研究』かなんか総合誌に載せてもらって、やったぜ!みたいな感じだったんだけど、そのあとは「前川佐美雄の初期作品めきますが、こういう作品がもっと多かったらどんなに素晴らしいことでしょう」とか。いい歌もあるんだけど、それが少ないと苦言を呈されていて。寺山にも作品見せて、「彼も褒めてたけど、 やはりいい歌、悪い歌については全く僕と意見が一致し、あなたの自信作はどう考えても良くないということになりました。これは怖いことです。第二作以後が心配なのです。」と割と普通にディスられてる。こういうのを読むと「空ひろがるを待つ」っていう感じがしてくる。

檸:でもなんか「待つ」とか他力本願じゃねえかっていう。

玉:たしかに(笑)卵飲んでる場合じゃない(笑)

檸:そうっすね。なんかやっぱ三首選ちょっと難しくて。なんかこの空のモチーフがどういう変化があって今この空っていうモチーフが使われてるのかとかを、やっぱ丁寧に見た方がいいかなっていう気持ちで引いてきたんですけど。ちょっとそこまでの時間がなく。

どこでも円らな瞳が閉じられる時だ空の大きな円だけをのこし

檸:「円だけをのこし」がしっかりしてるな、でとりました。……終わり。って感じなんですけど。どうしよう。でもこれも空ですね。

玉:でも、普通に読んだらつぶらな瞳が閉じられて……でも「どこでも円な」ってどういうことなんです?なんか他にどっかに行ったらつぶらじゃなくなる目があるみたいな。

か:なんていうかな。「円らな瞳」でひとつなんじゃないかな。「円ら」か「円らじゃないか」っていう対立より。

檸:あ、そうですね。「円な」ていうのはただの装飾語で厳密に言うと、どこでも目が閉じられる時。

か:人間の、ですよね。

江:人の目線で全部目が閉じて、世界のカメラ、 架空のカメラみたいだけ見て、みたいな事を言ってる感じなんですかね。

檸:でもこれは例えば「どこまでも」とかだったら時間軸の話だと思うんですけど、「どこでも」っていうのは……「どこまでも」だったら順接だと思うんですけど。「どこでも」だから混雑してくる。で、えっと混雑してるが故に答えを出すべきだと思うんですけど。

江:すごい雑なイメージで。とりあえず世界終わってて、歴史とかも全部終わって、なんか全部終わって、神が見てました。 みたいなノリなのかな。

檸:でも、「空の大きな円だけをのこし」は空を地上から見てる目線じゃないですか?

江:たしかにそうですね。

檸:この「られる」が要するに受動態なのかそれとも可能態なのか。自分は可動で読んでましたけど。

玉:ここまで読んでこの歌、今回取った中でもとびきりに韻律の躓きがありますよね。

檸:「円らな」を初句として「時だ」で切りたいがゆえに「目が閉じら」で7にして、「れる時だ」で5音にして。自分は8/7/5で読んだんですよね。

玉:これはもう塚本は大激怒ですよ。塚本は自分で開発したが故に破調の時こそ定型のボディーがしっかりしてなきゃ的な論理を持っているから。

か:厳密な方法論がないじゃないか、みたいな。感覚でやってない?みたいなそういう感じだと思う。

檸:でもそういう意味では天使住居街にはかなりいい感覚ですよね。9音あるけど、普通に7音ぽく読めますよね。

玉:結構ここまで読んだ歌は割と破調の中でも、まあ割と韻律はいいっていうか。短歌として普通に読めるけど、この歌はもう自由律に近い感じっていうか。もちろん自由律=韻律が悪いではないけど。

檸:個人的には「閉じら/れる時だ」の句跨りは結構グッとくるポイントだったりするんですけど。それなら7音になってた方がっていうのもあるでしょうし

玉:上句でここまで破調にするなら、せめて下句は77で整えたくなってくるのもあると思うんですけど。

檸:「円だけをのこし」いやキモいなぁっていう……(笑)いや、これいいニュアンスで言ってるんですが。

玉:言いさしのかたちで。結句に関しては1音だけだし絶対なんとかしたくなる。

か:瞳を閉じてって、瞳閉じてないじゃんみたいな話ってなかったですか?平井堅の。瞳を閉じてるんじゃなくて、瞼を閉じてんじゃないの、みたいな。結構前からこの使われ方ってあるんだなって。

