年末特別編:内省の秘訣を考える話【s2:6話】
この連載を読んだ人からは内省力とか言語化能力を褒められることが多い気がする。年末でネタがないので、今回は「どうしてそのように評価されるのか?」について考えたい。
自意識を抑えること
一応言っておくが、わざわざ内省力などをアピールしようなどとは一切思っていない。これは内省に限らない話ではあるが「こういうところをアピールしたい」と意図した文章はクサくなる。筆者はそのクサみで人を遠ざける失敗を重ねてきたので、今では分かりやすく書くことだけを意識して文章を書いている。たぶん、その状態でもなお残るものが個性なのだろう。
文章は氷山の一角のようなもので、水面下にある経験や思考の一端しか出ないものである。そのもどかしさに耐えられず、もっと出そうとすると無理が出てバランスを失ってしまう。バランスを失った文章はクサくなる。「何を書くか」と同じくらい「何を書かないか」も大事で、筆者の場合は分かりやすさとか、流れとしての自然さを基準に判断している。
自意識や不要なネタが贅肉のように乗った文章は不自然になってしまう。贅肉の例を以下に出す。
ときおり、相撲取りみたいに「贅肉に見えるけど筋肉量もエグい」タイプの文筆家がいる。そういうタイプの文章に憧れてしまうと厄介である。文体模写の効能は否定しない。絵の世界でも模写は練習として存在するし、陰影の付け方なんかを学ぶには良いとされている。同様に文章の模写は句読点の置き方をはじめとした空気感を学ぶのに良いと思っていて、自分の日記のように外部公開しない文章を文体模写でやることは練習に良いと思う。
それが個性に昇華すればなお良く、西尾維新の文体に強い影響を受けているプロ作家はそれなりにいる。アマチュアの筆者だって一時期は森見登美彦みたいな文体に憧れていた。習得できるものではないので諦めたが。
しかし憧れの方向性が茨の道だとそうはいかないのが困ったものである。
脈絡なく上のような内容が入ると、読んでいる側は急に冷める。では、流れはどうやって把握すれば良いのだろうか。
推敲を頑張ること
流れの把握以前の話ではあるが、公開前に何度も読み返して「おかしくないか?」と自問自答することは文章を書く上で大事である。要するに推敲しろという話である。
このことに気づいたのはある日の社長講話である。note社では全社MTGの後に時折社長講話があるのだが、そのときに社長が「自分の文章を読み返すのが嫌なのであまり読み返さない人が多い」というようなことを喋っていた(と記憶している)。そのとき筆者はものすごく驚いたのである。あぁ、気合を入れて推敲する人って少数派なんだと。
筆者の場合は放っておくと変な自意識が出てしまって文章が読みにくくなる。だから冷静な時にスッと読めるかどうかを何度も確かめるのが習慣になっている。何度も読み返しているとリズムの悪いところや論理の一貫性がないところに気付く。だから直しては読み直し、また直しては読み直すのを何度かやっている。何万字書こうが必ず一度は読み返す。
一人でできる推敲には限度があるんじゃない? という指摘は尤もだし、何度読み返しても誤字脱字が残ることはある。それでも時間をおいて何度か読み返すことで質は上がると信じている。
具体的な方針については人によって文章のタイプが異なるので「こうすれば良い」というのは一概には言えないが、経験上は聴覚を大事にする派閥と視覚を大事にする派閥があるように感じている。筆者の場合は聴覚を大事にするタイプなので、脳内で音読して違和感のある文章は直すようにしている。ここで言う違和感には「文法的に正しいし意味も伝わるが語感やリズムが気持ち悪い」も含まれるため、視覚重視の友人とピアレビューをやるとけっこう意見が割れる。対して視覚派の人間は見た目の収まりの良さを基準にすると良いかもしれない。視覚的にも美しく語感的にも通りが良い文章を書ければ一番良いのだろうが、大抵の人間にそんな才能はないのでどちらか片方を目指せば良いと思う。
意識の話ではあるが、推敲を頑張る過程ではできるだけ他人目線で文章を読むようにする。そうすることで文章はより伝わるものになる。そして推敲の過程で自意識というクサみを抜くことで却って個性が味わえるようになるのだ。
なお、この過程には結構な時間がかかるため、速さが求められるビジネス文書では必ずしも上記の項目を満たせているわけではない。仕事の関係者各位には申し訳ありません。
苦しみについて考え続けて生き残ってしまったこと
推敲は大事だが、それだけで評価されるような内省力とか言語化能力に辿り着いているわけではないと思っている。もう一つ大事なのは苦しみについて考え続けた経験だと思う。苦しみについての話はパーソナルな話になるので有料部分で。
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