「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」 ~古帳庵・鈴木金兵衛~
"とっぱずれ"の銚子
とっぱずれ -- 関東平野の東端に突き出た位置にある銚子を表すのに,ぴったりの言葉です。
この言葉は,銚子を代表する有名な俳句「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」に由来しています。
越生出身の豪商・古帳庵
この句を詠んだ人物である古帳庵(こちょうあん)が,なかなか謎に満ちています。
古帳庵の句碑が銚子の圓福寺にあります。
大仏や五重塔がある飯沼観音の境内ではなく,道を挟んだ向かいの本坊のある境内のほうです。
建立は天保十二年,1841年です。
当初,銚子の人々にとって,この古帳庵という人物の情報は,「江戸・小網町の豪商・鈴木金兵衛である」ということのほかに何もありませんでした。
江戸の小網町の町割りを見ても鈴木金兵衛の名前は見当たらず,本当に豪商だったのかも疑問だったようです(前掲関根25頁)。
ところが1985(昭和60)年,NHK朝の連続テレビ小説「澪つくし」の放映によって,事態が動き始めます。
ドラマの冒頭でこの句が出てきたことに,埼玉県・越生(おごせ)町の新井良輔氏は「はっと胸を突かれる思い」を覚えました。
その句を詠んだ古帳庵は越生の出身で,町内にも多くの句碑や巡礼碑を残していた人物だったからです。
しかしその当時は,越生においてさえも,古帳庵については「越生の生まれで,江戸小網町で成功した人」程度の情報しかありませんでした。
そしてそこから調査が始まり,この人物の輪郭が少しずつ見えてきたのです(埼玉県入間郡越生町教育委員会「越生叢書5 増補改訂版 古帳庵鈴木金兵衛をめぐって」3頁)。
豪商と言われながら記録がなく,職業すら不明だった古帳庵。
越生町の調査で,古紙回収業を営んでいたのだろうと分かってきました。
ある家から,「江戸箱崎町一丁目 ふる帳類買入所 鈴木金兵衛」と書かれた物が発見されたのです。それは,業者が得意先に年末年始に配る名入りカレンダーのように,古帳庵が販促資材として取引先に配布したと思われる,潮暦測定板でした(前掲越生叢書12頁。箱崎町と小網町は橋で結ばれていました。同14頁)
古帳庵は一般的に「こちょうあん」と呼ばれていますが,この資料からすると「ふるちょうあん」と読むべきなのかもしれません。
当時の豪商たちは,必ずと言って良いほど俳諧を嗜んでいました。
新井良輔氏は,「元来商人であった古帳庵にとって,俳句は趣味の域を出なかったのではなかろうか」,「古帳庵は,財を成した後,何らかの原因で商いの道を捨て,全国の霊山霊場を回る六十六部となり,その趣味を生かして,昔取引をした各地の商人と交際したものであろう」と分析しています(前掲越生叢書3頁)。
全国を渡り歩いた古帳庵は,越生や銚子のみならず,東京の王子稲荷や世田谷浄真寺,神奈川の江ノ島,香川の金刀比羅宮,三重の伊勢路・宇治岳道など,あちらこちらに句碑を残しています。
また古帳庵は,越生の五大尊境内に,四国八十八箇所霊場と西国・板東・秩父百観音霊場の写し霊場の完成を目指していました。
そこに建てられた多くの巡礼碑(札所写)を見ると,江戸商人を中心に400人以上もの人々から建立費拠出の協力を得ていたことがわかります。
豊かな財力と広い交際関係が窺われる古帳庵ですが,彼について第三者が残した記録は,唯一,銚子にしか残っていません。
それが,ヒゲタ醤油の田中玄蕃(げんば)家歴代当主が61年間にわたって銚子の出来事を詳細に記録した玄蕃日記です。
1839年と,10年後の1849年に,古帳庵が田中玄蕃のもとを訪れたことが記されています。
古帳庵と田中玄蕃の繋がりは,来銚から2年後の圓福寺の句碑建立や,10年後の再訪・再会だけではありません。
先ほど書いたように,古帳庵は,越生の五大尊境内に写し霊場の完成を目指していました。そこに建てられた板東二七番札所・圓福寺の巡礼碑にも,協力者として田中玄蕃の名前が見られます。
山里の越生と海辺の銚子が江戸時代にこうして繋がっていたことが,とても面白いですね。