江:確かに、うん。

玉:それかまぁあれですよね、平井堅がこの歌から引用したか……。

か:慣用句的に使われてたんだなっていう。

檸:でもまあ、普通に目閉じるとか言いますもんね。モニターを閉じる、とか。

玉:やっぱ、あれですよね。つぶらな瞳だけになってる世界って感じですよね。道具としてはつぶらな瞳だけがあって、それが動画的な感じでほわーっとフェードアウトフェイドインみたいな感じで空の大きな丸に変わっていってるみたいな。

檸:なんか今それで気づいたんですけど、この「られる」を可能寄りで読んでた理由がやっぱり「どこでも」の「で」な気がするんですよね。これ例えば「どこも」とかだったらもっと限定できるじゃないですか。玉野さんが言った説で世界の構築っていうか、世界の前提?を。「どこでも」だとちょっと限定が緩みません?……まぁ一旦パスしますか。

玉:一旦江永さんの選いきましょう。

江永泉・選

酷薄な花の秩序に従ひて喪きひと開くなほ一日を

江:ちょっと自分の読み方とかが偏ってるのと、寄せ集めてるのがぐちゃぐちゃになってるんで、前提知識が全然スカスカというか、ガチャガチャしてますっていう前提で喋っていきます。 とりあえずこれ読んでて、僕もカリフォルニア檸檬さんと一緒で、最初の方の歌があんまピンとこなかったというか、似たような感じのが多いなと思って。ちょっと言いたいことっていうより、おしゃれに寄せてる感じがしてたんですよね。で、だんだん後ろの方に行くと、個人的にはなんか ピンとくるやつの方が多かったんで。うーんって思って見てて。その後、細かい編集方針みたいな、ちっちゃいとこ見てたら、ちょっとびっくりしたのが、 時系列的には「架橋」とかが結構あとの作品で、同人誌とか載ってるのが、2番目に入ってて、最後の方が初期の作品らしくて。

檸:これ編年体じゃないんだ。

江:ちょっと変になってるみたいで。しかも単に ひっくり返しただけじゃなくて、時系列をちょっといじってるっていうのがあって結構びっくりしてたんですけど。全体像ってどんな感じなんだろう。みたいなのを最初に考てかから読みたくて。なんとなく自分も玉野さんと一緒でっていうのもおかしいけど(笑)オタクっぽいのと、短歌っぽいものにぼんやり関心があって。多分それって自分がアリプロを10代の頃聞いてたのと関連してる気がしてたのでそういう感じのものとして浜田さんとか中澤系さんとか 読んでて。っていう感じの目線で見てたんですけど。評論とかも一応載ってたから、ちょっとしっかりは読めてないんですけど、色々ぱーって読みながら見たのが塚本さんをニーチェに寄せてて、浜田さんが自分のことリルケに寄せて、俺はリルケで行くんだみたいなのを言ってるのを後ろの歌人論の方が、否定じゃなくて、西洋を歌おうとしていて、それは美で、でも限界があって、みたいな言い方してたと思うんですけど、そこのところをもうちょっと考えたいなと思って。自分の関心も割とそういうのに近いとこあって。美でいろんな違いを超えていくみたいなのは個人的にいい雰囲気だなっていうのと、でも単に美っていうときって、すごい 〈ナチュラル系〉みたいになっちゃう感じが自分の中であって。でも、そうじゃなくて無機質な感じっていうのがずっとしてたので。それが例えば人形のものだったり、あるいは「世界の黄昏」とか「神々の噂も絶えし」と「象踊り」をくっつけるみたいな。なんとなくその感じがいいなと思ってて。他の評論とか読んでても、なんか、えーっと、確か、 谷川さんが「時間を敵だ」って言ってるのに、これが1番良くないんだみたいな言い方を確かしてて。「ニヒリズムを政治的なんちゃらが1番凶暴になる」みたいなことを言ってたから、多分、時間っていうので流れてるのとかが、全部で、自然で美しいみたいなノリで、言いたい感じの人みたいな理解で、読んでこうって思ったんですよね。っていう感じで「酷薄な花の秩序に従ひて喪きひと開くなほ一日を」っていう。死んだ人から、花、すみれとかが出るみたいなイメージってずっとあると思うんですけど。それが、「酷薄な秩序」で、しかもそれに従って死んでるはずのものが開く「なほ一日」みたいな動きがあるのに、全部が死んでるというか、切り取られてるっていう感じていうのが、すごくぽんと出てる歌なのかなって思って。で、このノリだとモダニズム短歌特集とかで出てくるのが自分の中では腑に落ちて。自然をロボロボした感じで捉えるっていうのを持ってこようかなとっていう感じでした。あ、すいません喋りすぎて。

