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【中国山地の歴史⑩】中国山地のむらあるきー奥出雲町横田ー

 こんにちは、中国山地の歴史を調べる人、宍戸です。
 中国山地の各地を歩いてみると、どんな歴史があって、地域の人がどんなことを誇りに感じていて、今どんな新しい動きがあるのかが見えてきます。
 特に石碑や銅像は普段、地元の人でも関心を持つ方は少ないのですが、誇りに感じたから、あるいは何かしらのイベントがあったからこそ建立されているので、地域の歴史がよく見えてきます。
 今回は、奥出雲町の横田の町を紹介したいと思います。
 横田の町の歴史を、自分なりに大きく4点にまとめると次のようにまとめられると思います。
①たたら製鉄関連産業とともに発展した歴史
②三沢氏の城下町の歴史
③そろばん産業の歴史
④キリスト教を軸とする農村社会建設の歴史
以上の歴史がモザイク状に入り混じる町並みと言えるのではないかと思っています。
 私はGISが得意なのですが、中国山地のいろんなスポットをGISに記録して、一人でこっそり中国山地GISを充実させていくのが目標です。

横田ってどんなとこ?

 横田は、奥出雲町の三成と並ぶ2大市街地の一つで、旧横田町の中心地です。
 横田市街地付近の土地は、元は河原や沼地であり、自然堆積や砂鉄採取などに伴う人為的な埋め立てによってつくられたと考えられています。
 市街地の形成は、中世に奥出雲に拠点を置いて繁栄した戦国武将三沢氏の時代に遡ります。三沢氏は、もともと三沢という地区にある三沢城を本拠としていたのですが、永正6年(1509)に横田の横田藤ヶ瀬城に本拠を移しました。本拠ができるとともに、城下に市場が移され、市街地が形成されていったとされています。
 横田の市街地で特に有名であったのが牛馬市です。中国山地は牛馬の放牧が盛んで、牛馬市も各地で開かれていたのですが、横田の牛馬市は、伯耆大山、石見出羽とともに中国三大市場と並び称されるほど賑やかな市場として知られました。横田の牛馬市は毎年八月六日に開催されていたそうです。

JR出雲横田駅

 JR木次線の出雲横田駅の駅舎は、横田に鉄道が開通した昭和9年(1934)11月20日に開業した木造の駅舎です。特徴は何といっても、珍しい「社殿造り」を基調としている点にあり、これは駅舎の建設にあたり、地元住民の、神話の里にふさわしい駅舎を建設してほしいとの熱意に国鉄が答え、宮大工を呼び寄せて建設したことによります。
 木次線の前身は、たたら製鉄の経営者であった絲原家が社長となって設立された、私鉄簸上鉄道に始まります。明治以降、たたら製鉄が長期的に衰退していく中で、新たな地域産業を創出し、地域の物産を都市に販売することを目指して、鉄道の敷設が開始されました。その後、国鉄に買収され、木次駅より奥出雲方面については、国鉄により敷設されました。
 現在の木次線は客車のみですが、当初は貨車が中心で、当時の「簸上鉄道敷設趣意書」によれば、奥出雲で生産される、鉄、米、木材、木炭、牛馬の販売を目指していたことがわかります。特に、代表的な物産の一つであり大量に生産されていた木炭については、製鉄用木炭から家庭用木炭に改良され、絲原家は東京池袋に直営販売所を設けて、販売価格の面で有利な関東の木炭市場に確固とした販売網をつくりあげ、昭和期でも全生産量の9割を東京に販売していました。木次線は、たたら製鉄に変わって地域経済を支える役目を果たしました。

駅前には、ヤマタノオロチ神話に出てくる、稲田姫の像があります。

雲州算盤 村上朝吉旧居家の碑

 奥出雲町は「雲州そろばん」の産地で、兵庫県の「播州そろばん」と並ぶ日本2大産地の一つです。雲州そろばんは、亀嵩の地主である伊豆屋(かつては、たたら製鉄も経営していたが、この時点では既に経営していない)が所有するそろばんが壊れ、同じく亀嵩の村上吉五郎に修理を依頼したのが始まりとされています。その後、村上朝吉が手廻しろロクロを開発したことで、精度の高いそろばんをみんなが作れるようになり「雲州そろばん」の産地が形成されていきました。

本町会館(旧山陰合同銀行横田支店)

