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サタンが最も嫌うもの

サタンが最も嫌うものが何か。

サタンが人間を堕落させるとき、 何を最初に攻撃したかを見るとよくわかります。

サタンはエバをどのように誘惑しましたか? 神様の命令を守らなくても死ぬことはないと言いました。 創世紀3章4・5節に書いてあります。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」

‭‭創世記‬ ‭3‬:‭4‬-‭5‬ 口語訳‬

神様は、エデンの園のどの木からでも自由に取って食べてもよいが、この実だけは食べてはいけないとおっしゃいました。

サタンは、人間が神様の戒めに従う限り、永遠に生き、自分が手を出せないことをよく知っていました。 それで彼は、人間が神様の戒めを犯すように誘惑しました。

人間が神様の戒めを守らなくなれば、神様の保護から外れ、自分の権威の配下になることをサタンはよく知っています。それでサタンは神様の戒めを一番嫌うのです。

つまり、この最後の時代にも、神様の戒めを守る真実なクリスチャンを一番嫌うのです。


ヨハネの黙示録12章17節に次のように書いてあります。

龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。

‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭12‬:‭17‬ 口語訳‬

龍、すなわちサタンが怒りを発し、戦おうとする相手は、神の戒めを守る人だと書いてあります。

サタンは、神様の戒めに対して、常に戦いを挑んでいます。 私たち人類が最初に堕落したのは、神様の戒めに関する問題でした。 そして人類の歴史が終わる最後の時代にも 神様の戒めが霊的な戦争の焦点になるのです。

ところでなぜエデンで 食べてはならないと言われた言葉が、神様の戒めを意味するのかご存知でしょうか。

神様が人間を創造されたとき、自由意志を与え、選択して神様に仕えるように創造されました。
その時神様はエデンに一つの禁止事項を置かれました。

もし神様が善悪を知る木から実を食べてはならないと命令されなかったら、 人間が神様に仕えるのはロボットのように自動的な無意識的な行動にすぎません。

自由意志を与えられた人間が神様に仕えるときは必ずこれはしてもいい。これはしてはならないという基準がなければならないのです。

神様と私たちの関係は創造主と被造物です。
そこには超えることのできない違いがあります。 その違いを明確にしなければ。すべての秩序が崩れてしまうのです。

そこで神様は人間と一つの取り決め、契約を結ばれました。 その契約の中にいるとき被造物である人間は真に作られた目的を果たすことができるのです。

しかし神様は人間がその契約の中で幸福に生きることも、契約を無視して罪に生きることもできる自由な存在者として創造されたのです。

選択できない愛は真の愛ではありません。 他の選択ができるにもかかわらず、神様を愛し尊重して神様の戒めを守ることによって愛の関係が成立するのです。 創造主と被造物の間に真の関係が成立するのです。


神様が戒めを与えられた理由は、被造物である私たちが神様の戒めを守るとき、真の自由と平安があり、幸せや永遠の命を得られるということを教えてくださるためでした。

私たちの永遠の命は主に従うという条件によることを聖書は教えています。 神様は人間に選択の自由を根付かせてくださるために、善悪を知る木をエデンに置かれました。

それは一つの戒めでした。 人間は神様を信頼し愛するので、神様の命令に従って善悪の実を食べない。 そのことによって真実の愛を神様に捧げられるのです。 真の忠誠を神様に捧げることになるのです。

ヨハネによる福音書14章15節と21節です。

もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14‬:‭15‬ 口語訳‬

わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14‬:‭21‬ 口語訳‬

私もその人を愛し、その人主の戒めを守る人が、主を愛する者だと書いてあります。

アダムとエバには、今のような十戒を与える必要はありませんでした。 彼らは、罪を知らなかったからです。 しかし、被造物である人間の最高の品性の発達と幸福のために、 ただ一つの禁止事項が与えられました。 そして、その当時は、神様の御心に従って生きることが当たり前でした。

しかし、サタンが神様の権威に対抗するため、 神様の戒めを攻撃し始めました 主の戒めを守らなくてもよいと言って誘惑したのです。 これが始まりです。 そしてサタンは神様の品性を誤解させました 。