古帳庵が作っていた写し霊場は,巡礼碑188基(四国88基+西国・板東・秩父100基)のうち104基を建てたところで,何らかの事情により中断してしまい,完成には至りませんでした。
越生町は2017(平成29)年,五大尊つつじ公園内に巡礼碑84基を補完して,古帳庵の悲願だった写し霊場の完成を実現させました。
古帳女という人物
古帳庵だけでなく,古帳女という人物もなかなか謎です。
圓福寺のものをはじめ多くの句碑に,古帳庵と共に古帳女の名があります。
普通に考えれば夫婦であろうと推測されますが,玄蕃日記には古帳女の記述がなく,本当に同行していたのか判然としません。
越生叢書は,古帳庵の句と古帳女の句が同じ鈴木金兵衛の作と考えられると分析し,古帳庵の句碑が文学碑というよりも供養塔の性格が強いことから,古帳女が既に世を去った故人であるとも考えられると指摘しています(4頁,27頁,40頁)。
圓福寺の句碑に古帳女の作として記されている「行き戻り 瓢を冷やす 清水かな」の句は,古帳庵が尊敬し模範としていた松尾芭蕉のことが確実に意識されています。
玄蕃日記にある通り,銚子を訪れた古帳庵は,長四郎に案内されて清水台(今の銚子電鉄本銚子駅付近)に立ち寄りました。
当時,清水台には有名な井戸があり,かつてその場所で芭蕉が「旅人の 瓢をひたす 清水かな」という句を詠んだ,という言い伝えがありました。
古帳庵もその言い伝えを聞いたに違いありません。
なお,その芭蕉の言い伝えは海上郡誌にも記載があるものの,実際は芭蕉は銚子には来ていないというのが現在では定説です(前掲関根29頁)。
下総名勝図絵「清水の井戸」
季語・ほととぎす
「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」の句は,「とっぱずれ」に目が行きがちですが,「ほととぎす」という季語にも注目したいところです。
ホトトギスの漢字表記は,様々な字が充てられます。
その一つに,夏を告げる鳥として時鳥があります。
織田信長,豊臣秀吉,徳川家康がそれぞれ「鳴かぬなら…」と詠んだとされるように,ホトトギスは昔から,人々が初音を待ちわびる鳥として親しまれてきました(夏井いつき「夏井いつきの『時鳥(ほととぎす)』の歳時記」73頁)。
ホトトギスは,木のてっぺんなど見晴らしの良い場所で,大きな声で鳴きます。
その声は,テッペンカケタカ(天辺翔けたか),トッキョキョカキョク(特許許可局)などと聞きなします。
俳句に全く詳しくない私は,古帳庵の句を,清水台から眺めた先端・銚子の広大な川と海と空にホトトギスが木のてっぺんから夏の訪れを大きな声で響かせている,晴れやか・爽やかなイメージで受け止めていました。
下総名勝図絵「清水台ヨリ川口眺望図」
しかし,古帳庵の句の「ほととぎす」には,別の受け止め方もありそうです。
ホトトギスは,別の漢字で蜀魂や杜宇という字も充てられます。
古代中国の蜀で,王の杜宇(とう)が去る際にホトトギスが鳴いていたことから,蜀の人々がホトトギスの声を聞くと杜宇を偲んで悲しんだ,という伝説が,歴史書「蜀王本紀」にあります。
そこから,ホトトギスは懐古の情を呼び起こすものとして,日本に伝わりました(前掲夏井75頁)。
そして古帳庵が尊敬し模範としていた芭蕉も,ホトトギスを詠んだ句を多く残しています。
そのうちの一つ「郭公(ほととぎす) 声横たふや 水の上」の句も,甥の桃印を亡くした悲しみから生まれたものでした。
郷土歴史家の関根省吾氏は,古帳庵の句に次のような解釈の可能性を提示しています。
今なお銚子に広く知られる「とっぱずれ」の句を残した,謎多き古帳庵。
その古帳庵と同じように日本国中を旅して回る私も,何か素敵なとっぱずれたものを後世に残したいと思っています。
【追記】 とっぱずれのロンド
この記事を書くにあたり「とっぱずれ」について調べていたところ,「とっぱずれのロンド」というまんがを発見しました(原案:ジョルディ波方,漫画:高田桂)。
プロサッカーチーム「銚子イーストエンドFC」のフットボールダイレクターの物語です。
この主人公に「とっぱずれ」というワードがまさにぴったりで,銚子と世界中を舞台にして進んでいく駆け引きにぐいぐいと惹きこまれます。
とても面白いまんがですので,皆さんもぜひご覧ください。