写真と、東京事変の「閃光少女」

アーティスト・椎名林檎を敬愛し、崇拝している。

彼女の世界観がすきだし、曲調、センス、見た目、生き方。すべてがすき。

これまで彼女の持つ価値観や考えにハッとさせられたことは何度もある。

東京事変の「閃光少女」。

東京事変、椎名林檎ファンの中でもかなりの人気曲であり、ファンでない人でも知っている人は多い曲なのではないかと思う。

この曲のサビの歌詞がこちら。

「切り取ってよ 一瞬の光を 写真機は要らないわ 五感を持ってお出で」

この曲、英語詞もあるんだけど、タイトルは「put your camera down」。それほどまでにこの曲の中で重要なテーマなのだろう。

また、この歌詞に対して、作詞した林檎さんはこのようにインタビューで語る。

自慢したいから写真を撮る」とか「みんな持ってるから、電話持つ」とか、そういうことがもうヤなの。必要なことだけすればいいし、そうやって、みんな生きていけばいいって思うので、せっかく嗅ぎ分けて私達の音楽を聴いてくれるお客さんとは、「私もそう思ってるよ。お揃いだね」ってやり取り出来る信号をどこかにこそっと残しておきたかったんです。

この価値観、すごく共感できる。林檎さんよりも先にわたしが言語化していたかったって思うくらい。

前の記事で、「本当の好きって何だろう?」と書いたら、「自慢しないでも好きって思えたら好きなのでは」とコメントしてくださった方がいて。やっぱり結論はそこかあ って再認識したのだけれど、この林檎さんの考え方もそれと似てるのでは?(本当の好きについての再考察はまた別の記事に書きたいと思う。)

ただ、「写真機は要らない」って言い切るのは、ちょっと違くって。どうしても、否定したくって。もちろんこれは歌詞だから、林檎さんだってほんとうにカメラを要らないって思っているわけではないと思うけれど。

わたしは趣味で写真を撮っている。っていっても去年の冬に一番初心者モデルの一眼レフを購入して気が向いたときに撮っているだけだけども。一眼を持ち歩いていないときはiPhoneのカメラでも積極的に撮っている。風景、食べ物、人など、、、。おそらく、シャッターを切る回数は平均の倍以上だと思う。

その逆で、知り合いにまったく写真を撮らない男性がいる。彼は「閃光少女」精神らしい。つまり、「撮るより、感じろ」

彼の考え方に、その場では「なるほど確かに」って納得したんだけれど、後々何となく、もやもやした。じゃあ、私が撮っているものは、何なのだろう。わざわざ自分の感じる時間を削ってまで、写真を撮る必要とは?って。

ずっとそう思い続けながらも、何となくシャッターを切ることをやめなかった。何となく、もやもやしつつも「写真、好きだなあ」って、思えたから。

そんなもやもやを先日、言語化してくれた人が現れた。たまたまネット上で見かけた、とある写真教室の紹介文。

写真はデジタルになって、スマートフォンなども広まって、あまり意識しなくても普段接しているモノとなりましたが、「撮ること」を考えるのは、目の前の風景をより感じて・見ようとしていること、だと思うのです。その時シャッターを切らなくても。

ああそうか、って。写真を撮ろうという意思があるから、目の前の風景をより感じられる。いつもの何気ない景色から、何かを感じ取れる。「撮るより、感じろ。」の人もいれば、「感じるために、撮れ。」の人もいる。

とってもすっきりした。知人の彼は前者で、わたしは後者のタイプだったのね。

ところで、わたしが撮ってインスタやらに載せた写真を「撮るのがうまい」と言ってくれる友人が数人いる。でも、別にわたしは写真を撮るのが「うまい」わけではないと思う。構図だってめちゃくちゃだし、別の人が撮った方がよっぽど上手。一眼レフを触ったことのない友人の方が上手かったりする。

でも、褒めてもらえることがあるし、わたしはわたしが撮った写真が好き。

それは何故かというと、

わたしにとっての「写真」は、どう撮るか より、被写体をどう感じているか だから。街にしろ、物にしろ、人にしろ、わたしは好きなものしか撮らない。好きじゃないな、どうでもいいな、美しくないな、シャッターを切る価値がないな、って直感的に判断したものは撮らない。

わたしはいい意味でもわるい意味でもすこーしだけ感受性が強くて、その分日常を切り取るのが、人よりすこーしだけ得意なんじゃないかなって、思った。

それで、人からたまに褒めてもらえるのは、そんなわたしの気持ちが写真から伝わるからなのかなって。ほんとうのところはわからないけど。

改めて写真はいいなあと思えました。

いつか、撮ったものを載せます。







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