 大市の本町通りにあり、現在は地域の会館として使われていますが、かつては山陰地方最大の銀行である山陰合同銀行の旧横田支店として使われており、レトロな外観が特徴です。奥出雲町の金融史は、わからない点も多いのですが、絲原家第12代武太郎や岡崎喜一郎などが、明治34年(1901)に横田の地に創設した株式会社八雲銀行によって始まるものと思われます。第12代武太郎は頭取、岡崎喜一郎は取締役を務めていました。
 明治44年(1911)に絲原家第12代武太郎が没した後は、絲原家第13代武太郎が跡を継いで頭取に就任しました。地方銀行乱立の時代であった当時、第13代武太郎は、弱小金融機関の統合こそ金融界の安定、産業振興につながるものと考え、大正5年(1916)に八雲銀行を山陰地方最大の銀行である松江銀行に統合しました。昭和2年には松江銀行の頭取に就任、八雲銀行を端緒として銀行の合併または買収を進めて、島根・鳥取両県下に営業網を整備し、全国地方銀行中では屈指の地位を占める銀行に成長させました。昭和16年になると太平洋戦争の進展によって国策での合同を命じられ、米子銀行と合併して、山陰合同銀行が設立されました。第13代武太郎は引き続いて新銀行の取締役として残り、昭和34年から昭和41年に没するまで会長の地位にありました。
 なお、松江銀行の合併の端緒が八雲銀行であったのは、絲原家第12代武太郎が松江銀行頭取を務めたことがあり、両行は深い関係にあったことと関係があると思われます。また、合併した年である大正5年は、絲原家が設立した私鉄簸上鉄道の宍道⇔木次間が開通した年であり、経済の広域化が見込まれたということもあるのかもしれません。
 以上のことから、奥出雲における銀行の店舗は、明治34年から存在していると考えられます。この旧山陰合同銀行横田支店の建設は昭和15年で、第13代武太郎頭取時代の松江銀行の時代に建てられていますが、この前年の昭和14年6月17日には横田の市街地の大火がありましたので、前の店舗は大火の際に焼失し、再建されたのがこの店舗と考えられます。

 本町会館の内部は現在、デルフトタイルで描かれた仁王像が展示されています。
 このデルフトタイル仁王像は、かつて奥出雲の古刹として知られた岩屋寺の山門に安置されていた仁王像がモデルです。この仁王像は現在、オランダのアムステルダム国立美術館で展示されており、この像に感銘を受けたオランダのビジュアルアーティスト、イエッケファンローンさんが、仁王像をオランダ伝統のデルフトブルータイルを用いて奥出雲に帰そうというプロジェクトを立ち上げ、2018年と2019年に、住民参加のワークショップ形式で製作活動をされました。
 デルフトブルータイルを使用したのは、オランダは鎖国下の江戸時代にあっても貿易を続けていた数少ない国のうちの一つで、デルフトブルータイルは日本の伊万里焼に影響を受けて成立したので、400年にわたる日本とオランダの友好の証という意味が込められているのだそうです。

横田牛馬市場開設470年記念碑

旧横田町森林組合事務所

 横田の町は、昭和14年6月17日に大火があり、横田相愛協会の付近まで広範囲が焼けてしまいました。この建物は大火の後に、横田町森林組合の事務所として建設されました。現在では山陰中央新報の販売店として利用されています。

勝平大喜生誕の地の碑

 勝平大喜は、島根県の近代を代表する宗教家の一人で、近代における島根の百傑にも挙げられています。本姓を浅山、名を佐一郎といい、明治20年(1887)にこの地で生まれ、昭和19年(1944)に富山県で没しました。
 明治34年に松江の万寿寺住職勝平宗潤について仏門に入りました。その後松江中学校に入りますが、優等生であったため特待生となり、授業料を免除されました。松江中学校卒業を前に思想的に悩み、父の従兄であった岡崎喜一郎の新しい時代を見通した助言も受けて、明治40年に金沢の第四高等学校に進学しました。第四高等学校の進学に際し、師の宗潤は激怒したという逸話が残っています。その後23歳で万寿寺住職となりますが、大正元年に同志社大学神学部英文科に入学し、卒業後は松江中学校の英語教師として出講しました。
 のちに京都の南禅寺、大徳寺に参禅し、キリスト教、西欧思想を理解し、英語のできる禅僧として貴重な存在となりました。大正14年から『東亜の合唱』という月刊雑誌を刊行し、仏教による民族の協調を力説しました。諸者は全国にゆきわたり、発行部数は1万部にも及びました。また、昭和4年(1929)のラジオ放送による連続講座「十牛図講和」は、反響が大きく直ちに出版され、以後、全国各地に招かれて仏教を説きました。

