迷宮
これからここに書くことは、なにも先輩のことを告発するための文章ではなく、ましてや僕自身の懐古や韜晦のためのそれなどでも決してない。ただ、あの出来事がどうにも夢のようで、ことあるごとに脳裏に再臨するにも関わらず、その度にふわふわととらえどころがなく、つい一週間前のことだというのに、あたかも前世の記憶のごとく、遙か彼方の出来事の様に思われたり、或いはまだ起こってすらいない予知夢だったかのように思われたり、どうにも記憶を定型に保つのが難しいために、備忘録の意味も込めて、今保っているだけの、あるがままの記憶を記すに過ぎない。
もし二、三日のうちに、僕が紊乱の風を纏ってこの築十二年木造1Kの下宿の玄関を思い切り蹴破り、黒滔々たる闇へと永遠に出奔するようなことがあれば、この文章を辞世の句代わりにでも捉え、仏壇に遺骨代わりに飾ってもらっても良いし、遺書かダイイングメッセージの類だと信じて、警察で検証してもらっても構わない。そう言いつつもそんなことにはならないと気楽に信じ込んでいるし、こうして筆を進めつつも、これが来月にはまた僕の黒歴史を詰め込んだあの古ぼけた段ボール箱の中に厳重に封印される図が浮かんではいるのだが、万が一、億が一と言うこともある。
いわばこれは証言なのだ。
〇
その日は朝から風が吹いていた――まで書いたところで、なんの前触れもなく僕の肩に誰かの手が置かれた。振り向くと、首をほんの四十五度ほど回したところで唐突に、声の主の持つ伸び放題の髭と僕の肌とが直に触れ合った。髭に聞くまでもなく、声も掛けずに作業中の人間の肩に無造作に手を置き至近距離まで顔を寄せる人間を、僕は一人しか知らない。
「ありがちな文章だな」
恥ずかしげもなく人のPCをのぞき込み、表情一つ変えずにそう言い放つ先輩を見ながら、おや今日は珍しく矢絣模様の着流しだな、と僕は思う。
「先輩、四限はテストなんじゃ」
「そうだよ。でも、私は無駄なことはしない主義でね」
「出席回数ですか。四限ですけど」
「失敬だな。見え透いた結論を九十分、十五回もかけて説明されるほど、私は愚かではない、ということだよ。当局は学生を舐めている」
舐めているも何も、単位を取らなければそろそろ卒業も危ういだろうと思いつつ、特に言う意味もないその言葉を僕はそっと腹に収めた。僕に言われて単位を取るような人間であれば、法学部の六年生になどならないし、例年に比べて暖かいとはいえ、十一月も半ばを過ぎたこの時期に着流しで大学に来たりしない。あまつさえ、法学部棟から遠く離れたこの文学部のラウンジで週に二回も三回も会うようなことも当然あるまい。
「して、これは何のための文章だい。文学部も三年目になってようやくどこぞの新人賞にでも出す気になったか、あるいは風変わりなレポートか」
「課題ですよ。詩を書かないといけなくて」
「ほーう」
聴いているのかいないのか、先輩は特に手入れしているわけでもない中途半端な顎髭をおもむろに撫で始め、それっきりすっかり黙ってしまった。まだ一行しか書かれていない僕のPC画面を橋頭堡に、いったいどんな思索に耽っているか、或いはその向こうの先日塗り直したばかりのラウンジの白壁をただにやにやと見つめているだけなのか、それはよく分からない。しかしここでまた僕がキーボードに向かい、黙々と文章を錬成し始めると不機嫌になるということだけは、これまでの経験からなんとなくわかる。
先輩は、名を五十嵐寿朗という。聴いてもいないのに「いがらし」ではなく「いからし」だと、初対面の頃には顔を合わせる度に口酸っぱく言ってきたものだが、一度腹立ち紛れに宛名を「いからし寿朗」にして年賀状を送ったところ、新年早々「君は私を都知事選の泡沫候補か何かだと思っているのか」と真顔で聞いてきて、それ以降ぱったり名字の読みのことは言われなくなった。先輩が日頃「山本悠太」と書いてある学生証をおおっぴらに使っていることからすれば、もしかすると五十嵐は偽名という可能性もないではないのだが、反応を見るに年賀状は届いたのだろうし、そもそも学生証の方が偽物という可能性もあり、結論は出ない。かかる学生証の顔写真にしたところで、どうも先輩の顔とは違うような気もするものの、入学から五年六年も経てば顔も変わるだろうし、写真が裸眼なのに対して今では主張の強い黒縁の丸眼鏡だから、断定はほぼ不可能だ。そう考えると、法学部六年生というのことすら結局は先輩の自称でしかないが、それすら信じられなくなると、僕はいよいよ本当に一切素性の知れぬオッサンに大学生活の相当部分を割譲してしまっていることになり、僕の精神が致命的な一撃を食らってしまうから、それはひとまず信じることにしている。
