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認識の差異はなぜ起こるか

 仮に、いまここに球体が三つあるものとします。右のものが赤、真ん中のものは白、左のものが青であるとします。イメージは出来ますでしょうか。右から見て赤い球、白い球、青い球と列んでいます。
 さて、では、あなたと向かい合い立つ人間から見たとき、その人間にとっての右の球は何色でしょうか。正解は青です。あなたと向かい合い立つ人間の視点から捉えると、右から見ると青い球、真ん中に白い球、左に赤い球となるはずです。

 このとき、あなたとあなたと向かい合い立つ人間とが認識のすり合わせを試みるものとします。するとおそらく、あなたは右の球は赤い色だと主張し、相手は青だとするでしょう。

 多くの場合、このパターンでのすり合わせをしようと試みるも、認識の合致が得られずに決裂するという場面が展開されます。なんならどちらの認識のほうが正しいだの誤りだのという衝突にすら発展してしまう事も少なくないです。 

 では、こういう認識のズレはなぜ生じてしまうのでしょうか。結論はしごくシンプルで、その認識をはじき出す際に働く視点が個々人により異なるためです。
 例えばここで「自分と向きあっているのだから、相手にとっての右はどちらになるか」といったような意識を持てているならば、上記事例のようなズレが展開される可能性は低くなるはずなのです。が、多くの場合、自分が有する視点に関する認識のみを捉えて考える傾向が強く働くようです。結果としての衝突はひどく不毛なもので、じつに時間や労力などを無為にしてしまう無駄なものとなり得てしまうわけです。
 こういった展開を避けるために必要となるものは何でしょうか? 答えは複数の可能性を視野にいれていくようにする、といったものとなるかと思われます。

 例えば上記事例の場合、左右の色は異なっても真ん中の色は共通となるはずです。また、左右の色がそれぞれに入れ違いになっているように思えたとしても、結果として「赤」と「青」があるといった内容も共通しているはずです。よって要となるのは「認識の差異」ではなく「そこに存在するものの特徴」となるはずなのです。
 
 例えば霊的なものを認識した際、わたしの目には黒い毛並みに赤い双眸の大型犬が視えたと仮定します。しかし別の人間が同じものを認識した際に視えた姿はえも言われぬ超絶美形であったとします。この時点ですでにズレは生じているように思われます。実際、双方は別のものである(それぞれに別のものを視認している)と結論付けていく人も少なくありません。
 しかし、例えばもしもその超絶美形が黒髪で赤い花を髪に挿していたとするならばどうでしょう。あるいは黒髪に赤いドレスを着ているとしたならばどうでしょうか。共通項が発生してはいないでしょうか。
 一見するとまったく異なる姿形をしているものでも、そのものが有する特徴が共通しているということは往々にして存在します。

 可能性は一つとは限らないのです。逆に考えるならば、いくつもの情報を持ちよりすり合わせていくことで、より多角的かつ立体的な結論をはじき出すことが出来るとも言えます。これは認識する対象の本質をより確かなものとして把握していけるようになる事にもなります。

 これらは霊的なものに限った話ではなく、日常におけるものとしても有効な意識向きであろうかと思います。情報は多いほうがより有効となるはずです。それを得るためにも、あらゆる可能性を考慮した上での観察や意識向きは必要となるかと思われます。




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