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夏が来たので感傷マゾの話をしよう
夏がやって来た。情緒の欠片もない殺伐とした日差しを浴びてなお、人はなぜこの季節に素朴な憧れを抱いてしまうのだろうか。その要因であり結果でもあるものの一つが、ポカリスエットのCMである。今年はNewJeans的な、Y2Kと平成の融合したスタイルを取り入れたシリーズ「潜在能力は君の中。」が展開されている。
コロナ禍を経てインターネットはますます現実を侵食し、学校も仕事も飲み会さえもメディア体験になった。夏のイメージはサブカルチャーと広告代理店が作り出すビジュアルを元に、もはや恒常化した異常気象がもたらす命の危険を伴う暑さとはかけ離れた「青春」「エモ」「ノスタルジー」へと結び付けられていく。
前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。2010年代半ば頃から時折インターネットで話題になる「感傷マゾ」という言葉がある。青春もののアニメ・マンガ文化に影響された虚構の夏の幻想とエアコンの効いた部屋でだらだらと過ごしてしまった自分の学生生活という現実とのギャップへの自己嫌悪のなかであれこれ考え続ける人のことを指すこの言葉は、近年単なるインターネットスラングに留まらないレベルの文化事象になってきた。2021年頃から様々な大学で「感傷マゾ研究会」を名乗るサークルが登場し、文学フリマを中心とする即売会でサブカルチャー批評誌を出している人々と結びつきながら、精力的に同人誌を出版したり創作活動に取り組んだりと、様々な「作品」を生み出す土壌ができている。
本記事では「感傷マゾ」の概念とその歴史的な経緯について簡単にまとめていく。また、私自身がこの「感傷マゾ」をめぐる動きをどのように捉えているのかというスタンスを示しつつ、今後公開していく「ムーブメントとしての感傷マゾ」の分析へとつなげていきたい。
詳しい説明に移る前に一つことわっておきたいのは、筆者自身は2021年頃から感傷マゾについて様々なテキストを読んでいるが、実際に「感傷マゾ研究会」のような場に身を置いたことはないということだ。私が通う大学にそのようなサークルはなく、もっといえばいえば理系大学のボカロファンメイドサークルという感傷マゾとはかけ離れたカルチャーの中にいた。そのため、同人誌やTwitter以外で行われていたクローズドなコミニュケーションの様子についてわからないことばかりだ。あくまで様々な批評や作品、言及されているカルチャーを参照しながら書いているということを了解の上で読み進めてほしい。(もし関係者の方々が読んでいて訂正や感想があれば、ぜひコメントやX(Twitter)で教えてください)
感傷マゾとは何だったのか
感傷マゾとは、「存在しなかった青春への祈り」である。らしいのだが、これはキャッチコピーのようなものなので紹介したところで説明にはならない。
感傷マゾという言葉は曖昧かつ意味のぶれが大きい概念であるゆえに一言でまとめるのは難しい。なので、はじめに一旦あるイメージを共有したい。それは、大学生あるいはより大人になって自分の中学・高校時代を回想するという状況だ。美しい夏の田舎をバックに高校生の男女が恋に落ちるエモいアニメを観る。ああこんな青春を過ごしたいよなと思いながら学生時代を思い返すと、当時の自分は冷房の効いた部屋でだらだら過ごしてばかり。友達もましてや恋人もおらず、一人でアニメやゲームに浸って今と何も変わらない。もしあの時部活に入っていたら、好きな人を花火大会に誘っていたら、自分の人生はもっと違うものになっていたかもしれないのに。取り返しのつかない過去への後悔に苛まれながらも、何故かそれが心地良い……。結論からいえばこれは感傷マゾの原義とは異なるのだが、感傷マゾについて理解する上でこの「自分にはなかった青春」に対するコンプレックスは重要になってくる。
