ファイナルファンタジー15 日常と神話をつなぐゲーム④ 【最後の希望】【まとめ、そしてFF16】
■最後の希望
なんかもうヤバいところに入っていったとしか思えないFF15のストーリー。果たしてここに少しでも救いはあるのかどうか、かなり心もとないです。
ですが、僕は先ほどのストーリーの説明から、重要なことをあえて外していました。それがFF15の最後の希望です。そして物凄く細い希望です。
それは、「写真」と「悪い、やっぱ辛えわ」というセリフです。
FF15がやったのは、人間の、神話との接近でした。単に近づくだけでなく、限界までにじり寄ります。つまりそれは、同一化と対決です。FF15はその両方をやっています。
「同一化」でもたらされるものが、先ほどの肯定的解釈。
「対決」が、これから説明することです。
ノクトは神のシナリオに沿って最終ボスを倒し、世界を救いました。
問題は、ここで人間が救われていないように見えることです。
自由がなく、希望がなく、それ故に救いがない。
しかし、ノクトは最終決戦の直前に仲間であるプロンプトに、「写真を1枚だけくれ」、と頼みます。
FF15における「写真」とは何でしょうか。
プロンプト(ゲームシステム的にはAI)が冒険のたびに様々な場所で自動的に、ランダムに、登場人物たちの普段の表情や印象的な場面を切り取った写真を撮っておいてくれて、休息のたびに仲間みんなで彼が撮った写真をまとめて振返る、というものです。冒険を進めていくと勝手に思い出がたまっていく、という仕組みで、まさに遠足や観光旅行と同じです。
最終決戦の直前には、この写真たちは大量の思い出が詰まったアルバムとなっています。
これ、ゲーム進行においては何の役にも立ちません。
写真がいきなり輝きだしてノクトに神を打倒する超パワーを与える、とかそういうことは全くありません。
本当にただの写真です。
神がばんばん主導していくシナリオ進行においても、これが何かの影響を及ぼすということはありません。
その、何の意味もない写真を、ノクト=プレイヤーは1枚だけ選んで持っていきます。
しかし、ここまでこのゲームをプレイして来たプレイヤー、特に、遠足の繰り返しとエスカレートをじゅうぶん堪能しながら、この4人のキャラクターたちが本当に生きていると感じたプレイヤーにとって、この行為は意味がないどころか物凄く重要です。
「写真」も、「1枚だけ」も、「選ぶ」も、全部重要です。
写真とは思い出です。
あの時楽しかったなー、悲しかったなー、辛かったなー、と、肯定否定を問わず、人間が人間であることを思い返すためのアイテムです。
つまりここでは、写真とは人間が人間であることの証しを立てる働きを持ちます。
ノクトや仲間が置かれているのは極限状況です。
ノクトは真の王=神と人間の間で契約を果たす、人間以上の存在となって、これから死ななくてはなりません。だから本来であれば写真などもはや必要ないはずなのですが、ノクトは是非ともそれを持っていきます。
でも、全部は持っていけない。1枚だけしか持っていけない。
これは、どうあがいても象徴的です。
人間が自分以上のものと対峙する時に、人間が人間であることを断ち切らなければならない時に、でもどうしても断ち切れない。人間なのだから。でも断ち切らなければ戦えない。
その引き裂かれそうな状況の中で、だから、そして、でも、1枚だけ持っていくのです。
彼が人間であることを微かでも保持し、人間が人間であることが自分よりも巨大なものに向かっていく時にどうしても必要なのだという体験です。
しかもこれらの写真は、作り手から押し付けられた説明ではありません。あくまで自由な意思に基づいて偶然の結果作り上げられた、個々のプレイヤーだけのオリジナルな記憶です。少なくともそのようにプレイヤーに錯覚させます。
そして、そういう状況だと分かっているので、プレイヤーは、なかなか写真を1枚だけ選べません。
ノクトと同じ気持ちになって、かなり悩むのです。
非日常の極限で、最後に自分が持っていくべき価値や記憶とは何かを選ぶ、という体験は、そうそうできません。
繰り返しますが、これらの体験は神=ストーリーには何の関係もありません。
あくまで人間にしか関係ありません。しかしだからこそ、プレイヤーにとって重要な体験となりえます。
FF15は、ストーリーは神が叙事的に、説明を排除して、人間性を否定しながら非日常を暴力的に突っ走り、