少なくとも先輩は、髭の処理を除けば最低限の身なりは整えているし、僕がいなくとも大学には出入りしている訳で、外患誘致の廉で停学を食らうような行為を働いているわけでは決してない、ということだけは声高に主張しておく。先輩に犯罪めいた気配を感じたとすれば、先日二人で渋谷の飲み屋に行った際、「佐藤章一」という名義の古びた東京大学学生証を颯爽と店員に差し出し、裏に書かれた入学年度が一九九九年なのに気づいた店員に危うく警察に突き出されかけたその一度きりだけだ。
「……では行くか」
ゆうに五分はあったかという沈黙を破り、唐突に先輩がそう言った。
「何処にです」
「どこでもいい。風が吹いていた、というなら、川崎などどうだ」
はあ、とため息とも返事ともつかない音を口から生みながら、僕はまだ一行しか書いていないWordファイルを保存し、鞄に突っ込むとゆるゆると余裕を持って立ち上がった。何も僕が先輩に弱みを握られていて逆らえないから素直に着いていったのではない。ただ僕が先輩にある種の魅力を感じていて、ある一面に限って、勝手に師と慕っているからこその行動である。僕に弱みなどない。
「おーい」
白壁に囲まれたラウンジの出入口そばから、先輩が僕を呼ぶ。相変わらず妙な行動力だ。教科書と文献とPCその他によって即席的に構築されたおのおのの牙城から、各人が忌々しげに僕に凍った視線が送られるのを感じつつ、僕は努めて平静を装いながら先輩の元へ歩いた。先輩は僕がそうしている間中、二回吹き抜けのラウンジに響き渡る声量で僕を呼び、あまつさえ僕のフルネームまで、ややいたずらげに連呼するのだった。
〇
大学から川崎への道程はさほど難しくない。乗り換えは幾度か挟むがどれも単純なものだし、新宿から川崎までは東海道線に揺られていれば着く。問題は川崎からその先だが、先輩によれば、これもバスで存外すぐに着くということだった。詳しい行き先については要領を得ないながらも、平日午後の空いた車内で最初は和気藹々、周囲の奇異の目をまるで無視しながら先輩とそこそこ楽しく談笑していたものだったが、昼過ぎという時間帯にも関わらず品川で突然乗り込んできたどことなくやつれたオッサンどもの群れにより、僕と先輩は無残に引き離され、そのまま川崎へと運ばれる運びとなった。僕の家は川越だから、字面的には妙に親近感を覚えるが、実際に訪れるのは初めてだ。
やけに長く思える数分間がようやく過ぎて、ふしゅう、となんとも情けないような音を立ててドアが開く。新鮮な空気を鼻腔に感じて初めて、車内が加齢臭のデパートと化していたことに気づいた。数瞬の放心ののち、目の端に横切る黒眼鏡と着流し姿をなんとか捉え、慌ててその後に付いていく。先輩の家は玉川上水と聞いていたはずだが、人波をすいすいと滑るように抜け、濃紺の着流しの裾を翻して歩く姿はどう見ても川崎に慣れた手練れのそれで、何度も人にぶつかりかけてその背を追う僕との距離は広がっていく一方であった。
川崎駅のコンコースは巨大なT字型になっており、縦線と横線が交わる部分に丁度改札があって、そこから西口と東口に分かれていく、というような恰好である。横棒の部分だけでも幅が五十メートル、天井高も五メートルはあろうかという規模だからその巨大さたるや壮観だ。そこに満ち満ちた雑踏のど真ん中を、僕が着いてくるかを気にするでもなく悠然と透過していく先輩は、その服装も相まってか魑魅あるいは魍魎の類にしか見えず、視界に人が横切る度に、先輩が忽然と姿を消してはいまいか、ジャンガリアンハムスターの如くびくびくしきりだったことを、なんとなく覚えている。