さらに詳しく細かいニュアンスを掴んでいく。ここからは、同人誌「感傷マゾvol.1」に収録されている「四周年記念座談会」の記述を要約しつつその後の状況などを補足していく。一応これを読まなくても最低限理解できるように説明していくが、この座談会非常に面白いのでぜひ読んでほしい。
感傷マゾのはじまり
「四周年記念座談会」(以下「座談会」とする)によれば、感傷マゾという言葉の初出は2014年である。
初期の感傷マゾの根幹には、虚構のヒロインがひどい目に遭う鬱展開の作品を見ながら喜んでいることへの罪悪感を、ヒロインに糾弾されたいという欲望がある。作品内の表現自体を消費するだけでなく、作品を消費する自分をメタ的に捉えつつ自己嫌悪に陥ることもまた快楽になっている。
ヒロインが酷い目に遭って、「うー、悲しいね…でも鬱展開に感じちゃう、ビクンビクン」が第一段階。そこからフィクションの中であっても虚構の存在を自分の快楽のために消費していいのかという偽りの罪悪感が第二段階。その偽りの罪悪感を、虚構のヒロインに糾弾されたいというのが第三段階だよね
この時期において、「青春」の要素は必須ではない。重要なのは自分の屈折した考え方や欲望について、ヒロインに正論をぶつけられて何も言い返せないという状況だ。そのため、エモい舞台が特に用意されていない以下のようなパターンも可能である。
僕が前にツイートしていた「JCに指摘されたいシリーズ」だよね。『独りは好きなのに、独りぼっちは嫌いなのね』とJCに指摘されたい、とかよくツイートしていた
ただ、自己への反省のみではなぜ「感傷」という言葉が使われたのかという疑問が残る。それを担保するのが「過去の回想」である。座談会ではエヴァについてこのように語られている。
「あれはマゾではあるけど、感傷ではないんじゃないかな。シンジ君にとってはずっと現在だし、感傷は過去を想うことじゃないですか。エヴァは、シンジ君の内面世界で展開する独白という感じ」
「あったかもしれない子ども/青春時代」という共通の幻想
当初、感傷マゾは「ヒロインに糾弾される」という「性癖」を表すゆえに、「感傷マゾ男」であった。座談会に登場しているわく氏とスケア氏の間の個人的なやり取りの中でスケア氏(*1)のことをうまくとらえた造語に過ぎなかったが、広まっていく過程で共感する女性もいたので意識的に「男」を意識的に消していったという経緯がある。
もう一つ、時間経過とともに起こった変化がある。それは、「日本の原風景」との結びつきの強化だ。
多くの人にとって回想して感傷に浸るような過去というのは基本的に子ども・学生時代になる。これは全人口的にみてもおそらくそうだが、感傷マゾに関わる人々は若年化しており大学生くらいがボリューム層と思われるのでなおさらだ。ゆえに、「あったかもしれない過去」は「あったかもしれない子ども時代」「あったかもしれない青春」と同じといっても差し支えないほどに強く結びついている。
この「あったかもしれない子ども/青春時代」像は、芸術やサブカルチャーの影響を受けている。例えば、新海誠『君の名は。』やソニーから発売された『ぼくのなつやすみ』など、作品の舞台は夏の田舎であることが多い。
しかし、都市人口比率が9割を超える日本において、フィクションに描かれるような田舎で子ども時代を過ごす人はほとんどいない。祖父母の家でさえ、地方都市の住宅地以上には人が集住する地域だろう。青春を過ごした地は郊外住宅地とショッピングモールというのが現実で、ノスタルジーを感じる日本の原風景は必然的に虚構ということになる。
このノスタルジックな虚構の風景自体を「感傷マゾ」という人もいる。しかし、自虐が介在しないノスタルジーは上記で説明した「感傷マゾ」の当初の意味から大きく離れる。そこで、座談会では「あったかもしれない子ども時代/青春」が虚構に過ぎないことを自分に言い聞かせる反省性を伴うものが「感傷マゾ」であり、伴わないものを指す言葉として「虚構エモ」が提案されている。
虚構エモ、ロジハラ萌え、青春ヘラ