一方で人間は、人間であることを楽しみ、やがてそれに敗北しつつ、最後の最後でぎりぎり人間性を肯定する、という構造になっています。
この極限状況で写真を1枚だけ選ぶという行為は、その完成を意味します。
ノクト達4人は旅の中で、神の力や王の力を集めて回っていただけではなかったのです。人間としての思い出を集めて回っていたのです。
そのような人間性の肯定、神話に対する抵抗が、最後に改めて示されます。
エンディングで明かされる、決戦直前のキャンプシーンの回想です。
ノクトは仲間たちに、これから真の王=人間を超えた存在としてやるべきことをやるが、それはとてつもなくつらい、と心の内を打ち明けます。
「悪い、やっぱ辛えわ」というセリフです。
王として威厳を持って、皆に希望を与えるよう振る舞ってきた彼が、20歳の時と同じ口調でそう言います。
これは要するに、「俺は人間だ」、と言っているわけです。
リアルなグラフィックと、ノクトそのものと化した声優の素晴らしい演技がそれを表現します。
そして仲間たちはそれを祝福します。
これは、人間性が押しつぶされることに耐えられない、と敗北宣言をすることが人間としての勝利だということ、神話に対して敗北していることが勝利であるという、逆転現象です。
僕らは既にいつの間にか、FF15における神話の在り方が逆転してしまっていたことに気づくべきです。
FFにおける神話とは、架空の世界で架空のルールをでっち上げたロマンあふれる純粋神話であると同時に、やはり現実世界の写し鏡でもあったのです。
経済、自然、組織、歴史、国家、そういった巨大で個々人には抵抗できない暴力的な力を振るうシステムのメタファーです。
私見では、これまでテレビゲームにおいてはこのような神のルールが現れた場合は、それを覆して打倒し、「革命」することが最終的な解決となってきたケースが多いように思われるのですが、FF15はそのような道を取りませんでした。
あくまで、自分よりも巨大なものがあるという前提を受け入れたうえで、どう生きるかを解く、というやり方です。
神話とは閉じた世界を拡大させるロマンであると同時に、現実世界の写し鏡であり、閉じた世界そのものを示すものでもあった。
そのような世界でFF15が最終的に提示するのは、巨大なものに対峙した時、敗北を覚悟して人間として挑むことが正しい倫理である、というビジョンです。
人間のまま神のシナリオに同一化すること、神のルールを受け入れても人間性を捨て去ることは拒否すること、たとえ死んでも人間だということが、現代のファンタジーにおける最終到達点であるということ。そうです。これが、FF15における最終幻想であり、最終幻想=ファイナルファンタジーとは何か、という回答です。
スクウェア・エニックスはFF15においては、「ファイナルファンタジー」という概念をそのように表現したのです。
これにリアリティがあるかどうかは、人によって大いに変わってくることでしょう。
ゲームのエンディングの本当に最後の最後、ファイナルファンタジーのテーマ曲とともに、何らかの彼岸に行ったノクティスとルーナが描写されます。
彼らがどこに行ってしまったのかは誰にも分かりません。
ただ、彼らの手にはあの写真がある。
彼らはその写真とともに王都インソムニア(=眠らない町)で眠りにつく。
なんなんですかね、これは。僕は今までこんなゲームやったことが無いです。
長々書いてきましたが、これらの解釈は、何度も繰り返し言ってきたとおり、全部説明がなく、各々が表現を受け止めて考えることでしかもたらされません。つまり明確な正解はあり得ません。
しかもそれも、「それでいいのか?」という疑念を完全に払しょくすることはできないものです。
この徹底した説明の無さ、表現の力とプレイヤーの考える力、そしてゲームの力を信じた決断は、大量の資本と人と時間を注ぎ込んだビッグタイトルの方針として極めてリスキーだったのではないかと思います。ディズニー映画をはじめとしたハリウッドのブロックバスター映画が、どんな人間にでもわかるような親切な映画を作ろうと志向するのと比較して、蛮勇と言って良いほどの挑戦的行為だと思います。
こんな贅沢な体験は、僕はめったにないと思うのです。
話がずいぶん長くなってきましたが、もうすぐ終わります。最後の前に、ここでさらに一つ補助線を引いておきたいと思います。
