願うは果てまで

 「何かを強く好きで居る」ということは、楽しくて幸せな何かを見て不安になったり、苦しくなったり、大好きな笑顔を見てツラくなったりするということを含む、と、わたしは思う。どうしたってそうなんだよ。だって、本気で好きになって、時間もお金も心も勝手に捧げてしまっているんだから。本気じゃなかったらそんなことになってない。でも「好き」という感情は時に暴力的で、時に自分にも制御が出来ない。不思議で、だからこそ魅力的で、自分と誰かを狂わせる。
 そんなことをつらつら考え出したら止まらなかったフォーライが終わった。フォーライが終わってからも、その件についてはずっと、ずっと考えている。

 気が付いたら11月も三分の一が過ぎた。11月の頭に嵐のように終わってしまった今回のフォーライに対しては、理路整然とした感想を書くことは出来ないと思う。始まるまでずっと不安で、始まってからも不安は沢山あったし、各方面に言いたいことも色々あった。でも、木津つばささんという俳優が、誰よりも緊張した面持ちで、誰よりも一生懸命そこで「御影密」を演じようとしてくれたから、もう他のことはどうだっていいやってなった。気を張って、綴る言葉を蓄えようという気持ちが薄れてしまった。安心するとおなかが空くでしょう?エンターテインメントも安心するとようやく「楽しい」部分を求めていけるものなんだよね。だからわたしに残ったのは「よかった、安心した」と「楽しかった」と「可愛かった」と「ありがとう」だけです。今回は。

 『出逢った日を1ページ目として僕らは何ページまで来たんだろう』という歌詞を歌う、木津くん本人にのしかかる責任の重さを、誰も本当の意味で分かることは無い。それは彼にしか分からないことだから。でも、木津くんとしては完全に1ページ目だった初日を、御影密にとっては最新ページとして歩んでくれた姿、きっとこれから彼を見る度に思い出すんだろうな。
 『出逢った日を1ページ目として、未来は何ページまで続くんだろう』『終わらない夢の続きを』奇しくも彼はそんな歌詞の化身だった。エーステという6年も続くコンテンツの中で、様々な俳優、そのファン、原作のオタク、みんなが正直1度は「そろそろ、キャス変、かも……」と脳裏を過ぎったことのある状況の中、彼には未来しか無かった。密がそこにいて、笑ったり芝居をしたり眠ったり踊ったりして、その姿のすべてが、未来に繋がっていくんだなぁとしみじみした。そして、そうやってまた「エーステにいる御影密」を愛させてくれてありがとうって、思いました。

 わたしは優しいオタクではないので、どんなものが出てきても愛しましょうとは思っていなかった。たとえ公式が出してこようと、無理なものは無理なので。でも、木津くんの演じた密は、これからも一緒に大切にさせて欲しいなって思える密だった。
 木津くんのお芝居からは、密への敬意を感じました。そして、植田圭輔さんという偉大な先輩が残して行った歴史を背負う覚悟も。確かにうえちゃんの演じる密とは全然違う。当然だ。Xで前任と歩き方が一緒って話が回ってきてたのを見たけど、実はわたしは歩き方全然違うんだなぁって思いつつ初日を見てた。植ひその十八番であるペンギン走りもしないし。植ひそはポケットに手を入れるけど、木津ひそは背中で手を組むし。主観の問題である。でも、わたしはどちらも「エーステの御影密」で良いと思ったし、どちらにも「原作らしさ」と「はみ出したオリジナリティ」があり、それぞれを良いなと思っています。
 別にね、わたしは2.5次元に完璧を求めた事なんて、もうずっとありません。そんなものは学生の頃に捨てたよ。だってわたしが本当に好きなのは「御影密」というキャラクターで、本物の素晴らしさを味わいたいなら原作だけやれば良いんだもん。だからステになった時に、この人が演じてくれてよかったと思える方が大切だ。俳優が考えて演じる密が、わたしの好きな密の形に似ていてよかったな、と思わせてほしい。そして、人間だけが持つ奥行きや表情や仕草で、もっともっと、密のことを知った気になりたいし、些細なことも好きになりたいのです。

 自分の中で御影密って、かなりイレギュラーな推しだという自覚がある。ちなみに卯木千景はわたしの中では超スタンダードな推しだ。わたしの推し遍歴を数年分でも知っている人に聞いたら、密と千景を並べて「どっちが推しでしょうか?」って聞いたら10人中10人が千景を選ぶと思う。顔が良くて、スマートで、自信があって、作中では頼られるポジションにいて、深い闇の側面を持つ。何でも出来る人間がどこかでボコボコに折れて、めしょめしょになりながら、らしくなく足掻いている姿が1番可愛くて、人間らしさを感じるから大好き。
 密は最初は「千景の家族だから」好きだったと思う。その側面はすごくある。でも、気付いたら御影密というキャラクター本体の魅力も、千景と負けず劣らずの熱量で「推し」と呼びたくなってしまって、しばらく自分の中では葛藤したけど、でも最近は密のことも独立した「推し」と呼んでいる。グッズとかカードとか、物によっては密に注力する時もあるので、あえて「2推し」って呼ぶ感じでもない。感覚的には本当に半々くらい。ステだとより顕著にそうかもしれない。

