銚子の先端・外川 ~崎山治郎右衛門が作った港と街~
銚子電鉄の終着駅,外川(とかわ)。
1923(大正12)年から使われ続けている木造の駅舎は,とても風情があります。
駅から先に進んでゆくと,さらに風情ある景色が現れます。
狭い路地が碁盤の目のように行き交い,石畳の急な下り坂の向こうに港が見える漁師町です。
水揚量日本一を誇る銚子の漁業は,現在では利根川河口の銚子漁港が中心ですが,じつはそれよりも先にここ外川で江戸時代初期に港が開かれ,街も計画的に作られて,非常に栄えていたのです。
外川の港と街を作った人は,崎山治郎右衛門(さきやま・じろうえもん)です。
(「大納屋治郎右衛門」,「崎山次郎右衛門」と表記されることもあるようです。)
私の入梅いわしの記事に書いたように,江戸時代には,肥料にするためのいわしを求めて,関西,特に紀州和歌山から人々が銚子にやってきていました。
紀州は山がちで農業が難しく,他方で古くから航海術や船造りや漁業が発達していました。文禄・慶長年間(1600年前後)頃までは,紀州から遠くまで漁に出かけて帰ってくるという「旅漁」が中心でしたが,次第に,いわしが大漁の房総半島に移り住む人も出てきました(中島悠子「銚子漁港の『みなと文化』13頁)。
治郎右衛門も,そのように紀州から移り住んだうちの一人でした。
春に房総にやって来て秋に紀州に帰る漁をしていた治郎右衛門は,海難に遭った際に銚子の人々に助けられ,その恩返しのために1656(明暦2)年に銚子の飯沼村に移り住んで,いわし漁を始めました。
そして,飯沼村から外川に移った治郎右衛門は,私財を投げ打って,1658(万治元)年に本浦,1661(寛文元)年に新浦と,2回にわたって外川に港を造り,さらに1667(寛文7)年に碁盤目状の街づくりを完成させました(江畑好治「大納屋治郎右衛門外川港記」)。
外川の港は,1932(大正11)年の改修まで一度も手を加える必要がなかったほど,非常に堅固に作られていました。
また,外川の街は,港から丘の上の畑や干鰯場に通じる石畳の産業道路と,住民が普段使う生活道路とが碁盤の目状に配置され,下水溝も整備されるなど,きちんとした計画のもとに作られていました(前掲中島25頁)。
治郎右衛門は,故郷紀州から多くの漁業者や商工業者を外川に呼び寄せました。街は非常に栄え,その盛況ぶりは「外川千軒大繁昌」と語り継がれています。
外川の大杉神社の境内には,治郎右衛門の偉業をたたえた碑があります。
1983(昭和58)年に建立されたこの碑の土台には,外川漁港の築港時に堤防に用いられた石が使われています。
外川には8本の坂道があり,それぞれに名前が付けられています。
漁船の出入りを確認できるように,すべての坂から漁港が見下ろせるように造られているのだそうです。
外川駅のすぐ近くに,外川ミニ郷土資料館があります。
2007(平成19)年に地元有志の方々によって作られた,しかも無料で入館できる,私設の資料館です。
館長は,外川で100年以上水産業を営んでいる「〆印島長水産」の,島田泰枝さんです。外川の歴史と人々の暮らしぶりを,島田館長が詳しく説明してくださいます。
私は2008(平成20)年から何度もこの資料館を訪れていますが,島田館長の変わらないパワフルな郷土愛にはいつも圧倒され,そして元気をもらえます。
外川を訪れた際には,まずこの資料館で歴史に触れてから,ゆっくりと今の街並みを散策してみてください。
旅の思い出が深まること,まちがいありません。