玉:全然大丈夫です。

江:さきほどから動物の歌をいくつか引いてもらったので思い出したのが、牧野信一ゼーロン で。言葉遣いがめちゃくちゃバタバタしてるんだけど、舞台の村みたいな 感じとかがすごい似てる気がしてて。1930年代前後ぐらいから書いてた気がするんですけど、なんかあの頃の人のことをいくつか 思い出して。前田夕暮の自由律短歌で飛行機に乗ってめちゃくちゃテンション上がって「山山山」みたいなのを詠んでいたのも戦前だった気がして。意外とそういうのってこの辺を掘っていったら見つかるのかなってテンション上がったりしました。もしかしてそういうのに影響受けてたりしたのかなと、考えたりしてました。あと字の話がしたくて、それでも持ってきたのがこの「喪き」で「なき」ってルビはすごいなって。

檸:そうですね。「喪き」と「なほ」やばい。

玉:頭韻キマってますよね。確かに、秩序とか言われると中澤系とかを思い出す感じはあるっすよね。「秩序 そう今日だって君は右足と左足を使って歩いたじゃん」的な。

江:別に「酷薄な花」ってスタートしてるけど、そんなに残虐なイメージとかは特にないっていうのがすごくいいなって。

玉:「花の秩序」っていうのは花は自然と開いていくものだみたいなことのイメージですかね。

江:うん、そうですね。切っちゃって花瓶に挿した花とかも後から咲いたりするじゃんっていう。あれのイメージだと思いました。それを「喪き人」として重ねた瞬間に、すごく中澤系とかのイメージと重なったりしたんです。

玉:今すごく合点がいきました。花は蕾の状態で切られて花瓶に差されて。その花はもう命は絶たれてるはずなんだけど、そのシステムっていうか、秩序に従って開いていくんだという。それが「喪き人」と投影されていくみたいな。うんうん。

か:浜田到は日本のリルケと呼ばれているので、リルケの話をするんですが、リルケってどういうことしようとしてたかっていうと、一つはロダンの彫刻を経由しつつ、近代化の中で失われていく「固有の死」を取り戻そうとした、というようなところがあって。 確かにその意志はこの歌を見ると反映されていたりするかもしれない。

玉:それこそ、あれですよね。先程も話した実存主義っぽい感じっていうか。

か:酷薄な花の秩序に従うっていう状態は、いわゆる近代社会的な秩序っていうシステムに飲み込まれちゃって、もう死んでる人なんだけど、そのシステムの中でまた開かされるみたいな、そういうのに対する皮肉的な視線はこの歌にはすごく感じますね。

玉:産業社会、フォーディズム的なというか。

江:完全に自分の好みみたいな話になっちゃうんですけど、こういうタイプの綺麗さみたいな良さみたいなのが多分自分も好きで。いつかネットとかでも、なんとなくオタクとかってそういうこと言えるものを作ってるんじゃないか。みたいな妄想をたまにするんですけど1度もうまく言えたことはないと言う……。ではそろそろ次の歌を。

円を円を歌のひろがりここへ今そっと一滴死者を落そう

江:この歌は玉野さんが引いてくれた歌と近い頁でしたっけ?

