だからこれが自分
出会いという出会いではなかった。
イントロだけがくり抜かれた音源を使って、友人との思い出の写真をリズム良く切り替える動画をスマホで作っていく。5年ほど前には同世代の間でそういうのが流行っていて、私も様々なイントロを聴き、これは違うとかあれは違うとか言いながら意気込んで作った。
そしてイノチミジカシコイセヨオトメのイントロダクションに頼りきりのスライドショーが完成した。あのギターのフレーズから始まってベース、ドラムとそれぞれ続く歯切れの良い音が心地よくて、どうしようもない田舎のJKの顔写真の連続もいくらかマシに思えた。それが楽しくて何度も何度も見直す。イントロだけが続いて耳に残り、曲名も歌詞もバンドの名前すらも知らないのに、イントロだけを知ってる人間という不思議な存在が出来上がった。
ここ数年はSNSの影響によりこの頃の私のような曲ツンツン人間……が増えつつある。まずは質より量、多量の情報から厳選してお気に入りを決定することが私にとっての日常である。とても体力のいることだが、筋トレと似ていてインナーマッスルを鍛えておけばさほど問題ない。しかし5年前は高校1年生、スマホを買ってもらって嬉しいばかりで色々な情報を取っては捨てる、捨てるというよりは見て見ぬふりをしていた。まだこれよりいいものがあるかもしれない、そういう期待に踊らされて自己概念をくすぐるものに気づかないでいた。イントロがこんなにもいいのに何故曲の全てを受け止めないんだ、と今思うと悔やんでも悔やみきれない。
それから2年後、ようやく腸腰筋辺りのインナーマッスル(笑)もついてきた頃、あの曲と再び出会った。今度はしっかりクリープハイプというバンド名とともに、あの時のイントロがスマホのシャッフル再生から流れる。クリープハイプのイノチミジカシコイセヨオトメ?声に出して慎重によむ。何回もよんでみる。聞いたことあるようなないような単語達を不思議に思いながら、イントロに引きずられてAメロに流れ込む。続くギターのフレーズに男の人であろう声が乗る。低い音程も高く聞こえる声だ。歌詞に素早く目を通す。ピンサロ嬢ってなんだ……。ぼんやりと浮かぶピンサロ嬢の像を思っている間に曲はゆるやかさと重みを増す2回目のAメロに突入する。どうやら生まれ変わりたいピンサロ嬢の歌らしいということだけ記憶して、サビに向かって昇るメロディに胸がドクドクと高鳴る。そして次の瞬間悲しみで泣き叫ぶような声が響く。ただ響いたというよりも悲痛を泣き叫ぶ大人を目の前で見た時のような、みてはいけなものを見たような感覚に近かった。泣き叫んでいるように聞こえるけれど、メロディと共に泣いているからこれは歌なんだ。サビの間はそんなことをグルグルと考え込んでしまっていた。本当に驚いた時に身体は冷静になるように、頭だけが忙しかった。
そこからはこの歌を覚えたい、私が心の底からいいと思ったこの歌をもっと知りたい、クリープハイプを知りたい、その原動力で3日も経たないうちに10曲を口ずさめるようになった。1曲を知る度にまずメロディに心酔する。そして歌詞の意味を知り、自分と重ねてゆく。重ならない部分も巧みな歌詞で想像が掻き立てられ自分の中に純物質として入ってゆく。そうしていると音楽を通してそれを形づくる人間達に興味が湧いた。過去に発売されたCDも買って、ラジオや小説、様々な雑誌も手に取って読んだり聞いたりする。日に日にクリープハイプが私生活に溶け込む。バンドに関する様々な情報を知っていく中で、この人たちの音楽は人間性が投影されているに違いないと考えるようになった。
あの時、見ちゃいけないものを見たような気がしたのは音楽の舞台で悲しみの核心を突いていると感じたからだったのかもしれない。そして人間めいている部分をピンサロ嬢に重ねて歌うバンドを見たことがなかったからかもしれないとも思う。核心を突いているのは歌詞やメロディに限定されたものではなく、バンドの色から滲むものも含んでいると感じる。
クリープハイプが私の生活に溶け込むのは日々のどうしようもない、頭の片隅に体育座りしているような思いをひとつずつ優しくかいつまんでくれるからだ。共感でも擁護でもない、ただその事実を歌ってくれるだけで、こんなにも心が軽くなるのかと何度も思う。歌詞だけにとどまらず、曲のイメージが凝縮されたようなギターとドラムとベースの音が堪らなく好きだ。毎日聴きたい。そしてクリープハイプは私だけじゃなくて沢山の人に寄り添っていることを私は知っている。SNSを通してファンの方と交流をすると、クリープハイプは色んな人の心の隙間に入り込み、ぽっかりとした心の穴の形に七変化してフィットしている事を知れる。私だけのクリープハイプは心の中にいるし、みんなもみんなだけのクリープハイプがいる。こういう風に思いをつらつら書いている間もこんなバンドを見つけた自分をぐしゃぐしゃに褒め回したい気分になる。こんな存在が出来たのは人生で初めての事だったから、これからも大切にしたい。
クリープハイプ抜きでは生活が成り立たない、空気と同じくらい暮らしに根付いている、そんな状況になった時から、彼らの曲を聴いてライブに行くことこそが私の生きがいになった。ここまで来ると歌詞、メロディ、それを演奏するバンドが今も続いていて私がその音を聴ける、その全ての事実が愛しくて、いつまでも続いて欲しいと感じる。
私は20歳の未熟者だけれど、まだ青いこの気持ちをいつまでも忘れたくない。10年後20年後にこの自分のnoteを見て恥ずかしくなっても、こうして考えて書く、それが今この瞬間の私で真実で存在そのものだ。バンドを見ることを通して自分を見る、このバンドに出会っていなかったら自分をもっと俯瞰して、あるいは内側から理解していなかっただろう。クリープハイプを好きな自分が好きだ。それで良くて、そう思わせてくれるクリープハイプが好きだ。