やがて外に出て、ターミナル駅らしく曲がりくねった複雑なバスロータリーをしばらく進むと、先輩はまた唐突に立ち止まった。トラバサミに引っかかった獣よろしく、通り過ぎようとしたバス停の横で唐突なストップモーションを決めたのだ。そこでようやくこちらを振り向き、手を挙げてゆるく手招きをする。そこに至るまで僕が着いて来ているかを一度たりとも確認しなかった先輩であれば、黄泉国からイザナミを無事に連れ帰ることもできるかも知れない。
「目的地、結局川崎じゃないんですか」
「川崎とは言っても、川崎駅とは言っていないさ。ここはまだ川崎の入り口に過ぎない」
そう言うと、先輩は平然と僕にスマホの画面を見せてきた。あらかじめ用意されていたらしいGoogleマップが表示され、「川崎区」のところに赤く網がかかっている。現在地を示す青い丸は、その網の最も内陸側の境界線上に佇んでいた。
「いや、じゃあ川崎区とも言われてませんけど、結局何処行くんです?」
「千鳥運河」
言うなり、先輩は丁度乗り場に滑り込んできた路線バスに颯爽と乗り込み、慌てて続いた僕がICカードの残額不足でもたつくのも無視して、一人でさっさと一番奥の二人がけの席に陣取ってしまった。僕がやっとの思いで支払いを済ませ先輩の隣に収まったと同時に、二人しか乗っていない路線バスは、わずかにエアの反動を伴って発進した。
「で、千鳥運河ってなんです」
「なんだね君、最近よく工場夜景ツアーとかいう言葉を聞くだろう。あれだよ。知らない?」
「知らないですけど、とにかくまだまだ真昼ですよ」
「まあ、あれだ、夜の川崎は魔境ゆえにな。昼間だって魔境だが、夜に比べればだいぶマシだ。少なくとも死なない」
先輩はこちらも見ずにそう嘯くと、そこから延々と、ややわざとらしいくらいに気取ったテンションで、京浜工業地帯と夜景ツアーの魅力について早口に話し続けた。特段機械のオタクでもなければ工業マニアでもなかったはずだが、いつの間にそんなものに嵌まったのだろうか。しかしその口ぶりからするに、先輩もまだ夜の千鳥運河とやらには行ったことがないようだったし、ここ二、三日のうちに、急になにか天啓めいたものでも感じて、そうなったのかもしれなかった。
いずれにせよ、元々暇の盛りのような時期だったし、課題にも余裕があったから、口で何と言おうと今日のところは先輩に着いていく腹積もりではあったのだが。
「京浜工業地帯は今、日本で何番目の工業地帯だと思う?」
先輩が急に熱弁を切り上げ、おもむろにそう聞いてきた。
「何番目?」
「規模の話さ。製造品出荷額……とか、そういう」
その言葉は遠い昔に聞き覚えがあった。
「たしか、一番が愛知で、その次じゃありませんでしたか。小学校か中学校で聞いたような」
先輩は深く頷いた。
「そうそう、君が小学生か中学生だった時分には、そうだっただろう。もっと昔には一位だったこともある。でも今は三番目だ」
その得意げな様子をみると、僕は先輩の仕掛けた罠にまんまと引っかかったようだった。自分の無駄な記憶力と、更新の気配もないデータの怠慢に、顔が若干紅潮するのを感じる。
「何処に抜かれたんです?」
「神戸だよ。まあ今時、作ったモノの総額なんて言う指標で地域の価値が決まるものかとも思うがね」
先輩はそう言って、揺れるバスの細い窓の桟に器用に肘をついた。青い市営バスはいつしか、コンビニとオフィスと役所ばかりが並ぶ表通りを通り抜け、住宅と何らかの事業所を名乗る小さな建物とが複雑に入り交じる雑多な通りへと進入していた。
「昭和の東京オリンピックや、或いは大阪万博の頃には、此処こそが日本の成長拠点だったのだよ。この国の経済白書が、もはや戦後ではないと叫んだとき、その発言を編み出した糸の一本は、一切の相違なくこの辺りだった……遠い昔だがね」