玉:そうですね。僕が引いた三首目の犬の歌と同じ頁ですね。

江:ありがとうございます。自分の中で主体がなさそうな歌っていうか、イメージが全然できないというか具体的なヴィジョンが見えない歌の中で自分が特に好きだったがこれで。最初の「円を円を」の繰り返しは、多分他のやつでもあった気がするんですけど、そこから「歌のひろがりここへ今そっと一滴死者を落そう」っていうので。何をイメージしたかっていうと塚本さんが、どの評論だったか忘れたんですけど、手紙が来た時にマチ針にインク浸して書いたみたいな細い字だって書いていて。そのペン先からインクが垂れるイメージがして、そういう風に読むとなんかこれってメタっぽいというか。自分がどう歌を作るかと繋がってんのかなっていう。

か:なるほどなるほど。

江:で、完全に連想ゲームみたいに喋っていくと、この「一滴死者を落とそう」で空から丸が降ってくるのって爆弾のイメージでもあるし、人が落ちて死ぬっていうのでもあるから、なんかそういうものが死っていうのと、例えば水の流れとかは大体生のイメージに寄せて理解されるはずだけど、それを敢えてくっつけているとか。 で一滴のインクのシミみたいなのが想像の世界を広げていくみたいな、その円と歌の広がりっていうのがちょうど真っ白な紙にペン先をポタっとっていう感じに思えて。で、そっと一滴 っていう風になってるのとか。あと内科医だったっていう話を読んで点滴のイメージとか、当時の点滴がどういうものだったかはわからないんですが。あとは点眼薬の感じとか。あ、それは僕が今ちょっと点眼薬使ってるから、多分それのせいですごい頭に残ったんですよねっていうのが全部くっついて個人的にもテンションがあがったのがこの歌でした。

玉:この歌は江永さんがとっていて、初めてまともに読んだんですけど、すごい面白い歌だなと思って。確かになんか作中主体がない感じっていうか。この「歌」、「歌」っていうのが江永さんの読みだと、おそらくこう、短歌の「歌」だと思うんですけど、僕はなんか割といわゆるソング……シング・ア・ソングの「歌」として読んで。なんか歌、短歌ってやっぱなんかこう、 円形に広がっていくイメージが僕はあんまりなくて。やっぱ縦書きのイメージがあるからだと思うんですが。でも江永さんの言うような歌って概念みたいなものがこう広がっていくみたいな把握も可能だと思うんですけど。僕はどっちかっていうと声、みたいな把握の方が、ワっとこう、円形に広がっていくイメージがあって。そこに一滴死者を落とすっていうのは、まぁ全く意味がわかんないんですけど。でも、なんかこう円が……歌っていうものがあって。それが円形に広がっていって。そこの中心にこう、死者がポツンと落ちていくみたいなのは結構なんとなくイメージが可能っていうか、アニメーション的な感じで。でも、ただなんかそこに普通に考えると、この主体がどういう方法でかわかんないですけど超巨大上位概念みたいなやつが、こう死者をポトっと落としてるみたいな感じにも読めるんですけど。なんか別に実体はないっていうか。

江:うん、そうです。なんか一応リルケとかロマン主義とかって神っていう時はあんまり人格っぽい、 そういうイメージではなくて自然が神みたいな。花が咲いていて美しいということに神を見出しちゃうみたいな。

玉:スピノザの〈神即自然〉的な。汎神論的な把握ですかね。

江:感覚的には繋がってんのかな、とか。すいません、今めちゃくちゃ雑なイメージでやってて。自分はどっちかって言ったら小説のほうとかを見てて、なんかそっちで横光利一とか。あんま、なんか日本日本した感じになっちゃったけど、 こういう方向に行く横光利一とかいたのかなとか、そういう想像したくなったりして、みたいな気分になってました。えーっと、で、最後の歌にいきます。

八時間労働おわりし虚空に夕月は遠き異国の紋章のごとし

江:えっと、なんでこの歌をひいたかっていうと、やっぱ、「八時間労働」って短歌で使えるんだ、この人すごいと思って(笑)でも、時々そういう、「一九四九年夏」とかもちょっと夏入ってるからあれですけど、「一九四九年」だけだったら絶対使えないってパって思っちゃうタイプの言葉だけど使ってるし。あと確か土曜日から始まる歌とかあったと思うんですけど、なんかそういう、その暦とか 時刻とかで、しかも労働みたいなものを入れた後に、こういうロマンチックなイメージを繋げて作り出すっていうのがすごいなって思って。多分自分の趣味でもあるんですけど、これぐらいの時期にプロレタリア文学みたいなのが 1回盛り上がったけど潰れて、モダニズムの人たちが文権復興っていみたいな流れの中で。僕の趣味がやっぱりロボみたいに花が咲くとか、そういうものだからだと思うんですけど、八時間労働終わってパって空見たら、 異国の文章みたいに月が。みたいな。ここの混ぜ方すごいすきで。1980年前だから、戦後すぐぐらいですかね。こんぐらからこういうノリあるんだって。自分の中ではこういう歌をもうちょっと掘っていきたいなって思った歌だったんですよね。で、あとこれは多分間違った読み方なんですけど。こう読んでみたかったなってちょっと思ったのが、「八時間」で1回切って、「八時間/労働おわりし“うつそら”に」とかだと多分リズム良くなるから、ありなのかなって思って。

