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はい!石下です あの日の取材絵日記~尾道の深夜の古本屋の巻

 広島県東部のJR尾道駅から東に1・4㌔。商店街のアーケードを抜けてさらに歩くと、左手にオレンジ色の明かりがぼんやり浮かぶ。深夜に開店する「古本屋弐拾にじゅうdBデシベル(尾道市久保)だ。店主の藤井基二さん(29)が2021年に出版したエッセー「ページをめくる音で息をする」(本の雑誌社)を読むと、この店にまた少し近づけた気がした。

 木製の扉を押し開けると「いらっしゃいませ…」と聞こえるが、声の主は見えない。小説や詩集、観光絵はがきに絵本がそろう店内は、冬は石油ストーブで温められていて、外から入ると眼鏡が一瞬にして曇る。時空がゆがんだか、異世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える不思議な店だ。

 土日は昼間も開いているが、平日は午後11時から午前3時の営業。ちょっとわかりにくい所にある店には、迷い込んだとも、たどり着いたとも言える客がポツポツと訪れる。

 エッセーでは居酒屋と間違われてウイスキーを注文された話や、好きなジャンルや本を読む頻度、その日の気分を聞きながら客と一緒に本を探したことなどを紹介している。言い合いになった客が、今では常連になった話も。その場で浮かんだり実際に朗読したりした21人の詩を交えながら、店の日々を振り返る。

 藤井さんは福山市出身。高校1年の夏、失恋と兄の勧めをきっかけに読んだ太宰治の「人間失格」に魅せられたそうだ。「自分ただひとりに語り掛けてくれているような感覚に落ちる」と振り返る。そして、太宰と近しい文学者、中原中也に心酔し、京都の大学に進学した。

 しかし大学では、進路や就職活動に思い悩んだという。卒業後は実家に戻り、尾道市のゲストハウスでアルバイトを始めた。その後、尾道市に移り住み、運営するNPO法人の紹介で元医院の空き家を安く借りて、古本屋を2016年に開業した。営業を深夜だけにしたのは、2020年末までアルバイトと掛け持ちしていたためだった。

 今回出版したエッセーでは「ただ本に触れて暮らしたかった」と語る。ただ、本から伝わる過去の持ち主の記憶、さまざまな背景をもつ客との交流にさらされるうち「ひとりになりたかったのに、ひとりでは生きていけないことを知る」と変化していったそうだ。

 藤井さんは「苦しい時間をやり過ごすのを本がつないでくれた。生きづらさを抱える人が詩や物語に出合うきっかけになれば」と願う。

 エッセー「頁をめくる音で息をする」は、B6判、208ページ。本の雑誌社刊。1540円。全国の書店やオンラインストアで扱われている。
(石下奈海、絵も)