それきり、先輩は黙ってしまった。僕の方を見るでもなしに、ただ窓の外をじっと眺めている。さりとて、何か特定のものを見ている訳でもないらしく、強いて言えば街全体を見ているかのようであった。周りを走る車が次第に大型車ばかりになり、人々の生活を映す家々が消え、道幅ばかりがいたずらに広がって行く。誰も降りず、誰も乗って来ない、僕たちのためだけに誂えられたようなバスは、ひたすらまっすぐ直進した。そして橋を一つ渡った瞬間、歩道沿いに巨大な銀の鉄パイプがうねるように設置されているのが見え、それとほぼ同時に、先輩の手がふらりと停車ボタンに伸びた。
「降りよう」
埃っぽい風が吹いている。何もない殺風景な場所だった。殺風景すぎると言っても良い。わずかな歩道の脇には、いやに道幅が広く何車線もある大通りが一本貫かれていて、トレーラーやらタンクローリーやら、そんな無機質な車ばかりが傍若無人なスピードで走り去っていく。牽引すべきコンテナを持たないトレーラーの頭だけが、嫌にぎらぎらとした装飾と牽引用の装置だけを抱えて走り去っていく様は、さながら巨大な髑髏が引きちぎられた脊髄を引きずって這っていくかのようで、いかにも気味の悪いものだった。
「さて、こっちだ」
先輩は呆然と佇む僕を一瞥すると、またもずんずんと歩いて行く。とぼとぼと擬音が付くような歩き方で後ろに付き、横断歩道を渡っていくが、それにしても先輩は十一月に着流し一枚で寒くないのだろうか。浴衣とろくに変わらなかろうに。
歩き始めて肌身に感じたが、冬にさしかかった陽の光はいかにも弱く低く、そのくせやたらと眩しかった。どうして此処に連れてこられたのか結局分からないままだが、海に相当近いのだろう、冷たい海風がぶうぶうと、整髪料の一滴も付いていない僕の髪を吹き乱した。やたらとこちらの目を眩ますばかりでまったくフジツボほどの役にも立たない、そんな空に浮かぶ寂しげな光の球に照らされて、工場の塀やアスファルトの継ぎ目に伸び放題の白粉花が寂しく揺れた。見渡せば工場らしき敷地ばかりが目に入り、しきりに行き来する物流トラックにでも轢かれたのか、粉々に砕かれた白粉花の種が道端に点々と、霜にも似た無垢な汚れを生み出していた。
「詩を書くなら、人智を越えた何かに立ち会うのも悪くはなかろう。私の先輩もそう言っていた。或いは恋をするのもね」
先輩がまた前触れもなくそう言った。
「……その先輩は文学部ですか」
「人を学部で判断するのはどうかと、私は思うが。たしか、理学部数学科だったと記憶しているけどね」
「数学ですか」
「うん、まあ定かでもないが。学科などどうでも良いよ。その人の小説を読んだこともあるが、一級品だった。大袈裟を承知で言えば、平岡公威の片鱗を感じた」
「三島ですか」
路肩に何台並んでいるのか、青山公園のタクシー待機列もかくやという大型トラックの駐車列がようやく途切れ、その背後からまたあの弱く見栄っ張りな陽が差し始めた。
「見たまえ。前哨戦だよ」
先輩が急に立ち止まり、空の向こうに指を伸ばした。
「……太陽ですか?」
「違う、そのむこう」
「向こう?」
先輩が指す方にじっと目をこらしてみる。そうしながら、先輩も僕もなぜか歩くのはやめない。日射しの向こうに、時期にしては珍しい入道雲がもくもくと――違う、そうではない。煙だ。青空にすうっ、と伸びた野太い赤と白の煙突から、もうもうと立ち上る工煙が、野ざらしの雑草たちを見下ろす青空のその一区画を、完膚なきまでに占拠している。
「どうかね」
先輩がなおも歩きながらこちらを振り返った。
「見たことがあるような、でも……いや、初めてですね」
僕がそう答えると、先輩は、そうか、とだけ言って、また前方へ向き直った。先輩の足元から伸びる道がまっすぐに続いて、横断歩道を過ぎるとそのまま水上へ行き当たって途切れているのがふと見えて、おや、と思ったのも束の間、先輩はその横断歩道を渡ることなく、そのまま道なりに右へと逸れた。
「今の、って海ですか」
「ああ。言ったろう、ここは運河だよ。いかに一見、そんなふうに見えないとしても」
その答えを聞き流し、先輩の後ろについて道を曲がった途端、いかにも奇妙であまりに奇天烈な光景が僕の視界に飛び込んできた。車道を挟んで左側には、ゆうに100メートル四方はあろうかという巨大な倉庫らしき建物があり、歩道をすっぽりと影に包んでいる。そして、先ほど苦労して踏破した川崎駅が丸々二つは入りそうな大きさのそれの対岸、すなわち通りのこちら側に、そのインパクトを覆い隠してあまりある建造物がそびえていた。
