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短編小説「for others 私の私は誰のため」第4話

【あなたのなりたい自分を明確にイメージすることが大事です。ゴールが見えない人生はスタートしようがありません。あなたは10年後、5年後、1年後、明日、どうなっていたいですか】

相撲中継に夢中の母の横で、私は本を読みふける。

リビングの扉が開き、由佳が入ってくる。

「ただいまー。あれ、お姉ちゃん。早かったね。デートは?」

「あ、うん、早く終わって」

と、由佳は手元から本をぱっと取り上げる。

「なにこれ? わがまま力? 思い通りの人生? どうしたのお姉ちゃん? だいじょうぶ?」

「ちょっとやめて。どうもしないよ」

憮然と取り返す。

「由佳、よしなさい。バカみたいに」と母が振り返った。

「だって、お姉ちゃんが、怪しい宗教にはまろうとしてるから」

「そんなんじゃないって」

由佳は向かいのイスにどっかりと腰を下ろし、「だいたいさ、自己中心的になろうなんて、お姉ちゃんらしくないよ。お姉ちゃんは”for others”の人でしょう?」と鼻の穴を広げた。妹が何かを主張するときのクセだ。

“for others”とは私が卒業した聖愛学園の校訓だ。

私が7歳、妹が3歳の時に、母は離婚した。母は働きながら私たちを育てた。私は母の希望もあって中学受験をし、中高6年間を聖愛学園で過ごした。

“他者のための人”を校訓とする聖愛は、ミッション系ながらスノッブなところがない中流私立で、とても居心地がよかった。友達にも恵まれたが、私はそのままエスカレーターで進学はせず高校を卒業し、地元のスーパーに就職した。妹の学費のことを考えてのことだった。

母は「気にするな」と言ってくれたが、その頃ちょうど、母がちょっとした詐欺にひっかかり、大きなお金を失っていたことを知っていた。

母のため、妹のため、進学を諦めたその選択は当時の私にとって、ごく自然なことだったし、いまでも後悔はしてない。

それでも、たまに思い出すことはある。あのときもし、大学に行きたいって主張していたら。

「お姉ちゃんは変わらずそのままでいいんだよ。優しくていい人。貴志くんもそういうお姉ちゃんが好きなんだし」

「だから、そんなんじゃ」と言いかけたら、母がテレビを見たまま「由佳、うるさい」と冷たい声を放った。

「はーい」とふてくされるでもなく由佳がリビングを去ると、母は振り返り、私の顔をまじまじと眺めた。

「美香」

優しい声だ。母は私のことを必ず「美香」と呼ぶ。由佳の前でも「お姉ちゃん」と呼んだことは一度もない。

「貴志くんとなにかあった?」

「ううん、平気」

「何かあったら話してよね」

「ありがと」

母は何か言い足りないような顔で、

「あと、やりたいことがあったら、がまんしないでやるのよ」と付け足した。

「うん」

「美香は昔から自分を抑えすぎるから心配で。“for others”は冗談としても、たまにはわがままになりなさいよ」

涙ぐみかけた私は、「なんかこの人と同じ事言ってる」とごまかした。本を両手で持って表紙を見せる。

「あらそう? その人、いいセンスしてるじゃない。面白いの?」

「有名な女性起業家が書いた本で、結構意識高い系。あと、この人聖愛出身らしくて」

「へー」

「もう3回も読んじゃった、へへ」

「読み過ぎじゃない?」笑って、相撲中継に目を戻す。

しおり代わりに使っていたセミナーのチラシを眺める。日付は来月だ。「川崎加穂子が思い通りに人生を設計する力を授けます。この1日であなたの生き方は180度変わる」と書かれている。

美香はどうしたいの? お姉ちゃんはそのままでいい。わがままになりなさい……。

「よし! 決めた!」

大きめの声で独り言を言うと、

「美香、うるさい」母が振り返りもせずに言うので首をすくめた。

〈続く〉


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茉野いおた
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