横田相愛教会

 横田相愛教会は、大正12年(1923)に、地元の大地主、岡崎喜一郎が私財を投じて建築したもので、ヨーロッパの中世ゴシック風の教会に見える尖塔アーチをもつ擬石風の外装をした4階建ての塔屋部分と、窓に尖塔アーチ三連をもつ木造2階建てで構成されています。遠くからでもよく目立ち、地域のランドマークとなっています。「相愛」の文字は聖書から選ばれたそうです。
 岡崎喜一郎は、新島襄の伝記に影響を受けて同志社に入学するなど、キリスト教への想いを篤くし、さらに大隈重信をしたって早稲田大学に進みました。帰郷後は父から郵便局長を継ぎ、やがて八雲銀行(現在の山陰合同銀行の前身の一つ)を横田に創立しました。
 明治35年(1901)には英国人のナイト牧師による伝道の集会も行われました。また、この教会を拠点として文化活動が盛んに行われたことにより、山陰初であり、全国でも11番目となるボーイスカウトは、この横田の地で結成されています。朝夕に鳴り響く鐘には「労働に送り、休息に迎え、祈祷を促す」と刻まれていました。
 このころ横田に設立された仁多郡立横田農学校(現在の島根県立横田高等学校の前身)の初代校長がキリスト教信者であったこともあり、キリスト教を軸とする農村社会建設の夢に一段と邁進していきました。

吉重橋

 六日市と大市を結ぶ橋は「吉重橋」と呼ばれ、近世後期に名声を挙げた土工、安部吉重郎(慶應3年(1867)没)の名に由来します。
 当時、この両町の間にかかる橋は土橋で、大雨の度に一年の間に何度も橋脚が流されて橋が流失し、町民は困惑していました。そこで文政(1818~)のはじめ、橋の施工を依頼された安部吉重郎は、岩国の錦帯橋の構造も参考にして、苦心の末、南北14間(28m)の橋脚のない、欄干付太鼓橋を築造することに成功しました。洪水に対しても心配がなくなったことと、美しい外観により、吉重郎の名は高まったといいます。
 近世には、この橋の北詰の六日市には御代官屋敷があって、松江藩が鉄の専売をしていた名残で御鉄屋とも呼ばれ、両市には商品を牛馬に積んで運ぶ中継運搬業者がいました。また、両町では牛馬市が大規模に開催されているなど、多数の牛馬が往来していましたが、板橋は牛馬の往来が禁止されており、牛馬は板橋の下流側の川を渡っていたといいます。
 横田の街の誇りの一つであった橋も、明治になり斐伊川の川土手が決壊して六日市の家屋が浸水するほどの大洪水が発生した際に、あえなく流失してしまい、明治29年(1892)に再建されました。流失した年についてははっきりしませんが、明治26年と27年の2年にわたり洪水が発生していますので、このどちらかと考えられます。明治29年の橋の架け替えの際に、吉重郎の名を永遠に伝えるため、時の郡長毛利八彌により「吉重橋」と命名されました。現在の橋は、吉重郎がかけた橋から数えて4代目です。

泡無酵母発祥之地の碑

 銘酒で名高い簸上清酒は、正徳2年(1712)に六日市の地に産声をあげて以降、300年以上にわたり、奥出雲の地で酒を醸し続けています。
 この酒蔵で生まれたのが「泡無酵母」です。それまで酒造りでは、タンクいっぱいに白い泡が発生するのが常識でした。しかし昭和37年、泡が出来ないタンクがあることが発見され、広島の国税局に相談したことがきっかけとなり、東京にある醸造試験所の秋山裕一氏(元醸造試験所所長、元日本醸造協会会長、元醸造学会会長。著書に「日本酒」岩波新書など)によって研究が進められた結果、突然変異により泡ができない酵母が発生していることが突き止められました。こうして、一つのタンクでの醸造量が増えることや、タンクの掃除の労力が減ること、密閉タンクでの仕込みが可能となる「泡無酵母」が誕生しました。
 この石碑は「泡無酵母」の誕生を記念して設置されたもので、揮毫は酵母発見者の秋山裕一氏です。