一目見て、言葉を失う。先輩の後を追う足の動きが知らぬうちに鈍るのが他人事のように分かった。しかし、どうしようもない。そんな建物がこの世にはある。それは、なんとも的確に表現しがたい、錆び付いて時を纏った哀れで厳めしい金属の集合体であった。それが何らかの工場で在ることだけは、その威容からどうにか窺い知ることができるが、いったい何の工場なのかは判然とせず、ハウルの動く城ばりに部品を寄せ集めたようなその見た目のその異様さは、僕の思考をポーズさせるのに十二分だった。
青い鉄骨によって申し訳程度に組まれた骨組みに、早朝ラッシュ時間帯の中央線を思わせる乗車率で詰め込まれたパイプ、歯車、タンク、その他もろもろの得体の知れぬ機械が、かろうじて建物の形を保っている。陽の光を浴びて燦然と銀色に輝くモノ、くすんで空の青さに沈む歯車、錆び付いて銅色の群れとなった部分、その他数え切れないほどの部品が、ろくに他に建物のない運河の傍で天を衝くように聳えていた。その横には、プレハブにも似た質感ののっぺりとした建物が不似合いに堂々と寝そべり、それを貫く複数本の銀の煙突、そして抑えるようにひときわ高く鋭く伸びた赤銅色の塔、その上でたなびく真っ赤な炎――。
僕はいつのまにか立ち止まっていた。高々と大空に掲げられ、おそらくは永遠に燃え続けるその炎の中には、決してただの火とは違う何か、聖別すらされうるなんらかが隠されているように思われた。人間の叡智や努力のような何かだろうか、あるいは人智の及ばぬ神々しい何かだろうか? 六十年近く前に聖火ランナーが国立競技場に灯したあのトーチの炎が、その内に確かに生きているようにも感じられる。
およそ人が作り得たとも思えぬ神々のジャングルジムのようなそれらと、そこに張り巡らされた金属色の無数の線とを追いかけるうちに、僕の思考も渦を巻き、無数の言葉、無数の表現、無数の感情が胸の内に降り積もる。思考を視界に預ければ、此処に何時間でも立ち尽くしていられるような気がした。
ふと我に返り、気圧されるように一歩後ずさったそのすぐ後ろを、あの不気味なトレーラーの生首が舐めるように走り去り、一瞬遅れて生暖かく排気くさい風がうなじを撫でる。
「驚くかい」
不意に耳元で声がして思わずびくりと振り返ると、例によって先輩がまた音もなく、僕の背後に佇んでいた。まっすぐに僕の方を見るその糸目の奥に潜んだ瞳孔が、さながら猛獣か猛禽のそれのように僕の目を正確無比に射貫く。那須与一もかくやというその眼光が、先輩の柔和な瞼の中に在ることを、僕は今さらのように思い知った。
「ここは存在しない島なのだよ」
返す言葉を持たない僕に、先輩はなお畳みかける。
「全て埋め立て地なのだ。本来はなかったはずの、そして誰も住んではいない島、それがこの千鳥島だ」
「排気ガスと煤煙に紛れて、すっかり時代から取り残されたこの場所で、錆び付いた鉄パイプの森林の中で、誰にも顧り見られず、あらゆるカメラに写らないものが無数にある。誰にもその発生を拾われることのない現象が目にもとまらぬスピードで生まれ続け、終わっていく」
普段目にする高層ビルのそれとは、まったく土台から角度の違う途方もなさが僕を襲う。どうしようもなくなって先輩から目を逸らすと、再び例の大きすぎる倉庫群が目に入り、陽を遮られ続ける対岸の歩道が途端にあの世のように遠いモノのようにも思われた。荒々しい音とともに、物々しいトラックたちが三途の道を駆け抜けていく。
「まだ見るモノはある。沢山ね」
魂を抜かれたような僕の様子にひとまず満足でもしたのか、そう言うと先輩はおもむろに懐からキセルを取り出し、上機嫌そうな様子で口元にあてがいながらまたすいすいと歩き始めた。その途端に、先輩の吐く煙が灰色から文字通りの紫煙に変わる。どういった煙草の銘柄を吸ったらそんなことになるのか、そもそもそれがきちんと市販されているものなのか、いや、それどころかキセルというもの自体、実物は初めて見たような気がして、混乱をきたした脳内が更に混乱する。薄紫色の煙が、シロイルカの吐き出すバブルリングよろしくぽっかりとドーナツ状になって、空に向かってふよりとただよっていくのが見えた。
