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うつつの夢 第5話:祖父の煙草

あらすじ
リカが二十三歳の時に始めた仕事で訪れる場所は不気味なことがよく起こる町でした。祖母は祖父の煙草を持たせようとするのですが、その理由は?
これはリカ(作者)の実体験をもとに物語にしております。
リカは物心ついた頃から幽霊や妖精、妖怪、神獣と出会います。一方的に何かを語られたり、時には会話をしたり、時には神隠しに遭っていたりと様々です。リカのうつつのような夢話、どうぞお聞きください。

 これは、リカが二十三歳の時の出来事です。
「そこにお祖父ちゃんの煙草があるじゃろ」
 リカが出勤のため玄関で靴を履いていると、床の間のある和室から病床の祖母の声がしました。靴箱の上を見ると、普段は金魚鉢が置いてある場所に祖父の未開封の煙草が一箱と、何度目かの禁煙を始めた父のライターが置いてありました。祖母の看病をしている母が、祖母に頼まれ置いたようです。
 祖母の声は続きました。
「仕事のお守りじゃけ、持って行きんさい」
 リカは学校卒業後、バブル経済崩壊の影響で就職の縁がなく、一時期ですが小学生対象の教材を訪問販売する営業職に就きました。
 人見知りで口下手のリカには過酷な仕事です。問題集や参考書などの重たい教材を抱えながら徒歩で家々を回り、門前払いを受ける事は当然ながら、時には犬……それも大型の猟犬タイプをけしかけられる事もあるからです。しかも、リカの担当区域は山を整地して出来た新興住宅街で、稀に熊や猪が出没するニュースが流れる場所です。頑張ってひと月勤めていますが、睡眠不足の疲労が目に見えて判るので、家族を心配させたのでしょう。
「獣は煙草の煙を嫌うけえ」
 リカは煙草がなぜお守りなのか理屈を聞いて納得しました。しかし、祖母のそのセンスに苦笑しながら、煙草をそのままにして家を出ました。
 リカが担当区域に到着し、坂道を上り始めてすぐの事です。奇妙なことが起こったのです。とある一軒家が所有するガレージに、一台の車が停まっていました。傍には車を洗っている青い繋ぎ姿の男性もいました。よく見ると、その男性の姿は透けていて、向こうの景色が見えるのです。リカは目を丸くして息を飲みました。男性は車に集中していて、リカの視線に気付いていません。リカは気付かれてはいけないと頭の中で警鐘を鳴らし、男性を刺激しないよう、静かに坂道を上り出しました。
 暫くすると突然、坂道を上る足が動かなくなりました。疲れてしまったわけではありません。何度も足を動かそうとしましたが、上らなくてはいけないと思う頭と、ぜったい動かないという足がせめぎ合っているみたいです。困惑しながら周りを見ると、リカの右側の道沿いに道祖神像が祀られていました。どうやらここから先は何か結界が有るようです。リカはその道祖神像より先に行くのが怖くなり、仕方なく坂道を引き返しました。下ることには素直に足が動きます。とは言え、今日の飛び込みノルマがあと五件有ります。リカは下り坂の途中で横道に入り、ノルマ分を凌ごうとしました。
 リカは、訪問対象の家のドアベルを鳴らし、研修通り相手の返事を待たずドアノブをガチャガチャと回しました。この行為が嫌いなリカは、どうかドアが開かないでほしいと願いましたが、幸か不幸か鍵が開いていました。
「あの、ごめんくださ……、……!」
 ゆっくりとドアの隙間から顔を入れると、リカは息を飲みました。玄関ホールの吹き抜けに、般若の面を被ってゆらゆらと浮いている女性の姿が目に飛び込んだのです。リカはすぐにドアを閉めました。しかし落ち着いて考えてみると、それは有り得ない光景なので絶対見間違いです。
 しかし、もう一度ドアを開ける勇気は有りませんでした。
「訪問ノルマ、どうしよう……」
 結局リカは、住宅街の中腹にある広場のベンチに座って、帰社予定時刻いっぱいまでの時間をやり過ごすことにしました。
 公園の街灯が点き始めた頃、腕時計を見ると午後七時半です。リカは重たい教材を抱えながら坂を下り始めました。
