「この子は自閉症じゃない」「もう治ってるよね」と言い張る世代が見ているもの
息子・チャビの父方の祖母は、チャビの自閉症の診断を受け入れられないでいた。「障害のある子がうちの家系にいるなんて恥だ」という価値観がそう思わせていたよう。
だから手のかかる息子の事は受け入れられず、好きになれないでいたんだよね。で、ふたことめには「障害だなんて言い訳してないで、ちゃんとしつけしなさい」。だから、近所の人に自分の孫に障害があるって知られるのがいやで、同居を拒んだんだよね。
それが、アメリカの支援教育のお陰ですっかり自立した息子を見て「自閉症は治ったんだね」「さすが我が孫」とてのひら返し…。「治ったんじゃなく、特性が改善したり生きやすい方法を身に付けた」って言っても聴く耳持たず。溝は広がるばかり…。まるで「自閉症じゃない子ならかわいい」と言われてるようで…。息子だって私だって、あるがままの息子を受け入れてもらいたいだけなのにね。
こういうことってうちだけで起こってる事じゃなく、障害のある我が子の事をあるがままに身内に受け入れてもらえず困っているお父さん&お母さんって多いんだよね。
だから今日は、
●「治った」と「自閉症の特性による困難が軽減した」の違いって何?
●「治った」という価値観がどんなリスクをもたらすのか
について私の考えを書いてみたいと思います。
最初に断っておきたいのは、私はMD(お医者様)ではないので、私の「治る」という定義はメディカルな定義に基づいたものじゃなく、あくまでも個人的な見解ってことでお願いします。
「治った」と「自閉症の特性による困難が軽減した」の違いって何?
テレビショッピングのCM。
見た事ある人がほとんどだよね。
「嗚呼・・・膝が痛くって、もう毎日が大変」
「でも、このサポーターをはめてから、膝の痛みが減って、毎日の散歩が楽しくなりました!」
的なの。想像してみてください。
膝が痛いということは、この人は膝に何かの外傷があるのか、変形性膝関節症による痛さなのか等々ということだよね。この「痛さ」をもたらしている原因を根本的に解決するのが「治療」で治療によって原因が取り除かれてはじめて「治った」っていうことだと私は思うのね。
じゃぁ、「サポーターをはめて膝が痛くなって歩けるようになった」というのは、「治った」と言える?
違うよね。膝痛の原因はそのままあって、でもサポーターによって痛みを感じなくなってる・痛さが軽減しているだけで、根本的な「治療」ではないし、膝痛の原因は治ってないよね。
よくね、「自閉症は治った」って言う人と「いやいや治らないし、それ、治ったんじゃなく症状が改善したって事でしょ」の間の話しのずれって、こういう事だと思うのね。
サポーターによって痛さが無くなって、すたすた歩けるようになったのを「治った」と表現する人もいれば、「それはサポーターによって改善しているだけで膝痛が治ったわけではない」って表現する人もいる。医学的な見解でいうと、後者が正しいんだろうけど、我が子・我が孫の障害を受け入れたくない人は前者の状態で「治った」と思いたがってるんだろうなって思うのね。「改善」ではなく。
「治った」という価値観がどんなリスクをもたらすのか
個人的には「治ったって思いたければそう思っててください」とは思はなくはないんだけど、「改善」じゃなく「治った」と表現してしまうと「その子に無理をさせてしまう状況」が生まれる懸念があるんだよね。
上の例でいう「サポーター」は支援の事。それは人であったり、環境であったり、支援グッズだったり、アイデアだったり。一概に「支援」って言っても、その量や質は様々で、支援のゴールって「一番その人が制限なく自立できる状態」を目指す事なのね。
「一番その人が制限なく自立できる状態」をわかりやすい例で言うと、足を骨折した人が
車椅子
↓
松葉づえ
↓
ウォーカー
↓
杖
↓
自立歩行
というように、制限が減って、自立が増えてくる感じ。
ここで大切なのは、「一番その人が制限なく自立できる」がゴールだから、その人のポテンシャルによって「自立歩行」がゴールでなくてもいいんだよね。
字を書くのが難しい子が、誰かに手を添えてもらって字を書けるようになるのがゴールかもしれないし、iPadを使って文字が入力できるのがゴールだっていいし、自分一人で書けるようになるのがゴールな子だっている。
「治った」と表現してしまうことの危険性は、「自立歩行」や「自分で書ける」だけをゴールと考えてしまいがちなこと。自閉症などの発達障害は、障害による特性の出方に個人差があるから、ゴールは一人ひとりちがって当たり前。
だからね、「あの子は同じように自閉症の診断をされてるのになんでも一人でできるのにうちの子は…」なんて悩まなくていい。一人ひとり違うんだから。でも「治る=一人でできることだ」って考えちゃうと目標(ゴール)を見誤っちゃうよね。
だから、「この子は○○ができるから自閉症じゃないよ。だから支援学級じゃなくて普通級」って身内に言われて困ってるっていうケースを見聞きするんだけど、きっとこういう人って、支援グッズを使って文字が書ける子やiPadで文字入力ができる子を否定しがちだと思うのね。「誰にも手を借りない事こそが自立」と思っちゃってるから。だから子供に無理をさせがち。「自分で書けるようになりなさい」と。
私はまだ、息子の祖母さえにも納得してもらえずにいる身なんだけど、「○○できるからこの子は自閉症じゃない」「もう治ってるよね」と言い張る人達にこういう考え方が届いたらいいなぁと思って書いたのが、今日のnote。