歩き始めると、この界隈には今し方見たような奇々怪々新旧混淆、三者三様の工場群が幾重にも重なり合うように立ち並んでいるらしいことが、朧気にではあるが把握されてきた。どの工場にも入り口付近に異様に大きなトラックやらダンプカーやらが待機していて、見た目に関わらずその工場たちの全てが稼働中であることを暗に示していた。
先輩はやはり僕を先導するばかりで、こちらの様子を確認しようとは一切しない。日頃はここまで静かに口数少なく行動するような人ではなかったはずだが、果たしてどうだっただろう。なんとなく靄のかかった頭でなんとか思い出そうと思案していると、工場の纏う排気に慣れた鼻にふと、べたつくように甘い匂いが届いた。甘いけれども、間違っても菓子の類の匂いではない。無理やり例えるのなら、昔ながらのザラメで照りが出るまでコーティングされた、ガレージに溜まった積年の埃のような匂い。
その時、僕の脳裏にふと一つの顔が思い出された。それは紛れもなく聡里だった。聡里はちょうど半年ほど前まで僕と付き合っていた、その名の通り聡明な女性で、僕より一つ年上の、ドゥルーズやデリダを愛し専攻するそれなりに平凡な文学部の先輩であった。さして器量が良かった訳ではないが、中学校からの腐れ縁で四六時中一緒にいたこともあり、また僕自身も自分の顔に間違っても自信を持てない人間だったから、そんなことは赤の他人の生命線の長さ程にすら重要ではなかった。彼女には、世界で僕だけが知っている独特の口臭があったがそれも別に不快ではなかったし、なにより彼女の唇は特別に柔らかかった。
匂いと言っても、系統としては確かに今感じているこのべたべたとした匂いに近いがやはり全く違うモノで、今思えばあの匂いは、彼女が特別好んでいた清涼菓子のフレーバーだったのかもしれない。或いは、ムードを高めようとか、或いはそういう目的のためという可能性もないではないけれど、真実が何だったとしても、今となってはもう確かめようもないことだった。たった一つだけ確かなのは、彼女との口づけが僕にとって極上の愉悦だったというそのことだけである。
下腹部にやや圧迫を感じて、僕はまた我に返り、聡里の輪郭を少しでも頭から追い出すことに努めた。先輩の吐き出す煙はいつの間にか紫から鮮やかな桃色に変わっていて、その向こうでは先ほど見た入道雲の煙の五倍はあろうかという量の煤煙が、僕と目と鼻の先で巨大な施設の上から吹き出している。飛散防止のためなのか、明らかに人為的な制御によって弱い竜巻かつむじ風の様に茶色く渦を巻いているその塵幕もまた奇妙な光景であることは疑いようもなかったが、変に感覚の麻痺した僕にとっては目の前の映像に過ぎない。公害の具現化のようなあの塵竜巻の中にひとたび足を踏み入れたら、三十秒も経たないうちに肺胞という肺胞を粉塵に侵されて窒息死してしまうに違いない。
そんなことを考えているうちに、先ほどの疚しげな疼きはいつしかどこかへ飛んでいき、綿飴とも綿埃ともつかないあの謎めいた匂いもどこかへ雲散霧消して、眼前にはあの先ほどの蛇のような鉄パイプが絡みついたような歩道が見え始めた。いつの間にかこの環状道、というかこの島そのものを一周した恰好になっているらしい。
「君も吸うか」
急に後ろからそんな声がかかって、危うく心臓を止めかけた。見ると、いつの間に僕の背後に回ったのか、そしてまた何処から取り出したものか、先輩が自分のとは別にもう一本のキセルを携え、にこにこしながらこちらに手渡そうとしている。
「いえ。煙草は」
「そう言わず、一吸いだけでも」
「……じゃあ」
おそるおそるキセルを受け取り煙を吸い込むと、ヴァニラの芳醇な香りが瞬時に口中へと広がった。それにやや遅れて、若干の甘味と、百合か蘭か知れないが、その手の花の強い香りとが追いついてくる。それはある意味、紛れもなく彼女のであった。寄せては返す、返しては寄せる波のような雑念をもう一度頭の隅へ追いやりつつ、僕はその鮮明差への驚異と幾ばくかの後ろめたさに震え、そして心の何処かでいつかまたそれを吸いたいと願った。