 奇妙なことは続きます。普段なら三〇分くらいで麓の最寄り駅に着くのですが、今日は三十分以上歩いても辿り着きません。道を間違えたのかなとも思いましたが、ひと月ほど歩き慣れた道です。メイン道路は覚えています。
 更に坂道を下っていると、昼間見た道祖神像に出くわしました。
「あれ?」
リカは疑問に思いました。昼間に道祖神像より上の坂を上らなかったのに、なぜ下り坂の途中で道祖神像に行き当たるのか。
「……あ、いや、勘違いだよ」
 リカは、よく似た道祖神像が祀られているだけ、と言い聞かせて再び下り始めました。しかし、また道祖神像に行き当たります。
「……会社に連絡しよう」
 当時は個人電話を携帯する人が少ない時代です。見回して電話ボックスを探しましたが見当たりません。そのためどこかの住宅で電話を借りようかと思ったのですが、家々に灯がついていないことに今更気が付きました。しかも、ここに着いてから一度もちゃんと人らしい人に会っていないのです。腕時計を見ると七時半で止まっています。これではまるで異世界です。
 リカはゾッとして教材を投げ出して道に座り込みました。とにかく今は落ち着くことが先決です。夜道の街灯に、羽虫が力業のごとく集まっています。不思議と羽音は聞こえません。林立する住宅も静まり返っています。
 あまりに静かすぎるので感覚が研ぎ澄まされて、リカの周りに近づく気配に敏感になりそうでしたが、とくに誰も、動物も近づく気配は有りません。
 リカは目を瞑って項垂れました。こんな事なら、お婆ちゃんの言いつけ通りお守りを持って来れば良かった、と後悔しました。
 不意に、煙草の臭いが漂ってきました。
「……お祖父ちゃん……?」
 リカは辺りを見回しました。当然ですが、祖父がいるわけありません。ただ、リカの頭上で、街灯に照らされた白いもやが浮かんでいました。それはまるで煙のようにゆらゆらしています。
 もやはリカを誘うように、坂をゆっくりと下り始めました。リカは急いで教材を抱え、もやを追って坂道を下ります。ひたすらもやだけを見ていたせいか、リカはその後、道祖神像に遭遇しませんでした。
 気が付くとリカは、住宅街の最寄り駅の待合席に座っていました。一瞬状況が理解できずに周囲を見回すと、改札を出入りする人の姿を捉えることが出来たのでようやく落ち着きました。そして、そのまま視線を移動させて駅の時計を見て驚きました。一時間以上は歩いていたはずですが、駅の時計を見ると午後八時前。三十分にも満たない時間だったからです。疲労からなのか、先ほどの体験が朧気になってきて、全て夢だったかのようです。
 会社に退職を願い出て帰宅後、リカは玄関の靴箱の上を見ました。そこには金魚鉢が置いてあり、祭りで掬った金魚が二尾泳いでいました。祖父の煙草はどこにも有りません。
「お帰り」
 床の間の部屋から祖母と母の声がしました。部屋に入ると、祖母は敷布団の上で横になり、母が祖母に掛け布団を掛けていました。
「惜しかったねえ。さっきまでお爺ちゃんが居ったんよ。会いたかったじゃろう」
 そう言った祖母の周りで祖父の煙草の臭いがしましたが、煙草は何処にもありません。
 母が苦笑を浮かべて祖母の話に合わせるようにと、リカに目配せをしました。リカは察して頷きます。
「うちの所にもお祖父ちゃん、来たよ」
 リカが祖母にそう言うと、祖母は満足そうに眼を閉じました。母がそれを見届けて一仕事を終えた顔で台所へ向かいました。
 リカは、横になった祖母の頭上にある仏壇に目を向けて、静かに手を合わせました。
 それからふと、先祖の遺影が並ぶ鴨居に顔を向けると、祖父の遺影が笑っているように見えたので、リカは祖父に笑顔を返しました。
(おわり)

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第6話はこちらです。

第7話はこちらです。

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