ファイナルファンタジー15 日常と神話をつなぐゲーム③ 【FF15のストーリー】【王の帰還】


②【FF15のしくみ】からの続きです。


■FF15のストーリー

日常の延長から始まったFF15の物語は、どこへ向かうのでしょうか。

FF15、そしてノクト達4人は、やがてどうあがいても日常に引き返せないところまで行きます。

踏み込んでいった非日常は、日常の維持あるいは日常との往復を繰り返しながら、どんどん拡大し、深みを増していきます。
なぜならFF15の最終到達地点は非日常をさらに超えた「神話」なのですから。
最後にはとんでもないところまで遠足に行ってしまうのです。もはや到底「遠足」とは呼べない地点まで。

やばいな、ということが薄々分かってくるのは、物語に召喚獣が登場し始めたあたりです。

FF15における召喚獣とは、神です。あるいは神の一部です。
ノクト一行は帝国を打倒するために、とんでもない力を持っているという召喚獣に協力を仰ぐことになるのですが、これがまた、とてつもなくデカい。FF15にはでかい敵キャラがたくさん出てきて、そのデカいやつらとどんどん遭遇する遠足的な楽しさがあるのですが、その中でも召喚獣は群を抜いてデカいのです。
そしてこいつらが、何を言っているんだか全く分からない。人間の言葉を話さないのです。形だけでなく精神もデカい。

で、この召喚獣が、なんだかよく分からないが力を貸してくれるようなのですが、この力の貸し方がまたトリッキーです。こっちからは呼び出したり操作することができず、戦闘を続けていると時々突然現れて、桁違いのとんでもない力で敵を文字通り一掃する、という、台風とか大地震みたいな、大自然のカタストロフィみたいな表現なのです。
雷の召喚獣「ラムウ」がその力を振るって去って行った後など、あたりは完全に焼け野原と化しています。

あまりにもパワーがデカすぎる。
これらが要するになにを示しているかというと、この世界には人間以上の存在があること、人間にはどうすることもできないとんでもない存在があることの表現です。こんな奴らと何一つリスクなく付き合えるわけがないというのを肌で感じさせるのです。

この辺りのヤバさも、FF15ではストレートに言葉では説明されません。
常に、「見ればヤバさはわかるだろう」、というやり方です。
僕たちと同じ精神を持った人間が、日常に根差したうえで、とんでもない非日常に踏み込んでいくのを、説明ではなくあくまで体験させることにこだわります。

この召喚獣が出てきたあたりから、物語は人間のルールで動いていかなくなり、次第に神のルールに従って進むようになります。それは人間の観点からすれば、超越的で唐突で、理不尽ですらあります。
しかしこれまでのゲーム画面をよく見ていれば、まあそりゃそうなのか、と考えざるを得ない仕組みです。なぜなら彼らは人間以上の存在でとんでもない力を持っているのだから、そんな連中が人間のルール(文法)に従うわけがないのです。

むしろその人間のルールを積極的に踏みつぶしていこうとするのがFF15のストーリーラインです。

何故そんなことをするのか。それについて詳しく考えてみたいと思います。


■「王の帰還」

ただ、FF15のストーリーの魅力を全部辿って語っていくと果てしないため、やはりここは最終到達点である「王の帰還」に至る流れに絞って話をしましょう。ここにFF15の魅力とヤバさは結集していると言って過言ではありません。
相当複雑なことをやっているので解説するのがめちゃくちゃ難しいのですが、頑張ってやってみます。


FF15の物語は究極的なところまで行きます。
つまり、神話との同一化および対決です。

代々の王や、神々のヤバいくらいでかい力を借りながら、ノクト一行の旅は続いていきます。
しかし一方で世界がどんどん破滅に近づいていることが分かってきます。簡単に言えば、夜がどんどん長くなり、完全に光がなくなった世界が到来しようとしている。こちらが力を得る速度よりも、敵勢力の勢いが上なのです。