「ありがとうございます」
やや絶句しつつもかろうじて礼を言い、キセルを先輩に返す。信号にさしかかると、その赤と緑の光がかろうじて現実を感じさせ、銀の店主の世界から僕を引き戻した。今辿った道が四角形だとすれば、バスを降りたのはここを更に右に曲がった突き当たりということになるが、見る限り四角形のこちらの辺には、先ほどまでの驚くべき建築群はなさそうだ。
「此処は対岸に渡って、そして左に曲がろう」
先輩がふとそう言った。
いかにも思いつきという言い方を装ってはいたが、その声音は明らかに、こちらに有無を言わせないことを志向したそれだった。はあ、と適当に返して、僕は言うとおり歩行者用信号を渡り、そして左に曲がる。先ほどは気づかなかったが、歩道に沿って錆び付いた線路が敷かれている。
「工場貨物用列車の線路だよ」
そちらを見ていた僕の方を見遣って、先輩が呟くように言う。
「珍しい」
「工業地帯ではよくある。最近は減っているらしいがね」
間もなく、「ようこそ川崎港へ」と書かれた大きな看板があった。それに依れば、この千鳥島というところは三本の運河に囲まれた完全なる工業地帯らしい。この目で全容を確認したわけではないが、それはきっとそうなのだろう。誰か人の日常が少しでも入り込んでいるのなら、あのようにSFじみた鉄パイプの城が乱れ咲きするような土地には決してなるまい。そう思っていると、横にいた先輩に今度は肩を叩かれた。
「あれが千鳥運河だ」
先輩が指し示した先には、あのバスが渡ってきた橋があり、対岸には先ほど島で見たような銀色の城楼が、少なく見ても十棟は並んでいるようだった。先輩に導かれるままに、僕はそちらの方へ近づいていく。
〇
運河はすぐそこだった。あれだけトラクターやらが幅をきかせる道路からほんの三十秒外れただけで事実上海というのは衝撃的だ。あちら側のことは窺えないが、運河のこちらの岸は駐車場になっているらしく、完全にコンクリートの平地になっていた。コンクリートに打ち寄せる波音は却って不自然で、言いしれぬ恐怖感を煽る。おそるおそる近づいてみたが、透明度のとの字もないような汚濁加減で、もし計ったら五cmもなかろうと思われた。
そしてそれ以前の問題として、得体の知れぬ茶色い塵が灰汁のように水面に浮かび、眼前には得体の知れぬ銀色の、人工物の極致のようなずんぐりとした建築達が、肩を寄せ合ってひしめいている。状況を見れば、「落ちたら全て終わり」という雰囲気には絶対のものが有った。汚いとか冷たいとかではなく、言うなればただ圧倒的な死が眼前に広がっていた。極めつけは、目の前に対岸に横倒しになったあまりにも巨大な土管で、何に使うのか一切分からないもののゆうに長さは100メートルをくだらない。大きすぎるものに人は本能的に畏怖を覚えると言うが、それは全くその通りだった。
水面にカルガモの親子が一羽ずついるのに近付いてみる。仮に水面が死そのものであっても、その上に命が存在する。何処までも親の後に付いていくだけのカルガモの子が今日の自分の重なり、僅かな自己嫌悪が生じた。波打ち際の端に、数本のペットボトルと招き手の欠けた招き猫が打ち上げられ、音もなくそこに転がっていた。
と。
「え」
それは一瞬だった。僕の体がいきなり誰かにぐらりと強く、海の方へ、いや死の方へと思い切り傾き、全ての終わりを悟った瞬間、再び強い力で引き戻される。背後から先輩のいたずらな笑い声が聞こえた。
子どもの頃にありがちな、高所でわっと誰かの背中を押す振りをするあれだ。
「人殺し!」
思わず僕は叫ぶ。
「失敬な。友情の表れじゃないか」
先輩はそう言うと、今度はオレンジ色の煙を長く、強く吐き出した。かと思えば、煙はみるみる先輩の足元まで降りてきて、先輩はさも当然のようにそこに乗る。
「え?」
そんな声が思わず口から漏れた。何かのイリュージョンか、または錯覚の類だろうか、しかしそんな――。
「君もやってみるか」