ここまで見てきた通り、「感傷マゾ」に含まれる「感傷」「マゾ」「青春」の要素は、それぞれ密接な関係にありながらも必ずしも一体とは限らない。そこで、3つの下位概念を使って「感傷マゾ」について構造的に捉えていきたい。
1つ目は先ほど登場した「虚構エモ」だ。この言葉は、リアリティが欠如した偽物のようなエモさをもつものに対して用いられる。どこか懐かしさを感じる風景だが、実際に経験しているのではく、憧れの対象としてみているゆえの感情が中心にあり、具体的な例を上げるなら「お盆に帰省した山中の集落にある(架空の)祖父母の家で、縁側に座ってスイカを食べながら見る風景」は「虚構エモ」に当たるだろう。
2つ目は「ロジハラ萌え」だ。これは正論を突きつけて相手を追い詰める「ロジカルハラスメント」に萌えを感じるというもので、國學院大學感傷マゾ同好会が発行する「共感性致命傷説集vol.1」に掲載された恋石川千明「わたしたちの好きなロジハラ」にて詳しく言及されている。
恋石川によると、ロジハラ萌えは次のように説明される。
「頭では理解しているが、自分の弱さや浅ましさゆえに見ないふりをしていたことを代弁し突きつけてくる」というのがロジハラ萌え属性を持つキャラクターの振る舞いであり、そこに萌えるのが、「ロジハラ萌え」です。
この記事では、高校の漫研を舞台とするきづきあきらによる漫画『ヨイコノミライ!』を例に上げている。作中では、漫画編集者の娘で既に新人賞をいくつも取っている実力者のヒロイン青木杏がぬるい漫研部員達を「感想と批評の区別もつかない自称批評家」「現実が直視できないオカルト少女」「文芸部からはみだしたボーイズ作家」「声優気取りで甘えた声……自己愛の強烈なナルシスト」「口ばっかりプロの半可通」「なんの取り柄もない、ただのオタクに居場所を感じているだけの無能オタク」と評し、彼らが目をそらしている現実を次々と辛辣に指摘していく。ヒロインは決して読者に直接語りかけてくるわけではないが、漫研部員が象徴する「痛いオタク」としての経験があれば容易に感情移入して罵倒されることができるだろう。青木杏はまさに座談会で言及されているような当初の感傷マゾの妄想を具現化したような存在だ。
そして3つ目の概念として「青春ヘラ」を取り上げたい。「感傷マゾ」を関した団体の中でおそらく最も活動量が多い大阪大学感傷マゾ研究会の会誌のタイトルにもなっている。
「青春ヘラ」という言葉は2021年に行われた大学生の青春コンプレックスについての対談の中で登場した。提案者であり、大阪大学感傷マゾ研究会の代表を務めるペシミ氏がnoteに詳しく著している。
この記事の中で、「青春ヘラ」の本質的な部分はこれ以上なく明瞭に示されているので引用したい。
青春ヘラはその名の通り、過去に青春できなかったことに対する後悔が軸となっている。そこから自己嫌悪に繋がり、感傷、快楽といった経路は感傷マゾと変わらない。異なる点は、「ヒロインに本質を見抜かれて罵倒されたい」といった、性的な要素(マゾヒズムが性的嗜好であるという意味で)が少ないこと、また、より厳密な自己完結ができる点にある。青春ヘラの場合、ヒロインという装置を利用せずとも、ダイレクトに自己愛に帰着することができる。感傷マゾがヒロインからの糾弾を通して自己愛を満たしたのに対し、青春ヘラは完全な自己完結を特徴とする。
実際のところ、近年の「感傷マゾ」イメージの中心はこの「青春ヘラ」のほうが当てはまりが良いのではないかと思う。
ひとつ加えるとしたら、「過去に青春できなかったことに対する後悔」の「過去」は直近、時に現在すら含むということだ。実際、「青春ヘラ」を刊行する大阪大学感傷マゾ同好会をはじめ、近年「感傷マゾ」についての発信を行っているのは主に大学サークルだ。学生時代が終わって5年、10年経ってからではなく、大学生が去年までの高校生活を振り返って、高校生が去年の文化祭を振り返ってといったごく短いスパンの反省を含んでいる。時間的な隔たりのある記憶に対しての反省というよりは、自分の「青春できたかもしれない現在」をメタ認知して「理想の青春」と比較する。世間的には青春真っ只中である高校生・大学生がなぜ感傷マゾなどといっているのか、という若年化の問題についてこの記事では詳しく扱わないが、興味深いテーマである。
