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もう一度、つながる。

夏の初めまで暮らしていた場所に、半年ぶりに行ってきた。

そこにあるのは、

私から、距離を置いてしまった場所。

私から、関係を絶ってしまった人。

ここで出会った人たちと再会するのは気恥ずかしかったけれど、

みんな、何も言わずに満面の笑みで抱きしめてくれた。

懐かしい風景と懐かしい顔ぶれ。胸がきゅーんとなる。

ここにもう一度来られるようになるまでにずいぶんと時間がかかった。

ここにいると、自分がとても小さな子どもになったように感じる。

2年前、コンビニも街灯もない、山と草原に囲まれた暮らしに一目惚れして、東京から安曇野へ移住を決めた。

四季の変化がありありと感じられるここでの暮らしは、気持ちが穏やかになる一方で、心の深いところにある感情が揺さぶられることも多かった。

たぶん私はここで、誰かと無条件に分かり合いたかった。

たぶん私はここで、誰かに無条件に私という存在を受け入れて欲しかった。

たぶん私はここで、誰かと無条件に繋がりたかった。

そんな「誰か」に対する期待でいっぱいの私は、ここで出会う人との共通点が多いほど安心し、分かり合えないほど不安になった。

相手に嫌われるのが怖くて、相手とぶつかるのが怖くて、NOと言うことも言われることも避けた。

自分と考え方の似ている人だけを受け入れて、分かり合えない人を拒絶した。

働き方を変えても、住む場所を変えても、付き合う人を変えても、思えばこれまでもずっと同じようなことを繰り返してきた。

でも結局、「誰かに何かをしてほしい」という思いは、私が「私自身にしてあげていないこと」ばかりだった。

どんなに親しい人でも、その人の痛みや悲しみを100%理解することはできないように、人と人は本当の意味では分かり合えない。

私が誰かに対して同じことができないように、無条件に私という存在を受け入れられるのは、この世界で私しかいない。

誰かと深く繋がるためには、自分とつながる必要がある。

それは全部、「私が私を認めること」。

これまでの人生で「分かり合えない」という理由で関係を絶ってしまった人たちは、

もしかしたらもっと大切なことを気づかせてくれるために、私の前に現れてくれていたのかもしれない。

本当は、
「分かり合えない」んじゃなくて、自分で「自分を受け入れる」勇気がなかっただけなのかもしれない。

『 君は君で僕は僕 
そんな当たり前のこと
なんでこんなにも簡単に 僕ら
見失ってしまえるんだろう
(略)
ひとつにならなくていいよ
価値観も理念も宗教もさ
ひとつにならなくていいよ
認め合うことができるから
それだけで素晴らしい 』
                    『 掌 』Mr. Chirdren

人と人はそもそも全く別の魂を持った、全く別の存在。

人と人は違って当たり前で、「違う」と言うことも言われることも怖がらなくていい。

自分と相手の間違い探しをやめて、もっと広い視点で見てみると、

私と考え方が似ていても似ていなくても、そんなこととは関係なく、

相手が何も言わずに私にしてくれたこと、相手が私を想って言ってくれたことに気がつき、あったかい気持ちになる。

自分が正直になればなるほど、人付き合いって、案外とてもシンプルなものなのかもしれない。

不思議なもので、「ひとつにならなくていい」と意識してからの方が、

自分の気持ちを大切にするようになったし、人に興味を抱くようになった。

価値観の近い人の話も、全然違う世界を生きているように見える人の話も、もっと知りたいって思うようになった。

分かり合えないから、分かり合いたい。

だから人は時にぶつかり、傷つけ合う。

そうしていつの日か、ただ違いを認め合えればいいんだって気づく。

ポジティブな感情もネガティブな感情も存分に味わって、きっと人生の最後に残るのは、「ありがとう」なんだと思う。

人間は、不器用で、愛おしい。

人生は、複雑でシンプルで、味わい深い。

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Photo @ Azumino, Nagano イラムカラプテ(旧シャロムヒュッテ)

住み込みでゲストハウスのスタッフを経たのち、同じ敷地に雑貨屋さんを開く。中にいて気づくことよりも、離れてみて気がつくことの方が多かった。ここでの暮らしも、今の暮らしも、どちらも幸せ。過去はいくらでも変えられる。

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