玉:うん、わかります。一回「八時間」の五音で切れるから、そこ誘惑されますよね。

江:そういうことを思いながら。あと、単に空じゃなくて「虚空」っていうと、やっぱめっちゃ疲れて虚無になってるのと、雲とかがない空が重ねられるから一回抽象度ぐってあげてっていうので、機械っぽいっていうか、近代っぽいものっていうか、身も蓋もないものと美しいものを繋げるみたいな技を使うと、こういう歌ができるんだみたいなことを、浜田さんを読んだおかげで勉強できた気がしたんで、ちょっと自分もいつかいい感じのやつができたいな、みたいなことを思ったりしました。

か:五首選だったら、僕もこれ入れてたんですよ。すごく良くて。これ、急に生っぽいというか、確かになんか浜田到っぽくないぞ、みたいな(笑)この「虚空」っていうのは「そら」とも読めるので「八時間労働/おわりし虚空そらに/夕月は」とも一応読めるんだけど、ただやっぱり指定はされてないので、なんとでも読めるかな。

江:あ、そっか。「虚空そら」……。「虚空そら」いいっすね。

か:「虚空そら」かっこいいですよね。『BLEACH』感が……。

玉:『BLEACH』感ありますね(笑)

か:「虚空」ってわりかし仏教的な言葉ですよね。「異国の文章」っていうのは、やっぱ西洋の王家の紋章なんだろうなって。

玉:到がやっぱ医者だから。町医者が8時間労働して、帰り道にこう月がかっこよく浮かんでるんで……みたいな。これが現代の労働者だったら「いや、残業がなくてよかった……」みたいな。全然ニュアンス変わってくると思うんですが。

か:これいいですよね。ある種、天使住居街の歌に似ていて。こちら側と向こう側っていう。

檸:ちなみに土曜日が初句の歌は28頁ですね。「土曜日。こがらしに地下のみ冴えそこに暗き翼はね憩めたし」

玉:「土曜日。」の初句字足らずかつ句点やばいっすね。

檸:でも、ちょっとあれですね。質感としては八時間労働もやっぱちょっと俗っぽい感じ。

か:この歌の「暗き」は「暗黒」の「暗」なんですね。

玉:浜田到自身は短歌定形についてこう言っていますね。「短歌性とは、三十一音にして、それ以外のものではあってはならない。なぜなら短歌的なものが私を呼ぶのではなく、 定形が、制約が、完結が惹くのだから」って言ってるんですよね。それがなんでこれになっちゃうのかなって(笑)

一同:(笑)

か:短歌の韻律についてはアフォリズムのどこかにも載ってた気がしますね。

檸:74頁75頁あたりですかね。

か:あ、言ってますね。「定型の精霊ーーながく権力により眠らされてきた魔の韻律。だからリズムで物を見ることの誘いから、つねに覚めていなければならぬ。たとえ小鳥のように歌うとしても。」

檸:要するにまだその短歌未満みたいなところにいるみたいなことですか。

玉:平行して詩をやってたから。

江:うんうん。なんかあれですよね。前のページの断章で、詩と短歌をが反対の方を向いてるみたいな言い方をしてた、というか「血と樹液 詩と短歌の間」っていう題のアフォリズムだから、すごいずっとなんかその間でごにゃごにゃごしてたのかもしれないですね。

か:うんうん。

江:いや大丈夫かな、これ。最後の方見たら「こまかな感情の慓えが、エネルギー粒子の振動波に、死が気化に似るのは、わたしのなかで短歌が詩へ傾くのとおなじ度合で、詩が科学へ傾斜するからだろうか。」って言っていて。