力士頭取宮川林右衛門の碑

 六日市の家並みの東はずれに、「宮川林右衛門」と書いた石碑があります。現在では見えなくなっていますが、台石には「明治廿年亥九月設立 自安政年中 至明治立初掌本町市押職」と刻んであり、力士頭取でありながら、町に貢献したことが記されています。宮川は“しこ名“で、本姓は山本であり、力持ちであったとの逸話も残っています。一方で、当時はまだ少なかった文字が書ける人物であったとされ、大市・六日市の市押職も務めました。市押職の正確な職務内容は不明ですが、町の自治組織によって運営されていた牛馬市をはじめとした市場関係の要職と推測されています。

六日市の山上さん

 藤ヶ瀬城のある高鰐山の足元に、岩山を剥って設けられた祭壇があり、六日市の山上さんと呼ばれています。中段あたりの石面には「寛政五 丑四月 前鬼 後鬼 願主透禅」と刻まれています。
 「山上さん」とは、奈良県の山上ヶ岳にある大峯山寺を中心とした修験道の信仰であり、大峯山上さんの信仰として地方に拡がりました。多くは各地の高所にある岩場の修験場に祀られていますが、この六日市の山上さんは、庶民用の「山上さん」として、平地の岩場に設けられたものです。

藤ヶ瀬城跡

 三澤氏は信濃国飯島郷から奥出雲の地に来住し、嘉元3年(1305)に三澤城(島根県指定史跡)を築きましたが、永正6年(1509)には、本拠を三澤城から同郡内の横田藤ヶ瀬城に移しました。
 この城郭内に佇む諏訪神社は、三澤氏が信濃国から来住する際に、故郷信濃国の一宮で軍神でもある建御名方神を祭神とする諏訪大社から勧請して、三澤城の鎮守としたことが始まりと伝えられています。なお、建御名方神は大国主命の息子で、出雲系の神様です。

八大龍神碑

 明治26年と27年の2年にわたり洪水が発生した後、川土手の決壊箇所に六日市の人々が願主となって八大龍神の石碑が設置されました。石碑には「八大龍神 明治二十八年 旧六月一日 願主 六日市中 世話人 中沢文太郎 岩佐覚四郎」と刻んであります。2年続けて発生した大洪水に対し、水の神が鎮まるよう祈った人々の願いを伝えています。

定住促進センター

 アントニン・レーモンドはチェコ出身アメリカ人の建築家で、帝国ホテル建設の際に来日して後は日本に留まり、日本人建築家に大きな影響を与えました。第二次世界大戦後につくられたレーモンド設計事務所に在籍していた、奥出雲出身の田邊博司氏により設計されたのがこの建物です。

藤原璋夫先生寿像

 今もなお奥出雲町の医療を支える永生病院の創設者、藤原璋夫の胸像。キリスト教を軸とする農村社会建設の夢にまい進していた岡崎喜一郎は、大正5年、同郷であり信仰の友であった医師の藤原璋夫を迎えて支援し、永生病院が設立されました。「永生」の文字は聖書から選ばれたといいます。
 この胸像は、明治100年を記念して設立されたもので、揮毫は、当時の運輸大臣で父が三成出身の大橋武夫によって書かれています。大橋武夫は、昭和20年の三成町大火後の町の再建にも貢献し、三成のメインストリート「大橋通り」の由来にもなっています。また、胸像の裏には「永遠の生命は、唯一の眞の神に在す汝と汝の遺し給ひしイエスキリストとを知るにあり。」と、ヨハネ傳第17章第3節が刻まれています。

横田小学校のデザイン

JR出雲横田駅の正面には、奥出雲町立横田小学校があるのですが、これにも景観上の工夫があるのだそうです。
 小学校を正面から見た場合に、校舎の裏に見える藤ケ瀬城を借景として、校舎の柵はお城の「矢来」、柵の中の穴は鉄砲を撃つ窓「狭間」をイメージしているのだそうです。
 地域の人にとって、藤ケ瀬城が大切な存在だというのがよくわかります。

雲州そろばん伝統産業会館

 雲州そろばんの産地を象徴する建物の一つが、この「雲州そろばん伝統産業会館」。会館内の展示資料室には、雲州そろばんに関わる歴史や工具、作品などが展示されています。

薬歯観音

 個人的に好きなのが、この観音様。歯医者さんの敷地内にあるので「薬師観音」ではなく「薬""観音」となっています。ちょっとしたユーモアが素敵です。歯が良くなりそう。


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