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異国から異国へ(成績がすべて(6))

成績がすべて(6)

2002年12月、鄭州外国語中学の高3の成績上位20%の学生が、学校で一番広い会議室に集められた。目の前には記入フォームがあり、名前、性別、そして「希望専攻」の欄があった。フォームの「北京外国語大学」の文字を眺め、とうとうこの日が来たのかと、ぼくは緊張しながら、心躍らせていた。

「皆さん、見ての通り、北京外国語大学の推薦入試表です。明日、北京外大担当の先生が来ますので、推薦を希望するのなら記入してください。ほかの大学がいい、あるいは推薦じゃなくて普通の受験がいいなら、なにも書かなくていいです。1時間後に回収に来ます。では。」

人の一生を左右することを、いともサラッと説明した先生は、質問は受け付けないよと言わんばかりに、すぐに会議室から出ていった。そのあとを追って、他大学と受験希望者も出ていく。残った20名ほどの学生は、事前に配布された北京外大の資料にもう一度目を通しながら、どの専攻にしようかと最後のチャンスを利用して悩み、携帯電話を取り出して「ねえお母さん、メディア学と商学ってどっちがいいと思う?」と聞く人さえいた。「そんなもん事前に考えておけよ!」とツッコみたくなるが、そんな余裕は誰にもない。ぼくのような「日本語」しか選択肢がない学生でも、これを書けばほぼ北京外大への進学が決まり、これまでの12年近くの学校教育とのサヨナラが近づいていることに、フォームを記入する手が震えていた。

その日からほぼ一年前、政治教科担当のシュウ先生は、いつものように本題であるマルクス・レーニン主義を無視し、世間の厳しさを知らしめる雑談に終始していた。

「私のふるさとはド田舎でね、今もタクシーがあまりなくて、人力三輪車が現役なんだ。この前帰省したとき、駅前で三輪車を雇ったら、車夫が高校の同級生だったんだよ。気まずいったらありゃしない。しかも『シュウよ、おまえは大学に行けたから、みんなの誇りだ。おまえから金は受け取れねえよ』なんて言うんだよ。なにがいいたいかって言うと、おまえらは絶対大学に行けってこと。いいか、死ぬ気でがんばれよ!」

アドバイスの体をした似たような愚痴は、他の先生からも何度も聞いているが、シュウ先生が異なるのは、こうした精神論の続いて、必ず具体的なアドバイスをしてくれたことだ。

「頑張ると言っても、方法は様々だ。まず、金持ちやコネのある家庭は、できる限り河南省から戸籍を移せ。北京がベストだが、ダメなら海南省のような僻地がいい。もちろん、捕まらない程度にな。この学校のキツさについてこれるヤツなら、北京で受験すれば大学は選び放題だ。それから、推薦の可能性があるのなら、なにが何でも推薦にしろ。『高考(日本のセンター試験に相当)でもっといい大学に!』なんて高望みはリスクが高すぎる。推薦でいけるところはみんな悪くない。そこに行ければ、4年後にもう一度選択のチャンスがやってくるから、北京大学や清華大学にどうしてもいきたいというのなら、4年間待ったほうがずっと確率が高い。」

戸籍制度のことを書くと長くなるので、シュウ先生の話との関連だけでいえば、中国はどの大学でも、省ごとに今年の定員を決めているというのが重要だ。担任が以前、北京大、清華大に入れる確証は誰にもないと言ったのは、あの頃、河南省に50万人の受験生がいたにもかかわらず、両大学合わせて河南省で取るのは10名前後しかないからだ。一方、同年の北京の受験生数は8万人強、それなのに、北京大だけで、北京市から330人を募集していた。清華大も同水準だ。倍率はかたや50000倍、かたや133倍。ほかの大学も軒並みこの意味不明な差別的政策を採用しており、その結果、2003年に大学へ入ることができた人数を比べると、河南省は15%のみ、北京市は70%だった。