 このnoteで幾度もろくろを捏ねた話題だけど、何かを「推しです」「推してます」と明言する感覚って本当に人によりけりだな~と思う。ただでさえ推し活全盛時代なので、「〇〇が好き」の代わりに超絶ライトな表現として使っている、最早オタク属性ではない人も居るだろうし、界隈のしきたりとして摩擦を避けるために使ってる人もいると思う。若手俳優のオタクだと「〇〇の女」って言ったりするのも似てる。「担当」もそう。
 どんな「好き」も等しく唯一無二なのだから、言語化・ラベル化することに意味はない。言ってしまえばそれまでだけど、自分の中で「これはこういうもの」と納得するための言葉が必要な時もある。わたしは結構「納得するため」に「推し」という言葉を使っている。分かりやすく雑な例えとして「男友達」「セフレ」「彼氏」は自分の中で相手に対する扱いも、相手にして欲しいことも違う人が多いっていうのと同じ感覚。わたしの中でこの存在は、他の「気に入ってるもの」から頭一つ抜きんでた何かなんですよ、こういう風に扱いたいんですよ、ということを誰かに伝えたいときにとても便利。大SNS時代なので、対面ではなく言語を介した相手の場合は尚更有用。
 「推し(と呼ぶほど好き)だから△△をしても許してください」という感情も存在する。この場合の「許して」は、明日以降の自分の財布と生活への懺悔かもしれないし、一途に応援を続けてきた元推しへの謝罪かもしれないし、オタク仲間への言い訳かもしれないし、家族や仕事を蔑ろにする後ろめたさかもしれないし、歯止めを掛けようとしていた一瞬前の自分を振り切る気持ちかもしれない。知らんけど。知らんけどでも、その「ホント、制御できないのごめん!」っていう情熱がやっぱり結局、どんなに言葉を言い繕っても、「好き」の最上位の感情であり、わたしがどんなに自分の心に抗っても最終的には「推し」と呼んでしまう感情なんだなぁと思う。
 その「もうだめだ、これは推しです。頭一つ抜きんでていると分かりました」の感覚が来るのも本当にその時々で違うのが面白いよね。見つけた瞬間に「こ、れは……!」て転がり落ちて帰ってこない場合もあれば、崖っぷちで何年も抗ったのに急に「もういいや、推しです」ってなる場合もある。外から見たら「いやいや結構な期間推してるよね?」てなるのに、本人全然認めない場合もあるし(わたしのことです)。
 別に何と呼んでも呼ばなくても良いのに、こんなことに注目してしまうのは本当は世間的には結構くだらないことなんだと思う。そんなことより考えるべきことはたぶん世界に沢山ある。これも毎回この議題を出す度に結論として出ている。結局いつだって大事なのは言葉やラベルではなくて、自分が好きなようにやることだ。推しだろうとそうじゃなかろうと、やりたいことを、やりたいように、後悔しない方向で。でもそれには勇気と理由が必要で、そのために、途方もない感情に名前を付けることもあるのです。

 わたしが密への途方もない感情に「推し」という名前を付けて、「これは決して千景の家族だからではなく、御影密という存在が単独でも大好きです」と腑に落ちたのは、奇しくも密のキャス変が発表された時かもしれなかった。喪ってはじめて気が付くじゃないけれど、大きな事件があって、あまりにも自分の心がかき乱されて、これはもう「特別に好き」だな、とストンと落ちた。
 それまで自覚なかったんですか?と言われると、まあ、見ないふりをしていた面はある。ずっと原作の密バナーイベを2桁順位で走ったり、ガチャに数万溶かしたりしてたし。でも「推し」と呼ぶ勇気が無かった。1ジャンルの中に推しが2人は大変だし、双方への誠実さに欠ける気がしていた。でも、今は精一杯の誠実さで2人を好きでいるつもり。そして、彼らを推しているというアイデンティティがありながら、今回のフォーライを見ることが出来てよかった。
 何度も言うけど、別に推しでも推しじゃなくてもいいんだよ。言葉なんてなんだって。でもやっぱりなんだか、御影密を推しているという自認で過ごした有明での数日は、胸にしまっておきたい宝物のような感情が沢山あった。そうやって過ごせて、そしてこれからも好きと思いながら一緒に歩いていけること、本当に本当に嬉しい。
 君を好きでよかった。そう思えてよかったです。

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