なつやすみ旅行のパリから帰ってきました。
遅めのなつやすみで10月下旬のフランスに11日間。その間6人の友人と会い、5種のレストランに行き5箇所のカフェでコーヒーを飲んで、4本の映画を鑑賞、2つの美術館に訪れた。1回目、すなわちはじめてのことは書ききれないほどたくさん。パリ自体は3度目の滞在だった。
滞在先のアパートでは昼食と夕食を3回、友人に作ってもらった。
何もかもが美しい瞬間の連続だった。ふだん日本で、料理も洗濯も出かけるお店を決めるのもすべてのことをわりと積極的におこなうわたしはいつも自身の選択を信頼しているし、失敗することもあまりないものだから周囲も頼ってくれることが多かったように思う。自分でもそれを「わたしの役割」だと考えていたし好んで受け入れていたのだろう。
それがフランスにいて、別に無理をして引き受けなくてもよかった。この場所では多くの人が出来ることを持ち合い、それぞれ協力しあって生きている。そしてこの地で生きることを選んだひとたちは、自らしっかりと立っている(いわゆる自立精神)が高く、選択に関する判断基準が明確で、生き抜く力がつよい。
無意識下にある「こうしなければならない」「わたしがちゃんとしなくちゃ」というがんじがらめの思想。そこから解放できたのだろう。とても心地よかった。彼・彼女たちなら頼れるし任せられるからと周囲に素直に甘えられる環境にあることにひたすら、感激。
頼ってもいいんだろうな、楽しんでいいんだろうな。
あらためて感じた。フランスはわたしがこの先の人生を過ごしたいと願う居場所。誰にも文句を言われる筋合いはなくて、好きなように生きる、やりたいことがあれば行動する、話したければ語り合う、愛したい人を愛する。すべてがシンプルで明快だ。
大好きな映画「おっさんずラブ」で、春田創一が語った言葉が心のなかにずっとずっと響いていたのを思い出した。
「いいんだよ、幸せになって」。まるで許しを得たような気分である。
* * *
自分をこうあらねばと規定するものの奥底にある正体はいったいなんなんだろう。これを日本で実現できない理由はなんなのか。そしてなぜわたしは、フランスにここまで執着するのか。わたしらしく生きたいなら日本で勝手にやっていればいい。国や環境そのものを変える必要性はどこにあるのか。
「T'as pas envie de rester au japon?(君は日本にいたくないの?)」
レストランへ行く途中の路上で、友人に尋ねられた。聞かれたときに反射的にもすぐさま「いたくない」と答えてしまった。理由を深く詮索しないのはその友人の優しさである。彼自身も母国を離れてフランスにいるひとり。
技術や専門性を生かした仕事を見つけ、自らにその職位を勝ち取り、この国でたくましく生きる。彼のように新たに自ら新たな社会と役割と共同体を築き上げて生きるひとの姿を見ると、自分もまた、そうありたいとたやすく思ってしまう。実際のところどれほど大変で苦しいものかは直視せずに。
* * *
パリで出会えたひとたちのことを思い出してみる。アパートの大家さん、タクシー運転手、レストランの店員やバーで出会った若者。かがやく思い出がわたしの心の隙間をやさしく包み込み、おおきな自信となって、人生の次の段階へ行こうと背中を押す。彼や彼女たちと同じようにフランスで生きる自分を想像してみる。ただの短期滞在ではなくて、居住したら二度と日本に帰らないと覚悟するもの。
いつだってまた新たに人生は始められる。
だから日本に帰ってきてもさみしかったり悲しかったりはしない。たぶんそう遠くない未来でまた戻っていると確信しているから。わたしのいるべき場所、自分らしくいられる環境のもとに。