これを差別、人権侵害、不公平、不平等といわずして、なんというのか。北京の学生たちとぼくたちは、本当に同じ国で生きているのか。なぜ生まれが北京だからというだけで、あんな特権を18年間も享受できるのか。この話題に触れる度に怒り心頭に発するが、だからといって、どうすることもできない。ぼくだけではない、同級生はもとより、河南省の受験生全員がこの差別を知っているのに、そして差別的な待遇を受けているのは河南省だけではないのに、声を上げてくれる人は誰もいない。ぼくたちにできるのは、ただ北京の学生の数十倍もひたすら勉強し、この不平等を甘受することであった。

それでも、外国語中学校の学生はまだラッキーである。上位20%の学生なら、推薦で名門大学に入る可能性があるからだ。高考という超ハイリスクを回避する方法として、シュウ先生にいまさら言われるまでもなく、ぼくは推薦制度を知ったときからそれで進学しようと決めていた。確かに日本語クラスの選択肢は狭い。専攻は日本語以外になく、選べるのは北京外大、上海外大、広東外大くらいだが、そんなのはどうでもいい。鄭州から外に出られる、名門と言われる大学にいける、それだけでいいんだ。

したがって、手が震えながらも、迷いが全くないぼくは、そのフォームの希望学科に「日本語」と下手な字で記入し、先生が回収に来るのを待った。顔を上げると、ほかの人たちもほぼ記入し終えた。そうか、この人たちと北京外大でも一緒になるのか。おそらく全員がそう思っているが、誰も口に出すことなく、たまに目があってほほえみ合う程度。一応北京外大独自の推薦試験があるが、あんなもん高校の期末試験と比べれば屁みたいなものと、担任も言っていた。あっけないにもほどがあるが、これで、ぼくたちのこれから先の4年間は、大枠決まった。

その後は何のイレギュラーもなく、すんなりと入学が決まった。受験組の地獄が人知を超えるレベルに達する旧正月を前に、ぼくたちはその年に起きたSARSのこともあって、「もう学校に来なくていい」と、野に放たれたのだ。委員長を失ったぼくのクラスは、代わりに受験組のなかで成績の一番いいヤツを委員長にし、感染症への恐怖と受験への不安に苛まれなら、受験の7月を迎えた。

あれから4年後、ぼくは後任の委員長をしてくれたヤツと再会した。語学の勉強はいやだと言った彼は、4年前に北京ではないが、それでも中国で知らない人はいない名門大学の工学部に入り、4年後に北京大学の大学院入試をするために北京に来ていた。河南料理の店を探し、ビールを開けて旧交を温めていると、彼は急に言った。

「でもよ、おまえらのように高考を経験していないヤツは、不完全な人生だと思うぜ、オレは。」

それはネット上でよく目にする、自嘲気味の冗談と同じセリフだった。だからぼくは本気にせず、「まあ、そうかもな」と軽く流そうとしたが、彼はビール瓶で「ガン!」っと机を叩き、酒が入ったために充血した目を見張って言った。

「いや、不完全だ!絶対不完全だ!おまえならよく知っていると思うが、日本に甲子園ってあるだろ?高考はな、オレにとっての甲子園だったんだよ!おまえは、その舞台にすら立っていないんだよ!」

そう言った彼は、ラッパ飲みでビール瓶を空けた。これ以上飲んだら明日の試験に響くと、ぼくはタクシーを呼び、彼を下宿へ送った。そして、試験が終了した時間帯を見計らい、昨夜言えなかった反論を携帯で送った。

「おまえ、昨日は甲子園って言ったよな。でも、ぼくから見れば、高考にそんなロマンチシズムは1ミリもない。あれは甲子園なんかじゃなく、あれはグラディエーターの戦いだ。負けたら死ぬ戦いに、おまえは運よく勝っただけだ。」

この余計な一言で、ぼくは友情を失った。

(「成績がすべて」終)

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