ちょうど今読んでいた本に、これまで書いてきたことを振り返る上で、引用してみたい文章がありました。
七三一部隊やアウシュビッツで何が起きたか。七三一部隊は、実験対象を「丸太一号」「丸太二号」と番号で管理し、人数ではなく本数で数えていた。20世紀も、今も、それに対して我々はどう立ち向かっていくべきなのかが問題だ、ということを書いた文章です。
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人間から固有名を剝奪し、「素材」として「処理」することができなければ、ぼくたちは国家も作れないし資本主義も運営できない。国家の基礎となる各種統計は数値化の暴力そのものだし、資本はそもそも労働力から固有名を奪うことで成立している。むろん、国家も資本主義も暴力であり絶対悪であり、すべて許すべきでないというのはたやすい。けれども、国家も資本主義もないところでどのような社会が構想できるかといえば、結局はなんのまともなアイデアもなく、巨大な官僚制度のもとでますます非人間的な社会をつくるしかなかったというのが、二〇世紀の共産主義が残した教訓である。
人間は国家と資本主義のもとでしか人間たりえない。けれども国家と資本主義は、人間を無限に残酷に、非人間的にする。人間を人間たらしめるその同じ条件が、人間を人間から無限に遠いものへと変える。そこに厄介な逆説がある。
東浩紀. ゆるく考える. 河出書房新社. Kindle 版.
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現代社会では、国家や資本主義が人間を非人間的にする構造がいたるところで見受けられる。我々はそれを改善したり、あるいは逆に、そこから逃げ出したいと考える。
そのための試みとして、FF15では、そうした非人間性から逃れるため、人間性を取り戻すため、資本主義ではないファンタジー、国家を超える神という概念で世界を組み立ててみた。
しかしそこにも結局は巨大な非人間性が待ち受けていた。「真の王」の名のもとに、固有名=人間性がはく奪された世界が。
これはまだ、答えのない問いです。
FF15とは、そうした問題意識をも含む、ファンタジーに対する批評とロマンの両方を描いた作品だったと僕は思います。
■まとめ、そしてFF16
もう結論をすでに何度も言ったようなものですね。
FF15とは、そのゲームの総体として、日常と神話を接続する試みだったと思います。
そして本当に敗北するほど真摯に神話に対峙した。
もう少しだけ噛み砕けば、「日常の延長線上に破滅と救済可能性の両方がある世界を描き、体験させた」。
個人的には、これがFF15の最大の達成だと思います。
おそらく、時の洗礼を受けることで、やがてこのFF15の達成は今よりもっと多くの人の目に明らかになると思います。
FF15がやらなかったことではなく、やり遂げたことに目を向けられるようになると思います。
しかし一方で、これが繰り返されることはもうないのではないか、とも僕は思います。
FF16が今後存在するとしたら、それはおそらく、人間中心の物語に戻っていくでしょう。
神が主役か人間が主役か分からないゲームは、人間がもろ手を挙げて賛同するのにはどう考えても向いていません。スクウェア・エニックスは自己分析の結果、FF15が袋叩きに遭った究極的な理由はここにあると結論付け、おそらくこの場所に戻ることは二度とできないでしょう。次のFFでは、人間が困難に見舞われながらも最終的にははっきりと自由を謳歌し、神が打倒される物語が描かれることになると思います。
したがって、FF15のようなゲーム体験は唯一無二になる可能性が非常に高いと考えます。このクオリティで、この物量で、この技術で、この説得力で、この間合いで神話に巻き込まれる理不尽さを味わうことは、たぶんもう二度と繰り返すことができないです。
だから僕はぜひ、FF15で起こっていることを多くの人に見届けてほしいと思います。
などと言いながら、僕は、この次ではもっとヤバいことをやってくれるのではないか、とひそかに期待しているんですけどね。それがFF15のエスカレートであれ、まったく別の形であれ、是非ともそれを期待して何年でも待ちたいと思いながら、この稿を終えたいと思います。
ファイナルファンタジー15、そして、ノクト、プロンプト、グラディオ、イグニス、ありがとう!