神様は不公平で慈悲に満ちた方ではないと誤解させるように話したのです。 神様は利己的な方で この善悪を知る木の実を独り占めにしておられるのだと言いました。 この善悪を知る木の実を食べれば、あなたも神様のような能力を持つようになるとくどきました。

その結果、人間は自らの意思で神様の戒めに逆らったのです。 現在の世界がこの世に問題だらけで、道徳が低下した理由は、神様の律法が無視され、 不従順を続けた結果です。

現代では、様々な犯罪や殺人の場面が、 映画や本、テレビ、インターネットにあふれています。 そのようなものを見て育った子どもたちは、どうなるのでしょうか。 子どもたちは、小さい時から、周りの大人たちが、 神様の戒めを守らない姿を見ながら育つので、 どんどん悪くなるしかありません。

このような社会の中で、神様に従う青年たちを育てるのは、とても難しいことです。 それは、神様の戒めを守る環境、雰囲気がないからです。 神様の戒めを守らなくても大丈夫だ。 自分たちだけでやっていける、という勝手な思い込みがあるからです。

神様の戒めは、私たちの心の中にある罪を教えて、 イエス様のところに行くようにするために与えられたものです。 また神様の戒めを守るのは 私たちが神様を愛しているという表現であって、私たちが信仰によって救われた経験を感謝の応答として、外面に表すことが主の戒めを守る信仰生活です。


しかしそのようなものをサタンは嫌うのです。

ダニエル書7章25節、

彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、 かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。 彼はまた時と律法とを変えようと望む。 聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、 彼の手にわたされる。

‭‭ダニエル書‬ ‭7‬:‭25‬ 口語訳

反キリストの勢力が時と律法を変えようとすることが予言されています。 また聖書は神様の御言葉を教えるべき宗教指導者も神様の律法を破るようになると予言しています。

マラキ書2章7説

祭司のくちびるは知識を保ち、人々が彼の口から律法を尋ねるのが当然である。彼は万軍の主の使者だからだ。ところが、あなたがたは道を離れ、多くの人を教えてつまずかせ、レビの契約を破ったと、万軍の主は言われる。 あなたがたはわたしの道を守らず、律法を教えるに当って、人にかたよったがために、あなたがたをすべての民の前に侮られ、卑しめられるようにする。

‭‭マラキ書‬ ‭2‬:‭7‬-9口語訳‬

ここに出ているレビの契約というのは レビ族の祭司たちが、人々に神様の戒めを守るように教えるべきことを命じられたことです。 人々を神様に従うように導くのが、祭司たちの仕事でした。 祭司たちの口に律法があるのです。

しかし、その祭司たちが律法を破ったと書いてあります。 現在の教会では、十字架によって律法が破棄されたと教える人がたくさんいます。

それは正反対のことです。 神様が律法を破棄することができるのなら、主が十字架で亡くなられる必要はありませんでした。 ただ律法をなくしてしまうか、私たちの罪をいいよいいよと言って許してくださればよかったのです。

主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

‭‭詩篇‬ ‭19‬:‭7‬ 口語訳‬

すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

ローマ人への手紙‬ ‭3‬:‭31‬ 口語訳‬

このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7‬:‭12‬-‭14‬ 口語訳‬


神様が戒めをくださった目的は何だったでしょうか。 神様の戒めは、国家の憲法のように、神様の政府の基礎です。 私たちの安全と平和は、この神様の戒めに依存しているのです。 今も、全宇宙の万物が、神様が定められた法則の中で運行しています。 月も星も法則に従って正確に動いています。

もし月や星が法則から離れて勝手に動き回ったなら宇宙はすぐに破壊されてしまいます。ところがその中で人間だけが法則に逆らっているのです。 法がないと罪は成立しません。

なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

ローマ人への手紙‬ ‭3‬:‭20‬ 口語訳‬


私たちは律法を守ることによって救われるのではありません。しかし律法によって私たちの罪が何かを悟り、悔い改めるのです。

神様の律法、十戒がないなら罪もなく、罪がなければ刑罰も審判もいりません。 ですから十戒は必ず必要なのです。 十戒をなくすことができるのなら、イエス様は何のためにこの地上に来られ、十字架で亡くなられたのでしょうか。 私たちの罪を代わりに背負ってくださった理由は何でしょうか。

律法の目的の一つは罪を悟らせることです その罪を悔い改めて神様の前に出ていくようにさせるのです。


ローマ人への手紙7章7節にこうあります 。

それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

ローマ人への手紙‬ ‭7‬:‭7‬ 口語訳‬


聖書は律法を無視する者たちは神様を知らないものだと言っています。

ヤコブの手紙1章22節から25節です。

そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

ヤコブの手紙‬ ‭1‬:‭22‬-‭25‬ 口語訳‬


鏡を見たとき、顔に汚れがついていたらどうしますか? 鏡の中の自分の顔をゴシゴシこすってきれいにしようとしますか? それとも、鏡を捨てて自分の顔は汚れていないと否定すればいいのでしょうか?

鏡は私たちの顔が汚れていることだけを教えてくれます。 鏡を見て汚れていることがわかったら 石鹸を使って自分の顔の汚れを取るようにします。

それと同じです。律法は私たちに自分の罪を見せてくれます。私たちが従うべきものが何かを教え、従うことを要求します。 しかし人間には従う力がありません。その時救い主が必要になるのです。イエス様の十字架のもとに行き イエス様の血によって許されるのです。イエス様は律法を廃止するために来られたのではありません。

マタイ福音書5章17、18節にこう言われました。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

マタイによる福音書‬ ‭5‬:‭17‬-‭18‬ 口語訳‬


イエス様を信じるときに、律法のすべての要求は満たされます。そして私たちは律法と調和した、その状態を続けていくことができるのです。 それが信仰生活です。さらに、イエス様は律法に対する私たちの考えを、神様の水準にまで高められました。 私たちが律法を守るというときに大切なのは、私たちの心の動機だと教えられました。

マタイの福音書5章27、28節です。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

マタイによる福音書‬ ‭5‬:‭27‬-‭28‬ 口語訳‬


十戒は、外面の行動だけでなく、心の思いにおいて守らなければならないものです。 そして、私たちが律法を心から守るためには、十字架の地によって私たちの心が現れ、生まれ変わって、新しいイエス様の心を与えられ、 律法と一致した心を持つようになって初めて律法を守れるので。

律法は今も守るべきものです。戒めを守る行いによって救われるのではありませんが、私たちが救われたものなら、主の戒めを守るものになるのです。サタンは神様の存在と権威を認めていますが、律法に従わないのです。

主の戒めに従順なものが義なるものだと聖書は強調しています。 しかし問題があります。私たちは 堕落した本性を持っているので、私たちの力では神様の律法を守ることができません。

どうすればいいのでしょうか。聖霊によって生まれ変わらなければならないのです。そうしたら神様が私たちに新しい心を与えてくださいます。新しい動機や考えをくださいます。

ローマ人への手紙8章1節から4節にこう書かれています。

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

ローマ人への手紙‬ ‭8‬:‭1‬-‭4‬ 口語訳‬



聖霊様が、私たちのうちに律法の要求を満たしてくださいます。 私たちが戒めに喜んで従うことができるようにしてくださるのです。 その時私たちは罪から解放されます。

それは、解放されたから戒めを守らなくてもよいという意味ではありません。許されたのは主の戒め通りに生きるためです。


ローマ人の手紙3章31節に次のように述べられています 。

すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

ローマ人への手紙‬ ‭3‬:‭31‬ 口語訳‬

私たちは神様の戒めを守る自分の行いで救われるのではありません。

救いは神様の恵みによるものです。しかし、救われた者たちは神様を愛するので、神様の御心の通りに生きるようになります。

サタンは最初に神様の律法を攻撃し、 アダムとエヴァに罪を犯させ律法は守ることができないと主張しました。 しかし神様は最後の時代に神様の戒めを守る忠実なクリスチャンの出現によって、この地球がサタンのものではないということを証明なさるのです。

