没法子が私のモットー
noteを初めてダウンロードしたのは実は3年前。大学4年生、その時も確か「誰に語るでもなく、語りたいな〜」なんて思ってダウンロードしたような。で、何個か記事を投稿して、満足して、すぐアンインストールするという。当時の記事は残ってなかった。
まあ今回もそんな感じになるかもしれませんが、ブログ感覚で書いていきたいなと思います。
早速本題へ。
「没法子」
読み:めいふぁーず、めーふぁーつ
意味:仕方がない、どうしようもない
そういえばかつてこのnoteで、座右の銘は「臥薪嘗胆」と書いた記憶があるのだが、私は最近、この「臥薪嘗胆」をやめたのだ。
「臥薪嘗胆」はその文字の通り、 たきぎの上に寝て、苦い獣の胆をなめること。意味は悔しさを耐えて再起を期すること。なぜこの言葉を座右の銘にしていたかというと、それは約10年前、私が高校生だった頃に遡る。当時、人間関係、勉強、部活と忙しなく日々を過ごし、また悩みも多かった私は、よくベッドではなく床に薄い布団を敷いて寝ていた。これは勉強を夜遅くしても次の日しっかり起きれるようにといった目的があったような気がするが、いつしか硬い床の上で寝ることを当時読んだ漢文に出てきた「臥薪嘗胆」と重ねて、人生で悔しいことがあったら、硬い床の上でその出来事を思い出し再起を図るというような行為を繰り返すようになった。まあそんな当時の行為を私は「がしんショータイム」とふざけて名付けたりもしていたが、至って真面目に、毎日そこで再起を図っていたのだ。この行為は一人暮らしを始めてからも、就職してからも続いたのだが、最近、本題の「没法子」という、これもまた中国語に出会ったことで、やめた。(浅田次郎の歴史小説『蒼穹の昴』を読んで出会った言葉です。ここでの細かい経緯は後ほど…。)
気づいたのだ。「どうしようもないこと」は世の中にたくさんあると言うことを。それはある意味絶望かもしれない。
「臥薪嘗胆」が座右の銘だった頃の私は本気で、「自分が行動すれば、相手は変わってくれる」と思っていた。だから色んな人に噛み付いたし、喧嘩もした。それがきっかけで連絡を絶ってしまった人もいる。そしてそこには必ず、「私がこんなに言ってるのに、なんでわかってくれないの」という気持ちがあった。分かり合えないことが許せなかったのだ。
しかし、大学生、社会人ともなると、本当に色々なバックグラウンドの人と出会う。大学生は微妙なところだが、高校生までは自分と他の人との差異はあまり感じず、そのわずかな差は簡単に埋めることができるように見える。だから私はその差を埋めようとあらゆる行動に出ていた。それが社会人になると、差を埋めようとすればするほど、溝ができていく。もしくは何も変わらない。特に仕事をしていると、色んな考え・性格の人がいて、色んな視点があり、分かりあうことが人生ではじめて無理だと感じたのである。そして社会人になって暫くし私は、「こうやって行動すること自体が無駄なのではないか…?」と、今までの自分の行為を疑い出した。差を埋めようと行動してるだけ時間の無駄ではないか、と。
実際、現時点の結論で言うと、私は自分の行為を無駄、とまでは思いたくないが、プラスではなかったと考えている。プラスではない、つまりゼロ。何も変わっていない。自分の行為は何も変えられない。このような結論に至った。
何も変えられない。これはどうしようもないこと。そこで私は「没法子」という言葉を使い始めた。「臥薪嘗胆はゼロだった。何も変えられなかった。変えられないことはどうしようもない。没法子だ。」と、そこで目に見えて心境の変化が起こったのである。
私はかつてのように、相手を変えたいと思うような強い闘志を持つことはやめた。どうしようもないことがあることを理解し過ごしていく、それが私のモットーになったのだ。180度物事の捉え方が変わってしまったが、良いこともある。
自分にとって「うっわー、ありえねえ」と思うようなことをする人に対し、以前はその人に噛みつき正論を解いていたところだが、現在は「自分にとって理解できない人なんていっぱいいるよな」と言い聞かせて、考えるストレスを減らしたのである。
どうしようもないことは世の中に沢山あると思う。どうしようもない、わかりあえないこの人間社会があること、それは私にとって大きな絶望だった。しかし、これが私の現在の結論だ。
そして、私の座右の銘は、今後また変わる時が来るだろう。そうやって色んな考え方を経験して大人になっていきたいと思う。
※いきなり重めの話題になりましたが、毎回毎回こういう話題じゃなくても、色々書いていきたいな〜と思います。