というかむしろ、なんだかよく分からないうちに、こちらは既にボロボロです
恋人は死に、仲間は負傷したり拉致されたり関係が険悪になったりして、かつてあれほど信頼しあっていた4人全体が崩れ落ちそうになっています。
ものの見事に神や邪悪の力に振り回されまくっているわけです。
しかしもう遠足は終わって日常に帰れないので、プレイヤーとノクトは進むしかない。

FF15には「指輪」というキーアイテムがあります。
このアイテムは「指輪物語」における指輪と同様に、単なるマジックアイテムという意味を超えた重要なファクターなのですが、これの重みがどれくらい感じられるかで、FF15という体験の評価はけっこう変わってくる気がします。
父であり王であるレギス、恋人であるルーナを経由してノクトに託されたこの指輪には、代々の王と神の力が秘められており、これを身に着けることがイコール王になることを意味します。

しかし、ノクトは指輪をなかなか嵌められない。
どう考えても嵌めるしかないはずなのに、なかなかそうできないのは、王様になるのが怖いからです。
「王様になるというのは単純に力を手にして偉い人になるということではなく、どうもめちゃくちゃとんでもない重荷を背負うことみたいだぞ」と分かってきたからです。
分かってきたのはノクトだけではありません。プレイヤーもです。
指輪をなかなか嵌められないノクトは、まだ日常への希望がかすかに残っている、というか、日常から完全に非日常に移行しきっていないプレイヤーを代弁しているわけです。
FF15における指輪とは要するに、嵌めたらもう人間に戻れなくなる、近い将来の死が決定してしまう、というアイテムなので、そういうものをほいほい身に着けられるわけがありません。そんなことができるようだったらそのキャラは超人です。日常と神話の間で引き裂かれる人間を描いて体験させるFF15においては、それはあり得ないことです。

ノクトは最終的には指輪を嵌めます。
しかも、自分の意志で嵌めたというより、敵に追い込まれてなんかどうしようもないので嵌めた、という描写です。指輪を使わないと死ぬ、という仕組まれた状況で、ノクトは「王様にさせられ」ました。
ノクトがそうであるということはプレイヤーからしてもそうです。無理やり納得させられた感じです。
ゲームはこの辺から、こちらからはどうしようもない、あらがえない力が働いていて、自分の意志なのか神に導かれているのか、相当曖昧な状態になっていきます。

王都および王の力の根源であるクリスタルに触れることによって一発逆転、あらゆる敵を打倒できる可能性があるということで、ノクトはクリスタルの力を求めます。
ノクトはクリスタルに軽く触れるつもりがそれに取り込まれてしまい、身動きが取れなくなります。そこで剣神バハムートからの通達によって以下のことが分かります。

 ①クリスタルの力を得るには長い時間(10年)が掛かるので動かずに待たなくてはならない。
 ②クリスタルの力を使えば敵を倒し、世界に光を戻すことができる
 ③クリスタルの力を使ったらノクトは死ぬ

それがノクト=「真の王」の機能だというのです。
しかもこれ、分かった時には選択の余地がなく、ノクトもプレイヤーもこの①②③を受け入れるしかなくなっています。一貫して神は説明しません。預言(通達)するだけです。

なんだか理不尽極まりない話ですね。
しかも人間のルールからするとちょっと変です。王というのは国を守って生き残るか、そうでなくともあとに何か残さなくてはならないのに、「真の王」はそうではなく、物語は彼に死ねと突き付けている。
基本的人権とか自由意志みたいな、現代社会の人間のルールはここには存在しない。

そして10年経ってノクトが目を覚ましたら、あたりはもう完全な暗闇の世界なんですが、ここが凄いです。
人間の気配が全然感じられず、かつて通ったあの町もあの道も、日常が完全に消滅して化け物しかいません。
人間としての極限状況みたいな世界になっています。

