【ブログ】ミセスを好きだという人に感じる気持ち悪さの正体
「ミセスを好きだという人に感じる気持ち悪さの正体」という大仰なタイトルを掲げたところで、まず声を大にして言いたいのは、そもそもミセスが作る音楽は、涙腺を刺激してくれるものから、ちょっとセンチな青春を思い出させてくれるものまで幅広く、実に素晴らしい。こんなの、みんな好きに決まっている。「いや、俺はそうでもないよ」なんて態度をとるやつがいたとしたら、そいつはきっと“俺は世間とは違うんだ”というちっぽけな優越感に浸りたいだけの、いわゆる逆張り人間だろう。世の中にあんなに良い曲を聴かせてくれるミセスを好きにならない人間なんて、そうそういない。だからこそ、「あ、ミセス好きなんだ」「俺も俺も!」という会話が生まれてしまう。で、そこで妙な一体感が生まれ、「わかるよ、あの歌詞に救われたよね!」とか、「あのメロディのサビ前が最高にエモいよね!」などと、“もう家族なんじゃないか”ってくらいに盛り上がってしまうわけである。
そして問題なのが、その「好き」を世間にバカでかい声で言いふらす人々だ。たとえば、いい年齢の大人が「いやあ、僕、母親のことが大好きなんですよ」と真顔で力説してまわっていたらどう思うか。母親を好きなのはいい。むしろ親を大切に思うのは素晴らしいことだ。だけど、わざわざ公言する必要があるのかという話になる。“好き”って、そんなに発信するものでもないし、強調すればするほど周囲は「ん? なんでそこまでアピール?」と、微妙な気味悪さを覚えるものだ。これは恋愛感情の“好き”とはまた違う、もっと根源的で当たり前に近い“好き”だから余計に厄介なのである。
ミセスへの“好き”も似たようなものだ。なにせミセスは、人生に寄り添ってくれる優しさ全開の歌もあれば、「こんな未来を抱きしめて突っ走れ!」と背中を押してくれる曲も作ってしまう。自分の思い出や感情にスッと入り込んで、まるで母親のように温かく包み込む存在になりつつある。もうここまでくると、「あれ? これって、自分が母親好きって言ってるのと同じなんじゃ……」と気づいてしまうわけだ。
言ってしまえば、男は(いや、男女問わずかもしれないが)母親のことを好きなのは割と普遍的な感情だ。誰だって、自分の母親に苦い思い出しかないという人はそう多くないだろう。むろん、そういうケースも存在するだろうが、全体的には“母親に感謝”“母親がいなければ今の自分はない”という気持ちが育つものだ。ところが、それをわざわざ公衆の面前で声高に言われると、周りとしては微妙なリアクションを強いられる。「ああ…うん、そうだよね。大事だよね」としか返せないし、むしろどう返していいかわからなくて居心地が悪くなる。その居心地の悪さが、いわゆる「気持ち悪さ」につながるのだろう。
では「ミセスを好きだ」という人への気持ち悪さはどこからくるのか。その正体は、「母親大好きアピール」と同種の違和感なのだと思う。なにしろ、ミセスの魅力はあまりにも普遍的だ。辛いときにそっと寄り添い、楽しい思い出を蘇らせ、さらに涙を誘う。そんな最強のアーティストを好きなのは、まあ、当たり前に近い“当たり前”だろう。だから“わざわざ言わなくてもわかる”のに、言っちゃう。そこが「ちょっと気持ち悪いな」と思われてしまうポイントだ。加えて、「いい年したオトナが母親のことを大声で称賛する」図と重なって見えてしまうのだ。頭の中には、「いや、それを他人にドヤ顔で言って回るか?」というツッコミが響いてしまう。
しかし、ここで誤解されては困るのは、別にミセスが悪いわけではないということだ。むしろ、あまりに良すぎるからこそ、その良さを語るときに人々は空気を読まずにハイテンションで語り尽くしたくなる。結果、「こんなに最高なアーティストを好きな俺、偉い!」みたいなテンションになってしまい、周りの人々を「へ、へぇ…」と引かせる。一体誰が悪いのか。その質問に対して、こう答えざるを得ない。「ミセスが凄すぎるのが悪い」。だって、そこまでの完成度を持った楽曲を世の中に放ってしまうんだから、人はもう黙っていられなくなるのだ。
まとめると、ミセスという存在は、あまりに素晴らしすぎて、もはや“母親レベル”の絶対的愛着を抱かせる。そこを意識せずにアピールしすぎると、「マザコンみたいで気持ち悪い」という印象を抱かれてしまう。それが、ミセスを好きだという人に感じる気持ち悪さの正体だろう。しかもこれ、当の本人には悪気はまったくない。善意と多幸感ゆえにやらかしてしまう。だからこそタチが悪い。結局のところ、「ミセスが凄すぎる」のが原因。被害者はむしろ我々なのかもしれない。やれやれ、この気持ちをどう落とし前つければいいのか。誰かミセスの曲でもかけて、母親のように癒してほしいものである。