自伝的作品が好きだ。ミラン・クンデラの『生は彼方に』、マルグリット・ユスルナールの「世界の迷路」三部作(『追悼のしおり』、『北の古文書』及び『なにが?永遠が』)、ダニロ・キシュの自伝的三部作(『庭、灰』、『若き日のかなしみ』及び『砂時計』)、そして、イルマ・ラクーザの『もっと、海を――想起のパサージュ』。自伝的作品は、「自伝的」ではあってもあくまで「作品」なのであって自伝ではないところが面白い。自分の記憶や記録から作品世界を織り上げ、書かれる過去と書いている今の両方に同時に身を置きながら、自らの記憶やルーツといったものの意味を問い直していくというところに、自伝的作品の魅力があるように思う。
さて、トーヴェ・ディトレウセンの『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』(結婚/毒 | みすず書房 (msz.co.jp))。コペンハーゲンの貧しい労働者階級に生まれ育ったデンマークの詩人、小説家であるトーヴェ・ディトレウセンが、自らの半生を自伝的に振り返った作品だ。「コペンハーゲン三部作」とあるように、三作あるトーヴェ・ディトレウセンのオートフィクションを一冊にまとめ上げたのが本書。この記事では、「子ども時代」(原題は"BARNDOM")と題された一篇を取り上げることにしたい。
これが本作の書き出しである。ここに書かれている「希望」とは何だろうか。読み進めるうちに、それが母と娘の間の奇妙な――そして往々にして母からの一方的な――休戦協定であることがわかる。娘(幼い頃の著者)が、おそらくは不安定な母の精神を揺らすことなく、心の交流はないものの安寧に、二人それぞれの世界で過ごすことができる日の可能性が「希望」とされているように読める。第1章の最後において、筆者は次のように書くが、これこそ、記憶に寄り添いつつ距離を置くことができるという、自伝的作品ならでは魅力を伝える文章ではないかと思う。
子ども時代というのは、親が世界における絶対的な支配者として君臨しているように思われるものだ。子ども時代の母の印象を書いた第1章に続く第2章は、その支配者の片割れである父の姿から始まる。
いつこちらが侵犯したとて一方的に破棄されるとも知れない休戦協定を結んでいて、ある種の緊張関係にある母とは異なり、笑っている父は恐ろしくはない。一方で、引用箇所からもうかがえるように、父と娘は親密とは言えないようだ。それを裏付けるように、第1章では母個人と母娘関係に焦点が絞られていたのが、第2章で父個人について書かれるのはこの部分のほかに、読書家であり社会主義者であるという点のみで、残りの大半は父を含む家族の関係についての記述が占める。
第4章では、詩人、小説家トーヴェ・ディトレウセンが生まれる原因となった印象的な挿話が語られる。父は、トーヴェが文筆家を目指すきっかけを提供する一方で、その未来を、当時の常識的な見方で閉ざそうとする。
家族関係を中心に、遊び仲間のルット、大好きなおばあちゃんやその他の親族、学校や近所での出来事などのエピソードが語られ、全部で18章から成る「子ども時代」の中心となるのが第6章だ。ここで筆者はいきなり次のように書く。
「棺のように」とされる苦しい子ども時代。その苦しみはいつまでも続くように感じられる。狭くて暗い棺しか知らず、その中で懸命にもがいているうちに、死が唯一の希望に見える。
そのような苦しさをやり過ごすため、トーヴェは仮面をかぶる。「大人」が「子ども」である自分を圧し潰すために、自分の世界に立ち入ってくることのないように。
そうした子ども時代について、筆者は、女であることを理由に父と兄には軽んじられ、母には疎まれ敵視されさえした自身の経験に基づいて、息苦しく絶望に満ちたものとして悲観的に総括する。
そして、「子ども時代」の掉尾を飾る第18章。中学を卒業し、堅信礼を終え、ひとり残された家のリビングを見回しながら愛誦した詩を諳んずるトーヴェに、子ども時代がその終わりを告げる。
国民的な詩人、小説家としての名声を手にすることとなるトーヴェ・ディトレウセンであるが、本書からは、世界に馴染めない者として生を享けたように思う。語り口は感傷に流れ過ぎず淡々としているが、かえって愁いを帯びていて、寂しく寄る辺のない印象を持った。