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クールダウン

野暮と粋の間にあるものを考えていた。

『古事記』好きが高じた縁で、とある国文学者の集まりに顔を出したことがある。酒が好きだが酒に弱い気鋭の学者がいて、説教タイムになった。

最初は、その学者の気鋭さを尊重して興味深くその説教を聞いていたが、学者の知性のあり方が唯一の知性のあり方であると信じて疑わないその説教に、だんだんと疑問を感じてしまったことを覚えている。

ルールがある閉ざされた世界は、美しさと醜さを持っている。

しかし、その醜さを指摘するのは野暮である。

指摘したところで、醜さは美しさには転じない。

野暮を避ければ黙すのみ。

だが、粋をたぐり寄せる道は無いのか?

なんてことを、その酒宴の風景を思い浮かべながらたまに思い返す。

『日月神示』をガチで読む行為は、私にとって野暮と粋のはざまを探る行為だったのかもしれないな。などと、書き終えた今、思う。


(数時間の経過)

野暮と粋の間にあるものは何か。本棚から『いきの構造』(九鬼周造 1888-1941年)を取り出して読む。

なんと。

いき」は、単に「野暮」と二項対立のうちに存在しているのではなかった。

いき」は、「野暮」「下品」「上品」を頂点とする四角形と、それに直交する「甘み」「渋み」「地味」「派手」を頂点とする四角形の、2つの四角形の交差が形成する直六面体(四角柱)の頂点の一つとして把握されるべきものだったのだ(タイトルの文庫の表紙の絵)。

そして何より、私の「いき」理解は、異性への意識と身体性が希薄であった。

ずいぶんと前に読んだきりで、中身をすっかり忘れていたのだ。

いき」に生きていなければ、野暮から粋へは移れない。

なんとも野暮な結論を思い知らされた。



九鬼周造はラッパーの元祖だった(※)。

九鬼周造のライムとCreepy Nutsとの間にあるものについて考えてから出直すのがよいようだ(Creepy Nuts、凄い好きなんだけど、九鬼のいきの構造からはみ出た頂点にあるような気がする。四角柱は、現代では五角柱か六角柱に拡張しなくてはいけないような気がするんだ、、)。

偶然性(リリック by 九鬼周造)

平行直線の公理
望み通り
証明が出来た?
いや、基本要求を撤回した
問題の核心となっているのは
三角形の内角の和
それが果して二直角?
なに百八十度を少し欠く?
アレキサンドリアで見つけた古本
二千年前の幾何学原論
蠧魚しみが食っていようと食っていまいと
ユウクリッドは偉い人
宇宙の姿を線と点とに造り換え
お前と俺、俺とお前
めぐり逢いの秘密
恋の反律
これは人生の幾何
なんとか解いてはくれまいか
甲なる因果の直線を見よ
乙なる因果の直線を見よ
二つの平行線は交わらぬがことわり
不思議じゃないか平行線の交り
これが偶然性
混沌が生んだ金星
因果のなみの寄するまま
二人で拾った阿古屋珠あこやだま

註)阿古屋珠は真珠のこと

『九鬼周造全集』より

※註)千野帽子という俳人のエッセイで知りました。

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