わたしが、それらの日の後、 彼らに対して立てようとする契約はこれであると、 主が言われる。 わたしの律法を彼らの心に与え、 彼らの思いのうちに書きつけよう」

ヘブル人への手紙‬ ‭10‬:‭16‬ 口語訳‬



これが新しい契約です。 私たちは、悔い改めて主と新しい契約を結ぶのです。 新しい契約を結ぶまでには段階があります。 神様が示された 神様の方法によって一つ一つその段階を踏んでいかなければなりません。

まずイエス様はいろいろな出来事を通して私たちの心の戸を叩かれます。

そして今まで私は神様を知りたい 。私は神様に従いたい。 私は清くなりたい。というように、主語が私だった状態から、神様はここで何を望まれるのだろうか。神様のご計画は何なのだろうか、 神様が喜ばれることは何だろうかと、主語が神様になるように導いてくださり、 少しだけ心の戸を開かせてくださいます。

自分の心の罪に目を開かせてくださいます。今までの自分の心の動機はすべて利己的なものであり、その行いはすべて自分を義とする流れの中にいたことを知り、真の悔い改めに導かれます。

そして心の底からイエス様の動機、希望、イエス様の義を心の内に根付かせていただくことを求めるようになります。

それから そのイエス様の心を少しずつ根付かせていただきながら、神様よりも大事にしていた心の中の偶像をすべて捨てさせていただいたとき、全く新しい心に作り変えてくださいます。

その心は、罪を憎み、義を愛する心なので、律法を犯すことができなくなるのです。 自分を義とする流れで歩んでいる人と、 イエス様の義のうちに歩んでいる人との違いは何だと思いますか?

自分を義とする流れの中を歩んでいる人は、自分の善行をすべて覚えていますが、 イエス様の義のうちを歩んでいる人は、やったことを忘れています。 また、自分を義とする流れの中を歩んでいる人は、律法に従わなければならないと思って従っています。

イエス様の義のうちに歩んでいる人は律法に従いたくて従わずにはいられなくて心から喜んで従います。これが新しい契約です。サタンの攻撃目標は神様の戒めです。

ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」

ヨハネの黙示録‬ ‭14‬:‭12‬ 口語訳‬


皆さんは神様を愛していますか。皆さんは神様とその戒めに、死ぬほど忠誠を尽くす心がありますか。皆さんは誰のしもべですか。 神様のしもべですか それとも、依然として罪の奴隷ですか? イエス様は私たちを救うため、すべてを与えてくださいました。

本当に生まれ変わって、主の戒め通りに生きるものにするため、すべての力を与えてくださいました。 神様は私たちにすべてを与えてくださいました。 私たちが救われない理由はどこにもありません。

その神様の愛にお応えしてください。 皆さんはイエス様のために、今日何を捧げますか。
主に全てを捧げ、サタンに勝利する献身の人生を贈られますように、お祈りいたします。

お祈りします。

天の神様 私たちを守るために、戒めを与えてくださったことを感謝します。 私たちは神様の愛の戒めの中で自由であり安全であり幸福です。 しかし私たちは自分の力で戒めを守ることはできません。

どうか私たちに日々新しい心を与えてくださり、戒めに従順に歩むことができますように導いてください。

主イエスキリストの皆によってお祈りします。
アーメン

元動画↓

ー感想ー
神様の戒めに心から従うことが、真の私たちの幸せであり、戒めが無ければそこは無知序の混沌とした絶望の世界となってしまう。

よく友達に聖書の話をすると、「神様がいるなら、そもそもなんで神様は善悪の木を用意したりするのか、サタンがいるのか」

ということを聞かれました。

神様が人間に自由意志、というものを与えたからこそ、人間が他の選択ができるにも関わらず、神様を愛することから戒めを守る、それにより愛の関係が成り立つ、ということ。

選択できない愛は真の愛ではない。から。

本当にそうですね。

その愛のかたちを作った神様が本当に素晴らしいなと思います。

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