かくして世界最後の希望となったノクト=プレイヤーは、仲間たちとともに決戦装束を身にまとい、王都インソムニアに帰還します。
そしてクリスタルの力と歴代王の力をすべて使って仇敵を倒し、神の予言通りに死にます。
世界は光を取り戻し、めでたく救われました。

これがFF15のストーリーです。


これは、いったい何なんでしょう。
世界は救われたんですが、主人公は神の預言通り容赦なく死んでしまい、希望があるんだか無いんだか良く分かりません。
ノクトは頑張って戦い、王として目覚め、振る舞い、やるべきことをやったとも言えます。
しかし一方で、神の名のもとに強制的にいけにえにされただけ、とも言えます。

前者であれば見事な成長譚ですし、後者であれば単なる人間疎外の物語と見えなくもありません。
FF15はどちらなんでしょうか。
私見では、相当な数のプレーヤーがこの結末を前にして混乱したと思われます。

僕はこれは、両方とも正解だと考えます。FF15は両方が絡み合っています。
そして、まじでとんでもない、と思いました。

その理由は、これまでそうであったのと同じように、単なるストーリーや説明ではなく、ゲーム的体験と表現がモノを言います。

思い出す必要があります。
エンディングに至るまで一貫して表現してきたとおり、FF15において、神はめちゃめちゃデカいのです。人間よりもデカい。基本的に人間は神には勝てない。神は人間が勝てないから神なのです。

絶えず人間と人間にまつわる事物を事細かにリアルに描きながら、FF15が同時に提示しているのは、この世界には人間以上のものがあるのではないか、という視点です。
普通の、僕たちと同じ精神を持った人間が、柔らかな非日常に足を踏み入れ、やがてとてつもないハードな非日常から逃れられなくなったらどうなるか。
僕たちと同じ人間、僕たち自身が非日常→神話の世界に放り込まれたらどうなるか? 
FF15が徹底しているのはそういう、自分たち以上のものが存在する世界のシミュレーションで、ここに一切の容赦はありません。

ですからそういう意味において、FF15はバッドエンドではありません。
バッドエンドとは、人間だけの視点で言った場合です。
世界の視点から見れば、命を懸けて世界を回復したノクトは歴代の王の最終到達点として、立派にやり遂げた。
現代社会では、自分のことしか考えていない人たちがたくさんいます。そういう世界で、みんなのために己を超えて何かをなす、運命を受け入れて、辛くてもそれを選択する。そのつらさは半端じゃない。何しろ実際に死ぬわけですから。
人間としてはとても悲しいが、それは決してバッドではない。
バッド⇔ハッピーという単純な価値判断ではなく、「最も大切なこと」に向かって身を投げ出すということ。FF15が描いたのはそういう世界です。

これを、いま(繰り返しますが、自分が勝てばいい、自分が幸福になればいい、という価値観が勢力を増している、いま)、ゲームという若年層もやるメディアで提出したのは、なかなか瞠目に値するのではないでしょうか……


……というのが一つの肯定的な解釈。
しかし、事はそう単純ではありません。
上に既に少し書いたとおり、一方でこういう反駁、致命的な反駁があります。

「幾ら人間よりもデカいものがあると言っても、人間が人間として生きることができないロマンに意味などあるだろうか?
その致命的な不自由さは、人間の進んでいく先を示すには暗すぎるビジョンなのではないだろうか?
更に言えば勝手に作り上げた神話で勝手に敗北しているわけで、自縄自縛以外の何物でもなくないか?」

これは確かにその通りです。まったくもってその通りで、FF15のストーリーにおけるここのいかがわしさは危険すぎると言って良いと思います。ぞくぞくするほどヤバいです。俺たちが「日常」を超えて辿り着きたかった「神話」って、そういうことでいいんだっけ? というわけです。


というわけで「④ 最後の希望」に続きます。僕は希望はあると思います。


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