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9年目の I love you

母へ

もう9年だね。あの日、すぐ電話しなくてごめんね。地震の後は回線が混雑してつながらないの知ってたから…。後でいとこが電話して話せたって聞いて、なんで自分はしなかったんだろうって本当に後悔したよ。

後悔しかないね。

地震があった日は、なんであんなに他人事のように構えていられたんだろう。テレビにも新聞にも全然出なかったからかな。隣の石巻からは1本道だもんね。そりゃ土砂崩れでその道がふさがったら、報道も助けだって入れないよね。

結局自分の家がどうなってるか確認できたのは、3月13日日曜日、朝日新聞の号外だったな。もうどうなっているかは想像がついていたから、家族の安否確認に気持ちを移すことができた。当時住んでいた神奈川県は計画停電の対象地域だったから、停電中の数時間だけ眠って、それ以外の時間、ずーーっとテレビとインターネットとツイッターを追いかけてた。そしたら1週間して父から電話が来たとき、ちょうど計画停電中で取れなかったんだよね。悔しくて涙が出てきたな。女川は電柱も全部倒れてたし、電波もなかったからさ、携帯会社のアンテナ車が近くに来てくれたときじゃないと電話も何もできなかったんだよね。充電も少なかっただろうに…

父は高台の上の町立病院にいたのに、胸まで津波に浸かったらしいね。たまたま防水のタフネスケータイだったから、あのどろどろの水に浸かっても壊れずに済んだって。それからずっとタフネスシリーズ使ってるよ。

母は地震が来たとき、あまり歩けないおばあちゃんを車に乗せて真っ先に逃げたんだってね。ちょうど仕込み中で、火の元やレジの確認をするから先に行け、と見送った父が言ってたよ。父も車で追いかけるつもりだったけど、キーが見つからなかったんだって。それで(津波も来るだろうから見物するかー)って軽い気持ちで病院まで行ったら、想像以上の津波が来て、病院の駐車場にいた人や車はみんな波にさらわれて、高台の下にあるスーパーに何台も流された車が突っ込んでいくのが見えたんだって。

でも何年か後に病院に行ったらさ、入り口の柱 1m 90cmのところに「ここまで津波が来ました」って書いてあって…。そもそも海抜17mのところに建っているのにね。きっと父は立ち泳ぎ状態で必死にあらがったんだろうね。建物の中にいて、流されなくてよかった。建物も丈夫で流されなくてよかった。落ち着いたとき、なんとなく上着のポケットに手を入れたら車の鍵が入っていたらしいよ。自分も車で逃げていたらどうなっていたかわからなかった、って興奮気味に話してくれた。母が逃げた先も流されちゃったし、ましてやどこも渋滞だったみたいだしね。

それで2回目に電話が来たときさ、まず言ったのが「大学は絶対卒業しろ。なんとかするから」だよ。家も店も車も財産みんな流されて、ほかの家族の安否もわからない状態でさ、第一声がそれってさ。自分の明日もわからない中、次の電話でこれ言おうって決めてたんだろうね。浪人して結局第一志望に合格できなくて、金銭的にも精神的にも本当に苦労をかけたと思うけど、今考えると大学を出してもらえて本当によかった。大学に行っていない父はさ、あのときどんな気持ちで「卒業しろ」って言ったんだろうね。「お母さんは?おばあちゃんは?」っていうわたしの質問に、どういう気持ちで答えたんだろうね。がれきの真ん中でひとりぼっちで、それを考えていた父のことを考えると胸が苦しくなるよ。

わたしはわたしでいっぱいいっぱいでさ。電車の中でも町を歩いていても自然と涙がこみ上げてきちゃったりして。やっと通った夜行バスで帰ったんだよ(道路ぼっこぼこで全然寝られなかったけど、大地震の数日後に開通させただけでもすごいよ)。仙台で友達のうちに泊めてもらったんだけど、この何もない時に、おにぎりを作ってくれて…物資もこれからの食べ物もどうなるかわからなかったのに、ありがたかった。

わたしは、疲労困憊の父がまだ見つけられていない母とおばあちゃんを探すつもりで女川に行ったんだけど。知り合いや友達の家族が、わたしの顔を見るなり、涙を浮かべて抱きしめてくれるから「あ、もうここの人たちはわかってるんだ。今安否がわからない人は無事じゃないんだ」って気づいちゃった。信じたくなかったけど。ふるさとの変わり果てた姿を見ても、母のことばかり気になってそこまで胸が痛まなかった。

それでね、思い出したんだけど、震災の2年ぐらい前にドイツ人の友達を連れて帰ったじゃん?そのときね、どうして家族にI love youと言わないかって話になったの。日本人は家族にそういうことを言わないって話したんだけど、「わたしの家は寝ているときに火事になったことがある。なんとか逃げ出せたけど、あのとき死んでしまっていたかもしれない。いつどうなるかわからないから、伝えられるときに伝えた方がいい」ってことを言われたんだよね。それでもピンときてなかったんだけど…

3歳児だろうがお年寄りだろうが、誰とでも友達になれる母。料理上手な母。ほめると隠し味は愛情3ccと笑う母。いつでも娘の味方をしてくれる母。自分のことを後回しにして他者を優先させる母。そして誰もに愛される母。

こうなってみて、世界で一番大切な存在って母だったんだな、と。ようやく気が付いたんだよね。おばあちゃんのこともすごく大切なはずなのに、それより母のことが心の大部分を占めてて。無事なのかわからなくて、苦しくて苦しくてつらかった。もう一度会いたかった。それで4月の自分の誕生日ケーキに「母にまた会えますように」ってお願いしたんだよね。

そしたらさ、母がわたしの誕生日に見つかってたじゃない。会えたのはもう少し後だけど。普段はあんまり信じないけど、運命かと思うよね。願いを聞き入れてくれたのかなって。

いろんな人が助けてくれて、いろんな人とつながって、震災があったからこそ出会えた人も、得られた経験もたくさんあった。震災がなかったら、今の自分はなかったと言えるかもしれない。

それを裏切るようだけど、今9年前に戻れるとしたら新幹線に飛び乗って逃げるあなたを止めに行きたい。わたしが命を落としたとしても、あなたを救いたい。

そう言ったら、ある人に「お母さんもそう思っておばあちゃんを連れて真っ先に逃げたんだよね」って言われた。言葉に出さなくても、家族の愛は深いんだね。

振り返ってみれば、留学、新聞記者、日本語教師、海外生活と、あのときの夢がみんな叶っている。もう後悔のないように生きたい。

そちらに行くまで、あと何十年か待っててね。みやげ話をたくさんこしらえてから会いに行きます。

2020年3月11日 真夏のパナマにて。