か:うーん。

江:なんか僕の感覚だと、モダニズムの人でこういうことやりたくて頑張ったけどうまくいってなかったねってめっちゃ言われる、みたいなの多い気がするから。問題意識はわかる気がする。

か:全体的に音楽性をすごく否定していて。いわゆる57577、あるいは四拍子っていう音楽性。「とにかく時間は敵である」っていう谷川雁の引用もしている。一方で「空間には確かに生を慰撫し落着かす不死性がある」と言っている。時間と音楽って表裏ですよね、ベルクソン的な感じで。

江:リズムとか持続性とか。

か:リズムはわざと崩しているところでもあるし。だからそれが、近代的な時間の流れへの抵抗なのかもしれない。 

玉:ちなみに、浜田遺太郎名義で『詩学』っていう雑誌に掲載した論考では「すこし厳密に測るなら、わたしのなかで発想の重心は「在りたい」とき歌へ、「在らねばならぬ」とき詩へ、微妙にずれるのかもしれない。詩はテーマから感動へ、短歌は逆な方向へ遠心する。だから詩作するときは生活の、歌作するときは思想の、はげしい耳鳴りが断続する。」と言っているんですよね。

檸:ああ、言ってることはわかる。作歌という過程によって、短歌に向き合う作者の「一首←作者」の矢印のところに読みどころがあるみたいな価値観の発想ってあると思うんですが。そういう偏りの。先ほどの「短歌未満……」みたいなのも、似た感じで理解できる

玉:それこそ塚本にしても岡井隆にしても歌人だけど詩作品も発表していて。でも塚本岡井も短歌先にやってて、あとから詩も興味でてきたみたいな。ちょっと詳しくないんであれですけど。でも到はどちらも平行して作っていたので、そこに差異が出てるんですかね。めちゃくちゃなこと言っちゃうと浜田到的には「詩としてよければいいじゃん」みたいな気持ちがあったのかどうか。

か:そんな気はします。

玉:破調だけどさ、でも短歌だって言っちゃえば詩じゃん?みたいな。

か:ルビを振って韻律の指定をしないのも、目でまずは読めよっていうことなんだろうな、と。

江:あとは76頁からの「隠者の暁(或いは逃亡目録」っていう晩年の日記みたいのがすごい 生々しかったです。83頁の辺りからはなんか健康保険問題みたいな話をしてて。

玉:だから結構あれですもんね。最初に総合誌デビューした時点でもう40過ぎてたらしいし、同時期には寺山修司とかがいたり、それこそ中井英夫がその時マネージメントしていたのが春日井建で特別に若い歌人と比較されたりとかもしてたから、そういうので年齢的な焦りとかもあったのかもしれないし。

江:そうですね。85頁のあたりってすごい印象的だったんです。「十一月十八日 土曜 火山灰 盲聾のひとは、音はつたえられてくる空気の波として頰にうけとめつつききとるという。その音、恋おし。観音―音を観るー観音、観音、カンノンと呟けば、「目を瞑り、目をあけ、生きた」という墓碑銘がうかんできた。ハイデッガーの哲学―ー筆写しつつあり。健保問題、逼迫す。」

一同:(笑)

檸:こういう挿入の仕方って「寒冴えし」みたいなやり方とちょっと似てますよね。

江:そうですね。確かに。開高健とかもハイデガーの表現から『輝ける闇』って取ってきて小説書いてるけど、すごい俗っぽいものをやってるところはちょっと連想したりとかもして。自分の印象だと、それひっくるめて全部っていう時って、全部俗に引きずり落とすみたいな方向に行きがちなのかなっていう印象だったんですけど。逆になんか全部を美の方向に行こうとしてめっちゃ頑張ってる人いたんだっていうのが、すごい読んでよかったなって思ったことでした。



単発の読書会のつもりで集まったのですが、思った以上の盛り上がりと知見の深まりが得られたので、定期で読書会を開催のうえレポートをこちらのnoteアカウントで公開していきたいと思います。折角なのでこの四名のゆるやかな集まりを、今回の読書会中でもキーワードとなった〈円環〉からとって「円環の会」と名付けます。次は春頃に開催予定です。


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