「虚構エモ」「ロジハラ萌え」「青春ヘラ」という3つの概念を使って、再び「感傷マゾ」について考えてみよう。
「エモい」情動を引き起こすという意味の「虚構エモ」と自分の欠点を指摘されたい「ロジハラ萌え」は重ならない概念である。そしてこれらはそれぞれ「感傷マゾ」の「感傷」と「マゾ」に概ね対応する(感傷とエモは必ずしも一緒とは言えないかもしれない)。では、「青春ヘラ」はどうか。まず、題材が「青春」に限られるという特徴がある。そして、感傷や自己嫌悪といった「傷つくことの快楽」を含むとともに、「理想化された青春像」としてメディアなどから与えられた「エモ」を消費する。つまり、「虚構エモ」と「ロジハラ萌え」をどちらも内包している。これらの関係を図示すると以下のようになる。
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感傷マゾの論点
ここまで「感傷マゾ」概念について整理してきた。「感傷マゾ」自体はなかなかにインパクトのある言葉だが、Instagramや新海誠、シティポップリバイバルに至るまで、現代において「青春」「エモ」「ノスタルジー」は大きな影響力を持っている。そこで、次回以降の記事ではなぜこれらが今注目されているのかという疑問について「感傷マゾ」を起点に考えていきたい。
以下は今後投稿予定の記事だ。この連載に興味を持った方はぜひマガジンかこのアカウントをフォローしておいてほしい。(記事の公開日及び具体的な内容は予告なく変更する場合があります)
ノスタルジーとは何か?
「感傷マゾ」という言葉はセンセーショナルな響きをもつが、その実際はほとんど「ノスタルジー」である。ノスタルジーの語源はギリシャ語のnostos(家へ)とalgia(苦しんでいる状態)に由来し、当初はヨーロッパの傭兵(とりわけスイス人)によくみられた極度なホームシック状態を指し病気として扱われていた。今ではノスタルジーを病気だと思っている人間はいないが、それでも様々な「苦痛」と密接に関わる情動である。ゆえに、ノスタルジーについて考えることで、単なる過去を懐かしむ気持ちとしてだけではなく、「感傷マゾ」の「マゾ(=ロジハラ萌え性)」をもとらえることができるだろう。
現代のメディアやサブカルチャーはノスタルジーに溢れている。これは、単に少子化で新しいものを求める若者が少なく、過去を懐かしむしかない老人が増えてしまったからではない。むしろ若者が、より正確に言えば全人口的にノスタルジーが求められる社会があるのである。「ノスタルジーとは何か?」という問いを掘り下げながら、現代日本の若者を取り巻く状況をについて「制服ディズニー」や「青春ヘラ」を通して考えていく。
感傷マゾと自己の再帰的プロジェクト
「あの時自分がした選択は本当に正しかったのか?」という問いが深刻な問題になったのは、実はつい最近のことだ。なぜなら、つい最近まで人間は社会によって人生のありようがほとんど決められていたからである。選べるようになったがゆえに起こった多くの問題については、これまでアンソニー・ギデンズやジグムント・バウマンといった有名な社会学者らが論じてきた。彼らの理論をヒントにして、なぜ「存在しなかった青春」を祈ってしまうのかという切り口から感傷マゾの不可能性と可能性を考える。
「エモ消費」がもたらすものは何か?
リスク社会がもたらす不安とデジタル社会の利便性によって、「ファスト消費」「ノイズのない消費」が実現してしまっている。『花束みたいな恋をした』の「パズドラしかできない」は、実は「推し」や「エモ」にも当てはまるのではないか、という視点からいかに感情に振り回されない理性的な文化消費を取り戻すかについて考えていく。
感傷マゾは自己への専心ともいえるが、一方で様々な批評・創作サークルを生み、自己と世界を接続する動きも見せた。「自己」が問題化する時代に、感傷マゾの想像力はどのような形であれば人生を豊かにするだろうか。