うつつの夢 第4話:長屋の井戸
あらすじ
リカが七歳の時の友だち、マキちゃんの家には古井戸が有りました。近づくと、マキちゃんのお祖母さんが鬼が出る井戸だと脅かされます。本当に?
これはリカ(作者)の実体験をもとに物語にしております。
リカは物心ついた頃から幽霊や妖精、妖怪、神獣と出会います。一方的に何かを語られたり、時には会話をしたり、時には神隠しに遭っていたりと様々です。リカのうつつのような夢話、どうぞお聞きください。
これは、リカが七歳の時の出来事です。
リカの家は、車一台が通れる四つ辻の角に有る木造三階建ての一軒家で、大学生を対象にした下宿屋と駄菓子屋を営んでいました。
リカの家の西隣には、昭和初期に建てられた三軒長屋が、三棟連なってありました。
リカは小学校から帰ると、隣の一棟目の長屋に住む、マキちゃんとよく遊びました。
マキちゃんは、歩行に介助が必要なお祖母ちゃんと二人暮らしのため、遊び場はいつも彼女の家の玄関先でした。
マキちゃんのお祖母ちゃん……リカはマキバアと呼んでいます……は玄関の引き戸を解放して、三畳ほどの土間の上り框(かまち)に座っていました。土間には台所があり、その横には生活用水を汲む釣瓶(つるべ)井戸がありました。
長屋は軒先が長く、南を向いているにも関わらず、晴天の日も玄関の中は真っ暗です。その奥に黙って座るマキバアは、白い寝間着姿も相(あい)まって、まるで幽霊のようでした。
遊んでいる最中、リカは自宅のお店から持ち出して来た黒砂糖の駄菓子を、マキちゃんにあげました。そして、マキバアにもあげようと思い、玄関の敷居を跨ごうとした時です。
「そこ、入らんの」
マキバアの鋭い声で立ち止まりました。
「今、井戸の蓋を表に干しとる。子供がかやり(転げ)でもしたら井戸に落ちるけえ」
すると、マキちゃんが玄関横に干してあった蓋を井戸に被せて、リカから黒砂糖の駄菓子を受け取り、マキバアに持って行きました。
「リカちゃん、ありがとうねぇ」
マキバアはさっきまでの鋭い声と変わり、拝むように優しい声でお礼を言いました。
夕暮れに差し掛かった頃です。
「夕餉の支度するけえ、早う去にんさい」
マキバアはそう言って、釣瓶の縄を井戸に垂らして何度も水を汲んでは釜や鍋に水を注ぎました。井戸はかなり深そうです。
「もうすこしマキちゃんとあそんでかえる」
リカは遊び足りず、帰るのを渋りました。
「暗うなったら井戸から鬼が出るよ」
マキバアが普段は言わないことを言ってリカを脅かしました。
「子供を引きずり込んで地獄に連れてくけえ」
「オニがでるいどの水でごはんつくるん?」
リカはマキバアの言ったことに、びっくりして訊き返しました。
「ひゃひゃひゃ、面白い事を言う子じゃねえ」
マキバアがお道化た笑い声を立てました。
「じゃが、もう去にんさい」
マキバアの笑い顔がとても恐ろしく見えました。リカはふと、マキバアが鬼に見えてしまい、どっと恐怖が押し寄せ体が動かなくなりました。
「リカちゃん、さよなら」
マキちゃんが家に入り玄関を締めたので、リカはようやく解放されて家路に着きました。
日が落ちて怖さが増したせいか、たった十数歩の道のりが、とても長く感じました。
翌日、リカは昨日のことをひきずりつつも、マキちゃんの家に遊びに行きました。
いつものように解放された玄関前に着いたのですが、マキちゃんとマキバアの姿がありません。しばらく待ちましたが、すぐにしびれを切らしてしまいました。
「マキちゃーん」
呼んでも返事がありません。
リカは、玄関の敷居を跨ぎました。
暗い土間に立ったその瞬間、異様なほど釣瓶の井戸が気になりました。
目の前に井戸があります……怖い。蓋を閉じていますが深そうです……怖い。釣瓶の縄が妙に赤黒いです……怖い。マキバアは夜になると、井戸の中から鬼が出ると言いました……怖い。リカは自分頭の中で、どんどん恐怖を膨らませてしまいました。
リカは沈み込むほど暗い土間の中から、井戸を背にして玄関の外を見みました。そこは白飛びするほどの明るさです。
いつもは人通りがある歩道ですが、今は誰も通りません。静まり返ったこの明暗の世界に、リカだけが存在しているようです。
ガタン……突然、背後で音がしました。すぐに井戸の蓋が動いた音だと思いました。
すると、井戸の蓋が少しずれていて、隙間から釣瓶の縄が井戸の中に垂れていました。 さっきはちゃんとしまっていた蓋が開いている。リカの思考が凍り付きます。
ギシ……ギシ……。突然、縄を掴んで何かが上がって来るような音が聞こえてきました。ギシ……ギシ……ガタ……ガタ……。ギシ。
「マキちゃーん」
リカは暗い土間の、上がり框の奥に呼びかけました。もちろん返事は有りません。
音はギシ……ギシ……と縄を井戸の縁に擦り、蓋をガタ……ガタ……と震わせながら、だんだん上がって来るのです。
ギシ……ギシ、ギシ、ガタン!
「わあああああ!」
リカは、絶叫しながら玄関から飛び出しました。そして勢い余って歩道に転倒した瞬間、暗闇地獄に落ちたのです。
気が付くと常夜灯の光に照らされる天井が見えました。リカは布団に横たわっています。右隣で弟の寝息が耳障りに聞こえて来て、リカは夢から覚めたのだと安堵しました。
翌日、リカはいつも通り、マキちゃんの家に行きました。
「え……?」
リカは目を見開きました。三軒長屋全棟の玄関が板で封鎖されて、人が住んでいる気配が無いのです。ただ、マキちゃんの家の板だけ一部壊れて、玄関の中が少しだけ見えます。
リカは、いつも遊ぶ玄関先に近づいて、周囲を見渡しました。
すると、一昨日の痕跡として駄菓子の包み紙が、軒先に落ちていました。ただ、何故かとても古くてボロボロなのです。
リカはそれ以降、マキちゃんとマキバアには会っていません。
リカが十歳になる頃、長屋は一階にモダンなショップが並ぶ五階建てのアパートに建て替わりました。
そのアパートも時と共に古めかしくなった今、マキちゃんとマキバアの顔や姿は朧気になりました。ただ、あの釣瓶井戸の記憶だけが歳を重ねるごとに鮮明になるのです。
苔生してじめじめした石組みの井筒。ところどころ赤黒く汚れた釣瓶の縄。子供が落ちないようにとの配慮で丸くて重い安全蓋。
けれどリカは、釣瓶井戸を時代劇のテレビ番組で覚えているだけだと落ち着けることにしました。
何故なら、長屋は終戦後すぐに水道が普及しており、リカが生まれる以前に玄関の井戸は、全棟撤去されていたからです。
(おわり)
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