そう言いながら、先輩はいつの間にかオレンジ色の煙に乗って運河の上を滑るように、移動していた。僕の返事を待たず、先輩はまたもあのキセルを僕に投げよこす。逡巡したが、今度はちゃんと先輩に投げ返すことにした。僕はもう、あの煙を吸うべきではない、そう本能的な何かが警告していた。僕はぶんぶんと首を振った。
「いいのかね」
ちょうど太陽を背にする恰好の先輩は、僕の投げたキセルを見事に受け止めるなりそう言った。逆光でうかがい知れないが、その目が一瞬、やや細くなった気がした。
「ええ。結構です」
僕は不自然ほどはっきりとそう答えた。
その時、にわかに信じられないことが起きた。
先輩の体が突如、縦横に拡大したのである。キセルをじゃんじゃん吸い、七色の煙を纏って夢の中のように視界の中で自在に縮尺を変えるその光景は理解の埒外に在るものでもあり、掛け値無しに恐ろしかった。首だけをらせん状にぐるぐると回転させながら素知らぬ顔で先輩は言う。目の前にいるはずの先輩の声がなぜか全方位から聞こえてくる。
「なぜだね……?」
そう言いながら、先輩の顔もまたどんどん、カオナシともフシギダネともつかぬ謎の風貌へと変わっていき、同時に肥大化してじわじわと僕の面前に迫ってきた。辺りはいつの間にか、杳とも知れぬかたわれの橙に染まっていた。
気づいたときには、僕は静かに聡里の名を呟いていた。僕は先輩に背を向け、一目散に駆けだした。
走りながらも、心の中には彼女に作ってもらった肉じゃがと、彼女に作ってもらった筑前煮と、僕が彼女に作ったカレーライス、そして彼女が脱いだワイシャツの裾とが、ひたすらぐるぐると循環した。もはや僕の頭の中には、かつての聡里との穏やかな日々のこと、そして手つかずのままどこかの引き出しの奥底にしまう羽目になった諸々のことだけが、心の静謐の中にこだましていた。
ともかく、僕は走った。前方はもちろん振り向いてももはや先輩の姿はなかったが、何かが無性に怖いのだった。方向さえ分からなかったが、とにかく生活の気配がする方へとひたすらに向かった。コンビニでも定食屋でも何でも、とにかく等身大の人の営みがあるところに逃げたかった。目の前のバス停に丁度バスが車体を寄せていくのを見ながら、僕は全力でそのバスに追い縋った。
這々の体でバスに乗り込む。発車します、という鼻にかかった運転手の声とともにバスは揺ったりと滑り出した。それは微かなものだったが、それでもぼくはそこに日常の回帰をようやく感じ、二人がけのシートを占拠して眠りについた。
〇
それから僕がどうやってこの川越の家に着いたのか、それについてはほんとうに不思議なほど記憶がない。ただ、聡里と別れたあの夜のように、ひどく断片的な記憶だけが残っている。気づいたときには、私はいつものようにこの布団の上で掛け布団にくるまって眠っていたのだった。もしや夢だったのかと思ってテレビを確認したが、日付は全くその通りに進んでいた。
混乱した僕は丸一日寝込み、それならばやはり先輩に文句を言おう、説明を求めようと翌々日ラウンジで待ち構えていると、早速前日と同じように肩に手が置かれた。振り返りざまに、昨日は、と語気荒く話しかけようとしたところで固まった。
そこにいたのは昨日とは違う、いつもの深緑の格子柄の着流し姿の先輩で、あごに手をやるその姿も先輩のものではあった。しかしその顔は、あの見知った黒縁眼鏡の顔ではなく、すっかりあの、山本悠太の学生証のそれそのものであったである。
人違いかと思ったが、いつもの先輩の喋り口調で、昨日まで四国に一週間居て私に会えず申し訳なかったなどと言うのだ。証拠の写真や土産物まで出してきた。加えて、その先輩は私のことを五十嵐くんなどと呼んでくる。
私は当惑した。私の名は五十嵐ではないはずである。はずというのは、私が私の名前を思い出せないからであるが、しかしそれは今さほど問題ではないのでここでは省く。あれはやはり夢だったのだろうか。または仮にあれが事実で、先輩がヒトではない何かだと仮定するなら、昨日のあの出来事は何のための何で、何処につながっているというのだろう。
私はそれから、先輩には会っていない。