日比友愛の碑
私が地球上で一番好きな場所,銚子の地球の丸く見える丘展望館のすぐ隣に,日比友愛の碑があります。
展望館ができたのは1988(昭和63)年,友愛の碑が建てられたのはその30年も前の1958(昭和33)年です。
碑の横の案内板の説明には,「第二次世界大戦中,不幸にして戦火を交えた日本とフィリピン両国の民族と民族が互いの恩讐をこえて,永く世界の平和を祈念するために,昭和33年6月に建てられたものです。この斜塔は友愛の浄火をかたどったもので,炎の先端は遠く洋上3000kmのフィリピン,マヨン山(マニラ富士と呼ばれています)に向かって建てられています」としか書かれていません。
碑の下をくぐると,内側に小説家・尾﨑士郎による撰文の銘板がありますが,読みづらく,この銘板の存在に気づく観光客もほとんどいません。
第二次世界大戦で日本とアメリカの決戦の地となったフィリピンでは,100万人ものフィリピン人と50万人以上の日本人が犠牲になりました。
アメリカの植民地だったフィリピンでは,独立の準備が進められていました。
1941年12月8日,真珠湾を奇襲攻撃した日本は,同じ日にフィリピンの米軍基地も攻撃し,1942年1月2日には首都マニラを占領します。
3月に一旦フィリピンを去ったマッカーサーは,「I shall return(私はフィリピンに帰るであろう)」という有名な言葉を発します。
その後,日本統治下のフィリピンでは,経済状況の悪化などから対日感情が悪化し,全土で抗日ゲリラ活動が展開します。
そして,1944年10月20日,マッカーサーはフィリピン中部のレイテ島の上陸侵攻作戦を開始しました。日本はこれに完敗します。
レイテ戦で戦友の遺体が漬かった水たまりの雨水を飲んで生き延びた元日本兵の話は,胸に重く響きます。https://www.tokyo-np.co.jp/article/46782
レイテ戦での日本の完敗は抗日ゲリラの活性化を生み,ゲリラに協力する市民も増えました。日本軍は多くのフィリピン市民を「抗日ゲリラとその協力者」として大量に殺害していきました。
1945年2月3日,アメリカ軍がマニラへの総攻撃を開始し,約1ヶ月かけて日本からマニラを奪還しました。このマニラ市街戦で10万人ものマニラ市民が犠牲になりました。その過半数は,日米の戦闘の巻き添えではなく,日本兵による殺害の犠牲者だったと言われています。
しかし,なぜ銚子にこの碑があるのか。
図書館で銚子市史を確認すると,こう説明がありました。
歴史的な理由ではなく,地理的な理由で銚子の地が選ばれたようです。
しかし,フィリピンでの戦争は銚子と無関係ではありません。
銚子市史の別の箇所を見ると,「レイテ島の地上決戦は,銚子市民にとっては,単に太平洋戦争の一齣(こま)で済まされる戦いではなかった。そこでは多くの市民の血が流されたのである」とあります(「続銚子市史Ⅰ 昭和前期」471頁)。
この頃にはいわゆる「郷土部隊」と呼ばれるものはほとんどなくなり,各県の出身者の混成部隊になっていたのですが,このレイテ島の決戦のときには,千葉の佐倉を原隊とする郷土部隊(歩兵第五十七連隊)が派遣されており,ここに銚子市出身者が多くいたのです。
当初2500人いた連隊の人員は,降伏時にわずか130人あまりになっていて,この膨大な犠牲者の中には145人もの銚子市出身者が含まれていました。
日本とフィリピンは1956(昭和31)年に国交を回復しました。
碑が建てられたのは,その2年後です。
そこからさらに65年もの年月が経った今,私たちがフィリピンでの戦争をきちんと振り返り,そして未来に活かすためにも,まずは来銚した方に「なぜ銚子にこの碑があるのだろう?」と不思議に感じてもらい,興味関心を持ってもらうことが大事だと思っています。
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