人生を快適に過ごすために、自分に集中して、自分の理解に徹する。
「どうすれば自分が快適に過ごせる?」
なんとなく出てきたワードに深く考えさせられているしえるです。
「どうすれば自分が快適に過ごせるのか」を突き詰めることが思っていた以上に大事だったかもしれない
先日、家の断捨離をしていて、判断軸は「どうすれば自分が快適に過ごせるのか」1つで成り立つなぁと思った話を書きました。
なんでお気に入りのものを残すのか?
――それがあると、自分が幸せな気持ちになれるから。
なんで物を減らすのか?
――自分が動きやすく、管理もしやすくなって快適だから。
そもそも「快適に過ごす」ってほとんどが家や、家で過ごす時間に対して使われている言葉です。
でもこれって部屋だけじゃなくて、人生すべてに通ずるものなのでは?と思い始めました。
仕事も学校も家事も、人間関係も、考え方も、生き方も、全部です。
なんで働くのか?
――自分が快適に生活するお金を手に入れるため。
なんで掃除するのか?
――キレイな方が気持ちよく過ごせて快適だから。
なんで勉強するのか?
――自分が快適に生きていく知恵を得るため。
なんで化粧したり身なりを整えるのか?
――可愛かったり、カッコイイ方が自分のテンションが上がるから。
なんで自炊や運動をするのか?
――健康になって快適に過ごすため。
なんで人付き合いをするのか?
――他の人たちがいるお陰で生活が成り立つし、新しい視野に刺激を受けて自分に生かせるから。
なんでお金を使うのか?
――自分が快適に過ごすため。
なんで浪費しないのか?
――自分に必要なものだけあればいいし、何より管理が楽だから。
なんで最新家電を使うのか?
――自分の労力を他の大事なことに費やせるから。
なんで快適に過ごせるようにするのか?
――私はもうすでに生まれ落ちていて、どうせ生きるなら自分が幸せで快適な方が楽だから。
人間関係もお金も健康も、なんで悩むのかって自分が気持ちよく過ごしていたいからですよね。
どういう家に住めば、快適に過ごせるか。
どういう暮らしをすれば、快適に過ごせるか。
どういう時間の使い方をすれば、快適に過ごせるか。
どういう物があったら、快適に過ごせるか。
どういう仕事や勉強をすれば、快適な時間を過ごせるか。
どうしたら職場や学校で、快適に過ごせるか。
どうしたら移動の時間を、快適に過ごせるか。
どういう体の状態なら、快適に過ごせるか。
家族とどう付き合えば、快適に過ごせるか。
どういう友達や恋人となら、快適に過ごせるか。
他人とどういう距離感で付き合えば、快適に過ごせるか。
自分がどういう感情でいると、快適に過ごせるか。
結局どの問題も突き詰めれば「自分がどうすれば人生を快適に過ごせるか」です。
人は皆、違う考えを持つため、答えは1つではありません。
でも1人1人が「自分がどうすれば快適に過ごせるか」を突き詰めて考えれば、それぞれその人に合った答えにきっとたどり着けるでしょう。
むしろ苦しみから解放されるためには避けては通れない、1つの巨大なテーマなのではないか?と思うようになりました。
自分が快適に暮らすために「考えて、決めて、動く」
最近見たYouTubeでのオリエンタルラジオの会話で「皆が皆、あっちゃんみたいに考えられるわけじゃないんだよ」と芸人仲間の話をしていたのがとても印象に残りました。
気持ちはわからなくはないけど、私はこれを聞いて「思考停止」という言葉が頭をよぎりました。
あっちゃんは正直頭がいいと思います。
でも彼の知性は、あっちゃんにとっての得意なことで手段にすぎず、彼がやっていることの本質は知性とは関係ないのではないでしょうか。
あくまでいろいろ試して自分を理解して、「自分がどうしたら快適に過ごせるのか?」を模索した行動の結果にすぎないと思うんです。
自分が気持ちよい、楽しいと思う仕事に絞る。だからテレビに出るのをやめる。
自分がよいと思ったものにしか返事をしない。会いたい人と会う。やりたいことをやる。
詰まってきたなと感じたら取捨選択を検討し始める。
すべて、それが自分にとって快適かを判断して選択していっています。
自分なりに考えて、必要なことを調べて、何をやるかを決めて動く。
ダメだったら次どうするかを決めて、動く。
ただひたすら自分と向き合って。
自分がどうしたいか、何がよいのか、考えられるのは自分だけなので、「自分を理解する」ためには「考える」、または「感じる」という行動は必須だと思います。
繰り返していけば考える力は養われていきます。
自分に集中すると見えてくる快適さ
そして「自分を理解する」ために最も必要なのが、「自分に集中すること」です。
他人が快適に過ごせていても、自分にとって快適じゃなかったら、それは意味がありません。
他人がよいと思っていても、自分がよいと思わなければ、それは必要ありません。
他人に悪いと批判されても、自分がよいと思っていれば、それは変えることはできません。
他人の意見はあくまで参考にしかならなくて、要は自分がどう感じるかです。
自分がどう思うかがわからないと、自分にとっての快適が見えてこないんです。
自分の感情や思いはたしかに存在するものであり、それを変えたら自分に対して嘘をつくことになってしまいます。
自分に嘘をつくのって最も苦しいことだと思うんですよね。無理しちゃってるんで。
あともう1ついいことがあって、自分に集中していると他が気にならなくなってきます。
何事もあくまで自分がどう思うかが大事になります。
自分に集中して見えてくるもの=自分軸
よく「将来どうなりたいかビジョンを描きましょう」とか自己啓発だったり片づけ本だったりに出てきたりします。
でもそれって、わからない人にはまったくわからないんですよね。私自身がそうなんで。
今でこそ、自分の力である程度考えられるようになりましたが、今もまだ「自分がどうしたら快適に過ごせるのか?」を試行錯誤しながら模索している状況です。
