
トライアングル理論について/ロックとプロレスと特撮
確か最初にロックミュージシャン・大槻ケンヂ氏が提起した記憶があるトライアングル理論についてです。
これは、ロック好きはプロレス好きで、プロレス好きは特撮好きで、特撮好きはロック好きであるとする三角形=トライアングルな相関関係にあるという意味の事を云います。
私自身に当てはめますと、その理論は正しいとしか言い様はないのですが他の方はどうなのでしょうか。
ここで相関性を分析してみます。
プロレスラーの入場テーマソングには多くの洋楽が使用されております。ちょっと有名なナンバーだけでも、
レッド・ツェッペリン/移民の歌
「超獣」ブルーザー・ブロディ
ブラック・サバス/アイアン・マン
ホークとアニマルによる伝説のタッグチーム、ロード・ウォーリアーズ
ピンク・フロイド/吹けよ風、呼べよ嵐
「黒い呪術師」アブドーラ・ザ・ブッチャー
ジグソー/スカイ・ハイ
「千の顔を持つ男」ミル・マスカラス
なぜレスラーたちがロックアイテムをチョイスするのかは不明ですが、格闘技とロックのビート感、もしくはエレキギターのディストーションサウンド、たまたま挙げたものには、プログレ等バラエティに富んでいますが、総じてロック的な‘激しさ’というイメージで繋がり合うのかもです。
そしてプロレス好きは特撮好きであるという点。
かの格闘王・前田日明氏が10代に空手を始めた理由は円谷プロダクションが生み出した最大の特撮ヒーロー『ウルトラマン』最終回において、最強怪獣のゼットンにウルトラマンが敗れた事にショックを受けて敵討ちをしたいという純粋な動機によるものである事は良く知られたエピソードです。
異空間の演出という点での共通項、特撮ヒーローと怪獣等との格闘シーン、そこに付随して正義と悪という二元論の適用です。プロレスで言うベビーフェースとヒールという役割分担、プロレスと特撮のその構造に親和性はそれなりに存在します。
そして一旦、はまるや否やマニアと化す点も類似性があります。
特撮好きはロック好きという点も世界観、ギミック、様式的な要素がロックにもそうした類似性を感じるのかもしれません。確かに1960年代から70年代は特に洋楽のロックジャンルは変容していきながら胎動した面白さがありました。まさに次から次へと登場する上でも、個性的アーティストと特撮キャラクターには重なる感があります。
もちろん、ロック好きもマニアと化します。
俯瞰した視点で、令和の現在におけるコレクター気質のある人の減少傾向を考察していくと、その点は想像の域は出ませんが、制作サイドからはマニアに成りにくいソフト供給と物を所有しない世代においてマニア人口の層が存在しているのか、やや懐疑的に私は捉えています。
つまり、従来型のトライアングル理論が現在は見えにくく40代以上にしかあてはまらない理屈なのではないかと感じるのです。
ロックマニアであればレコードとCD。
プロレスマニアであれば雑誌、書籍にビデオとDVD。
特撮マニアであればプロレスマニアと同様プラス玩具。
所有欲がマニア度をアップさせ、相関性を深くさせていくという流れです。
個々人でこだわりをもつことができる優位性がある一方、所有欲は無いけれど、ジャンルに興味がもてる人もいるのは間違いないという見方。
後者はこだわりというよりはフラット感、平均的知識の域は出ないのではないかという推測に至ります。
このトライアングル理論は多分にこだわりをもってしまった人間においてのみ編み出された、ジャンルが備えていた精神性の共有なんだと考えます。
その精神性を追及していくと、やはり創造的な価値観である0から1が生まれていく原点、制作動機への探求に行き着くのです。
モノを持てないとそうした心境を垣間見ることは不可能なのかという問いかけがありそうですが、現在の時代環境についてまずは考える必要があるかと思います。
インターネットという媒体を我々は手にしたことによって、もはやタイムマシーンを手に入れた感覚ではないかと、これは過言ではありません。
40代を境に、30代以下に備わっている感覚の一つにアーカイブ感覚があると私は感じています。
これは現在と過去を同列化できる思考と言えます。
検索エンジンが当たり前の行動パターンにおいて、動いて調べるという一見、結果に結びつくための一手間が存在しないことでプロセスは自ずと形骸化されてしまいます。
プロセスを省略して結果を得るものに思い入れはもてるのか、私はこの点にも疑問符を付けます。
もし、ジャンルのもつ精神性の共有を発見したいのならば、少なくとも自分の足で動いて何かを得ることが必要だと言わざるを得ません。
合理性からどれだけの煌めきを得ることができるのでしょうか。合理性を分かりやすく表現すると‘当たり前’という言葉で集約されます。
当たり前とは常識の意味であり、感謝を甚だ持ちにくい感情表現です。
そもそも、トライアングル理論に登場するアイテムであるロックとプロレスと特撮こそ非常識を形にした媒体に他なりません。
‘当たり前’で捉えられて、その人には何が残るのか、ロマンは生まれるのでしょうか。
思い入れをもてる媒体があることの幸せ、これこそ肝要だということが分かれば、ある種の恋愛関係が成立するのだと思います。
個人的には良い時代に生まれて良かったと言える最後の世代、ラインなのかなと思っている次第です。
トライアングル理論は40代以上の時代感覚なのかもしれませんが、少なくとももうすぐ50歳になる私にとっては心の豊かさに大きく貢献してもらった確かな理だと言えます。
ある年のよく聴き込んだCD6枚。
上段左からアーティスト名だけですが、
ミッチェル・フルーム
ビル・フリーゼル
ビル・エヴァンス
サム・プレコップ
XTC
三上博史
どれも行間の深い音楽群です。