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『メンゲレと私 A BOY’S LIFE』

『メンゲレと私』は、1930年から40年にかけて、苛酷な運命に翻弄されつつも奇跡的に生き延びた、ダニエル・ハノッホさん(ダニエル)の数奇な人生を描いている。
ダニエルは、リトアニア出身のユダヤ人、わずか9歳でカウナス郊外のゲットーに送られ、その後、12歳でアウシュヴィッツ強制収容所に連行された。金髪の美少年だったダニエルは、“死の天使“の異名を持つ、非人道的な人体実験を繰り返した、*ヨーゼフ・メンゲレ医師の寵愛を受け特異な収容所生活を送る。しかし、ダニエルが見た真の地獄は終戦末期に連合軍の攻撃から逃れるため強制的に連れて行かれた「*死の行進」であった。暴力、伝染病、カニバリズム・・・・少年は人類史の最暗部を目撃する。

監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー

*ヨーゼフ・メンゲレ(1911ー1979) ドイツの医師、人類学者、親衛隊大尉。1937年にナチスに入党。1943年からはアウシュヴィッツ強制収容所で、貨車で到着したばかりのユダヤ人たちの選別を行った。囚人たちから双子の子どもたちを選び出し、人体実験を行った。子供たちを可愛がる一方で、非道な実験を行ったため、“死の天使”と恐れられた。ドイツの敗戦後は南米に逃亡、アルゼンチンに長らく潜伏した後、ブラジルで溺死した。
*「死の行進」(1944ー1945) 第二次世界大戦末期、連合軍の攻撃でドイツの軍事力が崩壊しかけた時、ナチスのSS兵によって行われた囚人たち(主にユダヤ人)の強制移動。ダニエルがいたアウシュヴィッツ強制収容所からは、1945年1月18日に約6万人が出発し、ブーヘンヴァルトやダッハウ、マウトハウゼンの収容所へ移動させられた。途上、遅れたり歩けなくなった囚人1万5千人あまりが、射殺された。

©︎2023 BLACKBOX FILM & MEDIENPRODUKTION GMBH

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クリスティアン・クレーネス監督
にお話を伺いました。

クリスティアン・クレーネス監督、こんにちは。初めまして。
ぼくは、今、13歳で中学1年生です。
日本の学校の教科書では、ホロコーストのことについて少ししか学ぶことがありません。なので、映画という形で記録してくださったことで、多くのことを知ることができました。ありがとうございます。
教科書で少ししか学べないのは、ホロコーストのことだけではありません。日本の戦争のことも同じです。小学校、中学校では少ししか学びません。しかも、戦争加害のことは教科書から消されようとしているし、広島では平和学習から『はだしのゲン』という原爆の体験が描かれた漫画が削除されました。
このことは、ぼくは問題だと思っています。
映画の中で、《代表団や子供たちとアウシュヴィッツへ行くと、私はメンゲレのように選別を実演する。「子供のトラウマになる」と大人はいう》と、ダニエル・ハノッホさんは語っています。トラウマになるのは恐怖からだと思います。だけど、その「怖い」を知ることが大切だと思っています。二度と同じことを繰り返さないためにです。
戦争や虐殺の歴史を知ることは、正直、ぼくも怖いです。『メンゲレと私』の映画では、語っているダニエルさんの目が全てを覚え写し出しているようで、怖かったです。怖いけど、知ることが大切だと思っています。
今日は、よろしくお願いいたします。

質問①《アドルフ・ヒトラーを率いるナチスはどのような理由で、ユダヤ人大量虐殺に至ったとお考えでしょうか?

答えはひとつではありません。虐殺につながる反ユダヤ主義というものは、そもそもヒトラーが開発したものではないです。人種に対する差別だったり、虐殺というものは、欧州では1000年前、中世の頃から多くありました。
虐殺や差別、処刑というものは、ほとんどが宗教を理由に長年行われてきました。
ユダヤ人に対する差別というのは、第一次世界大戦でドイツが敗戦したのはユダヤ人のせいであるとヒトラーが作り話をしたことで、ドイツにおける反ユダヤ主義はスタートしていきました。
ヒトラーが書いている本で『*Mein Kampf』という本があって、その中にはっきり書かれてあるのが、彼がユダヤ人に対して差別的な意識を持ったのは、ウィーンに住んでいた頃です。
ヒトラーの反ユダヤ主義は、戦争に入っていくと、どんどん過激化していくことになってきます。彼は、ユダヤ人のことを、病気、社会におけるバクテリアだ。だから、消さないといけない、移動させないといけない。そういった過激な発言、思想が生まれてくるようになりました。最終的に600万人のユダヤ人の女の人、男の人、子ども、老人が殺されることになりました。
ヒトラーをメインとした、反ユダヤ主義の歴史を学ぶことで、社会や人々の無関心さがどんなことに繋がっていくか、どんな結果を招くか、どんな悲劇を起こしてしまうか、歴史からそういったことを学ぶことができます。

*『Mein Kampf』ナチ党指導者のアドルフ・ヒトラーの著書。全2巻で、第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版された。ナチズムのバイブルとなった。日本では『我が闘争』のタイトル。


質問②《
映画の中で、強制収容所から解放された後の話で、オーストリア人は冷たかったが、イタリア人は親切だったというダニエルさんの証言がありました。何が対応の違いを生んだのですか?

オーストリア人というのは、ナチスから長年プロパガンダを受け、洗脳されていていたので、ユダヤ人のことが嫌いでした。全ての不幸、全ての災難、厳しい状況は全てユダヤ人の責任だと、心の底から思っていました。そのくらい洗脳されていたのです。ダニエルが冷遇を受けた大きな理由は、そういった背景で、憎たらしいユダヤ人の1人としてでしか見られなかったのです。
一方で、イタリアでは、ダニエルは人として見てもらえたのだと思います。彼は、当時13歳で、両親を失い、家族と離れ離れになり、行き先もなく、そして体調も悪かった。
不幸な少年として、彼に食べ物や飲み物を与えたり、休む場所を与えたり、そういった人道的なことをイタリアではしてもらえたのです。

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1945年1月27日にアウシュヴィッツ強制収容所が解放され、今年で79年目を迎える27日へ向け数回に分けて記事を出していきます。

サニーフィルムの有田浩介さんに通訳をしていただきました。

1月26日(金)より  ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー
関西は1月27日(土)より シアターセブン(大阪)・元町映画館(神戸)

Chiristian KRÖNES ©Masumi Kojima

ブラックボックス・フィルム&メディアプロダクション
BLACKBOX FILM & MEDIENPRODUCKTION GMBH

オーストリアのウィーンを拠点に、国際的に活動するドキュメンタリー映画の製作プロダクション。監督、プロデューサー、カメラマン、エディター、カラーグレーターが集まり、歴史や文化、社会問題をテーマとした高品質のドキュメンタリー作品を、チームで製作している。「ホロコースト証言シリーズ」の第一弾として、日本で2018年に公開された『ゲッペルスと私』は、ヨーロッパ映画賞にノミネートされ、アカデミー賞のロングリスト入りを果たした。その他にも、ガーナの家電ゴミ汚染を追った『Welcome to Sodom』や、海洋資源の乱獲問題や、社会の分断を象徴する有刺鉄線の歴史を巡るプロジェクトなどがある。

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