目線とは愛なのか

敬愛するパッチ・アダムスは、
『ケアは愛を動詞化する』と言いました。

同じく敬愛するうちのおかんは、
『目を合わせるのは愛情表現』とよく言っていました。


最近読んだ千葉佳織さんの本には、
『視線は配慮である』と書かれていました。

これらはすべて同じことをいっているのではないでしょうか...。
今日は自分なりに考えてみることにします。

誰かと話そうとするとき、実は言葉だけではなく、身振りや手振り、表情や声のトーンや抑揚が言葉そのものよりも大きな意味を持つことを僕らは経験的によく知っています。「非言語コミュニケーション」などといったりするらしいですが、目線はその一つです。

僕が育った地域というのは、昔で言うヤンキーみたいなのがまだクラスに数人いるような、時代に置いてけぼりにされた風の地域でした。ヤンキーたちは当時は怖い存在で、目を合わせようものなら「何ガン飛ばしてんだよ」と突っかかれるのも日常です。

そんな地域に居ながらも、僕はといえば、母や祖父のエイサイ教育の賜物で人と目を合わすことを当たり前として育ったので、ヤンキーに絡まれるのも日常茶飯事でした。思春期の石丸の気ダルそうな目も相まって彼らには大変不快だったのでしょう。それでも仲の良い友達もたくさんいました。中にはヤンキーをやっている友人もいました。そいつはよくうちに遊びに来ては、「お前の母ちゃん何者なんだよ、、ずっと目見て話してくるじゃん。絶対目そらしてくれないじゃん。」と言っていたんです。

そのことを母に話すと、母は笑いながらそのときの想いを話してくれました。
「目を逸らすってのはな、逃げるってことなんだよ。」
「目を合わすってのはな、見てるからなっていうことなんだよ。」
「私はヤンキーだろうがオカマだろうが、お前の友達も自分の子供として見てる。」
「だから目を逸らさないし、ずっと見てる。見て見ぬふりしたり見捨てたりしない。」
「これは私なりの愛情表現なんだよ。」

ああ、なるほど。とその時妙に納得したのを覚えています。
見てるぞ、知ってるぞ、逃げないぞ、いつでも受け止めてやるぞ、そんなメッセージがその視線には込められているのでした。

千葉佳織さんが著書「話し方の戦略」の中で視線について書かれていました。
視線が泳ぐと聞き手に信憑性が生まれないことや目線を合わすことで大人数に対する問いかけも一人一人に当事者意識をもってきいてもらえること、自分1対先方2のプレゼンで先方1人だけにしか視線を配らなければもう1人は疎外感を感じてしまうことなどの例が紹介されています。

この本にも見てるぞ、知ってるぞ、逃げないぞ、いつでも受け止めてやるぞのメッセージが視線には込められていると表現されているように感じました。

ではこのメッセージは何を指しているのでしょうか?
「見てるぞ、知ってるぞ、逃げないぞ、いつでも受け止めてやるぞ」
「目を向けて置くこと、心を配っておくこと、心身ともにそっと手を添えておくこと」とも言い換えられそうです。僕らのよく知る単語1つで表現するなら “ care ” でしょうか。

視線は配慮であり、ケアです。
目を合わせることは、愛情表現であり、ケアです。

敬愛するパッチ・アダムスの言う通り、
『ケアは愛を動詞化する』ものなのでしょうね。

最後に僕が定期的に見返しているPatchのTEDx talkのリンクを貼っておきます。
Gesundheit Institute: Patch Adams at TEDxUtrechtUniversity

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