自分が好きか嫌いか、得意か苦手か、やりたいかやりたくないか、とにかくやってみて、1つずつ判断していくという繰り返しなのかなと。
最初は他の人の行動や意見を聞くのも必要だと思います。
今読んでいる本にこんな一節がありました。
よほどの天才以外はひらめきにも限界があり、外からの情報があったほうがイメージしやすくなる。
実際にやっている人に会うことで「あっ、こんなやり方がある」と身近に感じ、「自分にもできそうだ」と可能性を見出せる。
まさにそのとおりだと実感があります。
むしろ他人を見ずに考えられる力があったら、ここで悩んでいません。
「あの人のこういうところいいな」「こんな風になれたら素敵だな」でもいいし、「あの人のようになりたくない」でもいい。
自分がどう思ったのかを集めていくと、気づけば自分軸が1つできあがっています。
変えられるのは自分だけ
あと世の中がどんなに不条理に思えても、今すぐ変えられるのって自分だけなんですよね。
自分の物事に対する受け止め方を変えていくことができるし、自分の行動も決められます。
何か問題が起こった時には、もちろん自分の力不足の時もあります。
その度にどうしたら解決できるのか考え、自分にできることは改善に取り組んできました。
でもお金をきちんと払ってくれない会社を変えることはできません。
人を傷つける言葉を放つ人は、対象を変えていつまでも放ち続けます。
これは自分にどうこうできる問題ではありません。
私は会社でとても嫌な思いをしたから、そこから離れることを決めました。
過干渉してくる人や自分の人格や嗜好を否定してくる人とも距離を置いています。
その人が悪いというより、最終的にはただ私とは合わなかったのです。
自分にとって快適じゃなかったんです。
もしかしたら自分のせいで相手が嫌な思いをしたかもしれません。
それでもどう受け取るかは相手次第だし、それで「私が私の人生を棒にふる理由はひとつもない」のです。
自分も相手も快適じゃないなら、離れた方がお互いのためです。
あとはもう自分と合わない環境から抜け出し、どんな環境が自分にとって快適で、どうすればそうなるかを考えていった方が有意義です。
そしてそんな環境が増えていって幸せな人たちが多数派になっていけば、世の中に変化が生まれる可能性が高まるのではないでしょうか。
解決には時間がかかるもの
私はこのクリスの考え方に賛同しています。
「悪い人」はいない。悪いと思われることをやっている人がいっぱいいるだけ。
問題は、自分の勘違いを教えてくれるために存在する。
放置した時間が長い問題ほど、解決には時間がかかる。
=時間をかけて解決していく。
問題解決って時間がかかるものだと思います。時が経つほど根は深くなります。
でもどんな時でも、気づいた時に取り組むのが1番早いタイミングになります。
私自身、退職とコロナ禍というよいきっかけがあったので、現在進行形で取り組んでいます。
この自分にとって不快な雑草の手入れをするためには、自分が管理するものを少なくした方が楽だなと思って、シンプルに考えるようにし、生き方そのものの改善に取り組んでいます。
実際に取り組んでみると、仕事に追われながら解決しようとしていたのは難易度の高い問題だったんだなと感じました。
まだ道半ばだし、不安もゼロではありませんが、自分にとって快適な環境とは何かという理解は着実に進んでおり、自己肯定感や幸福度・満足度は日に日に増えていっている実感があります。
自分の問題と他者の問題は切り離す
できれば、周りの身内の問題も一緒に解決していきたいなと思う気持ちはあります。
でもここは切り離して考えないといけないのかなと思います。(アドラー心理学にも通じますね。)
私は家族のことが好きです。
それは家を出たから程よい距離感で、良好な関係を保てているのだと思います。
家族だからといって問答無用で全部を好きではありませんし、嫌なところもあります。
すぐいらないもの買ってくるなぁとか、すぐに新しいのに買い替えるなぁとか、自分の不要物抱え込みを棚に上げて人の部屋には口出ししてくるなぁとか思うけど、これは相手の問題なので気に留めません。
また、真面目さから他人の過ちを攻撃しがちで、聞いているとよい気分ではありません。
これは気分を害するので最近は「人間は完璧じゃないし、他人を指摘するほど自分の首を絞めることになるから私は気にしないようにしている(だから私の前で言うんじゃねぇぞ)」と自分の意見を言うようにはしていってます。
でも大人になってから、親だってただの人間だとわかったし、親もまたその親から影響を受けていたり、複雑な思いや問題を抱えていたりするのだと理解しました。自分と同じように。
そしてそれは親の解決するべき課題で、こちらがどうこうすることはできません。
なんだったらそもそも自分が課題に感じて取り組んできた部分だから気になるだけかもしれません。
としたらそれは、悪いと思われることをやっているように見えるだけです。
自分とぶつかってしまう時も、心配してくれているからということも今ならわかります。
だから嫌な部分があっても、やっぱり大切な存在です。
それも快適な距離を保てるようになってきたからかなと思います。
まずは自分を快適に…
「どうしたら人生を快適に過ごせるか」を念頭に置いて考えると、本末転倒な事態も防げるようになると思います。
選んだ選択が快適でなくなった時に、どうすれば快適になるかを考えるようになるからです。
そして自分の身のまわりが快適になった時、どうすれば自分のいる地域やコミュニティが快適になるか、どうしたら地球の環境がよりよくなるかと、少しずつ視野を広げていけるようになるんじゃないかなと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございます。 書くことと写真を撮ることが大好きで、これからも活動していきたいので、ご支援いただけたら嬉しいです!