【Follow meとAfter you】大人主導より子供が主体の教育の方がみんなに優しい社会への近道っぽい
アメリカでは日本よりも結構スイスイ実現したインクルーシブ教育。
どうして日本では足踏み状態なのかな?
その要因って、なかなか一言で語れるもんじゃないとは思うんだけど、私は日米の「教育スタイル」の違いが重要なファクターじゃないかなって思うんだよね。
==大人主導の教育:Follow meと子供が主体の教育:After you ==
障害がある子とない子、どちらの子育て&教育でも言えるのは、
「大人の要求に見合った子」を大人が求めるんじゃなく、
『子供が育とうとする姿に大人が応える』っていう関わりや姿勢が必要なんじゃないかなって私は思うんだよね。
例えば日本の教育は、用意された既成の箱にぴったり合わせられるように子供を変化させる感じ。<大人主導・Follow meの既成型教育>
一方アメリカの教育は、子供それぞれのユニークさがある不揃いの箱を尊重して、その箱(=子供が必要としている事)に合うように先生が働きかける教育スタイル。<子供が主体のAfter youカスタマイズ型の教育>
だからアメリカでは当然、「独自性=カスタマイズの必要性」がより高い障害のある子も、障害がない子と同様に教育を受ける機会が保障されているんだと思うのね。それがすなわちインクルーシブ教育の土台じゃないかなって。
== 結果重視VS経過重視:子供たちの学びに必要なのは”経過重視” ==
また、日本の教育は、予め決められた目標(ゴール・結果)に向かう事が前提で、そこに辿り着いた子供こそが良しとされる結果評価型の教育のように思うんだよね。
一方アメリカの教育は、目標に向かう前の下準備を手伝う教育で、下準備で得た事を元に、自分で決めた目標に向かおうとすることがよしとされるプロセス(経過)評価型の教育。
前者は、子供たちが大人が定めた一点に集められるイメージ。
後者は、個性を持った子たちが自分の個性を活かす為に木々の枝の様に幹からそれぞれに散らばって行くイメージ。
アメリカのインクルーシブ教育では、個々が自分のやり方で独自のゴールを目指していい環境だから、障害のある子たちも必然的に「皆と同じ様に出来るようになる事」を求められていないんだよね。「自分に合った方法で、自分が決めたことに向かっていけばいい」スタイル。それって障害の有無に関係なくとっても大切なことだと思うんだよね。
こんな風にね、アメリカのインクルーシブな教室は、マイノリティの最小単位である「個人」の集合体。みんな違ってることが当たり前だから、「違ってる」っていう理由ではじき出されることがないんだよね。これってね、どんな子にも優しい環境だと思うんだよね。
もちろん、アメリカのインクルーシブ教育に基づく教育スタイルにも短所があるんだけど、先生が子供と一緒に伴走するような関わりができる環境を目指す事で日本らしいインクルーシブ教育が実現するんじゃないかな、そうであってほしいなっていう想いを書き留めておきたかった、今日のnoteです。