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たいしたことない日々のこと201015

たまたま散歩がてら訪れたモンマルトルの丘にあるサクレクール寺院で祈りの場所に少しだけ座っていたら突然ミサが始まったから、心の準備ができていないわたしはその勢いにうまくなじませるように慌てるそぶりを何一つ見せないよう、神父の声に耳を傾けた。10月第一金曜日の話。

ミサの構成はサンティアゴデコンポステラ巡礼のときと同じだ。神父からの言葉が始まり、賛美歌を歌い、聖体拝領があり。巡礼の道の途中、スペインの小さな街ナバレッテ(Navarette)の教会で受けた時に隣に座った見知らぬ女性に「拝礼の列に並びなさい、ほら」と急かされ、「わたしはクリスチャンじゃないから」とためらった自分の姿を思い出す。それでも「あなたは巡礼者だからいいのよ」と送り出されてよくわからないまま、教壇の前に並ぶ列に加わった。

それはあまりにも、唐突すぎる神さまとの出会いだった。

今回も同様に、意図しないタイミングの展開。フランスでも「あなたはこのミサを聞く必要があるのだ」と言われているようでどこか不思議な気持ちである。何かしらの縁があったのだろう。心の準備なんて関係なしに。

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帰り際にはショップでメダイを購入し、家にあるネックレスのチェーンにつけかえた。小さなハートがモチーフの可愛らしいその様はつけているだけで心が強くなれそうで、触ればミサの言葉をいつでも思い出せる。

Éclairez-moi, touchez-moi, guidez-moi, toujours et maintenant.    (わたしを照らし、わたしに触れて、わたしを導いてください。いつでも、いますぐにでも。)

それにしても前回のブログを書いてからの出来事が様々ありすぎて何から書いていいのかわからない。思いのまま思考の記録として残しておこう。

今のところ体調におおきな問題はない。2週間前に会ったひとりの友人から今週末にソワレ(自宅開催の夜のパーティ)に呼ばれていたが、彼女から今週連絡が入り「PCR検査で判明したのですが、コロナに感染しました...」と連絡があった。彼女はわたしと会ったあとに陽性者との濃厚接触があったらしく、発熱の症状は数日でおさまり、今は味覚障害が続いているという。

フランスの感染者数は日に日に拡大し2万人を超える日が頻繁になった。最大限の警戒をと政府は発表するものの街を歩けば、密集してカフェやバルに集まる老若男女。テラス席に座る彼らのくちもとに、当然ながらマスクはない。

身近なところで感染のリスクだけでなく、この国の根本的な問題はなにひとつ解決することなく、ずっとずっと喉の奥にひっかかった魚の骨みたいに、ちくちくと痛みを届けてくれる。まったく、なんなんだかなあ。そうぼやいてしまうことが、すっかり増えてしまった。

だからいいことも悪いことも含めて、この国で生きるとはどういう意味なのかを毎日執拗に感じている。理想論ではご飯は食べられないし願望だけでは答えは出ない。行動すること、共有すること、連帯すること、そして誰かを頼ること。いまはこの一番自分が苦手とするこの最後の頼ることの部分に意識を入れて、すっかり日常になったルーチンのような円環的時間から、またもう一つ違う時間軸に飛び移りたい。

お読みいただきありがとうございます。サポートは社会の役に立つことに使いたいと思います。