異国から異国へ(余話1)

小5から中2まで、日本で4年間過ごしたことを書き終わった後、次はなににしようかと、実は執筆の前日まで迷っていた。そのままの流れで行けば帰国後の中学校での話になるが、日本の4年間と同じように時系列で記述するだけでは、どうも面白みに欠ける気がした。しかも、日本の4年間は完全に過去として取り扱うことができるのに対し、帰国後のことは、現在まで途切れることなく続いている。編年史的に書いていては、同じことが何度も登場しなければならず、リズムが悪い。それなら、一つの出来事、あるいは一つのテーマに絞って、長くなりすぎないように数回に分けて書こうと決めた。

そうなると、どのようなテーマを選ぶかが大事になる。小5まで暮らしていたふるさとでありながら、帰国したぼくはカルチャーショックを受けていた。なかでも最も衝撃なのは、周りが当たり前のように、試験の成績を至上命題視していたことである。そのことは、たしかにぼくが小5までに感じたものの延長線上にある。しかい、周りが小6、中学受験と少しずつ感覚を慣らしてきたのと異なり、ぼくは日本にゆとり教育から一気に4年の時空を飛び越えて、慣らし期間ゼロで放り込まれたのである。そのため、編年体で書いてもおそらく最初に書くであろうこのことを、一つのテーマとして扱うことにした。

そうするのには、もう一つの理由がある。「成績がすべて」というタイトルは、比喩でもなんでもなく、試験の成績のみを重要視し、ほかのことについては、たとえ人間性のような人生の根本に関わるようなことでも、二の次、三の次という環境をそのまま言い表している。程度の差こそあれ、河南省の学校は皆そのようなものであり、ぼくと同級生たちは、そんな環境で育ってきたのである。したがって、成績以外のことを書くとしても、背景として「成績がすべて」という状態を理解しておく必要があり、最初に書くことになったのである。

制度面の込み入った話はできるだけ簡潔にし、エピソードでぼくと同級生が身を置いた環境を書いてきたが、読み返してみると、やはり学生中心の視点だったと言わざるを得ない。そのせいで、中学校の担任を鬼のように書いてしまったが、彼女だって学生思いの優しい一面がちゃんとあった。ぼくが来る前だが、中1のとある週末に、彼女の独断でクラス全員を遠足につれていったのは、卒業まで一部の級友の語り草となっていた。心臓病から見事復帰を果たした中3では、夜自習のときに生徒を一人ひとり呼び出し、強みと弱み、高校受験に際しての注意事項を説明していた。普段から愛情をもって、つぶさに全員を観察していなければ、出来ない芸当である。

だからこそ、そんな誰もが口を揃えて称賛する教師になり得る資質を持っているにもかかわらず、ぼくのような好感度マイナスの生徒を産み出してしまったのは、残念でならない。彼女個人が悪いのではなく、河南省の受験の厳しさと、厳しさの背景にある不公平な教育制度こそ、その責任を負うべきである。いい高校や大学に入るためには死ぬほど勉強しなければならない、先生の業績も、ほぼ進学率だけで決まってしまう。そんな環境では、担任となった以上、誰でも「成績がすべて」を大前提として働かねばならないのである。

そのことは、一見優しく、理解のある高校の担任も同じだった。実は、ぼくが推薦で北京外大の日本語学科に入ることに、彼女は反対していた。曰く、「もったいない」のである。高考(センター試験に相当)に参加すればもっといいところや、もっと自分が興味を持つ専攻も狙えるのに、簡単だからという理由で日本語学科に入るのはおすすめできないと説得された。もちろん、その言葉自体は嘘ではないが、ぼくは当時から、彼女の説得には二重の意図があると考えていた。

からくりはこうだ。推薦は成績上位20%だが、20%のなかから辞退者が出れば、その分繰り上げられることになる。つまり、ぼくが辞退すれば、うちのクラスから上位20%にぎりぎり届かない人を、推薦で大学に入れることができるのである。中国の大学は大きく分けて3つのランクがあり、推薦の学生を取る大学は皆最高ランクである。そしてぼくは、高考で北京大学にいけなくても、別の最高ランクの大学にいけるはずである。つまり、ぼくの辞退によって、最高ランクの大学に確実に進学できる学生が1人増えることになり、彼女の業績アップにつながるのである。

確認したわけではないが、彼女がクラスの上位陣全員に高考を薦めたところを見る限り、そうだと考えてまず間違いない。ずるい、無責任と言われても仕方のないことだが、それまでの担任の言動は、決してマイナスなイメージを抱かせるものではなかった。その証拠に、海外留学が決まり、高考など受ける必要皆無の同級生が、「もうすぐ海外に行きますが、先生への感謝の気持ちとして、ぼくは高考を受けます。必ず最高ランクの大学に入れるくらいの点数をとってみせます」と言ったのである。その何の意味もない試験で、彼は見事約束を果たした。先生が大喜びしたのは、言うまでもない。

しかし、このエピソードを、美談として片付けることは、ぼくにはできない。むしろ、ぼくからすれば、こんな約束をする同級生、それに同意する担任、約束をはたして喜び合う二人の姿などなど、すべてが風刺劇のように、苦々しい笑いを誘うものである。たしかに、ぼくは成績がすべての環境に順応でき、その環境のなかで生き残り、ある意味推薦によって既得権益層になってしまった。しかし、ぼくはそれに納得したわけではない。礼賛することなどもってのほかである。何かがおかしいという違和感はずっと持ち続けており、中学・高校の時点ではうまく表現できなかったそれは、大学・大学院を経て、徹底的にこの制度を批判しなければならないという確信へと変わった。

だから、ぼくと高考を甲子園のようにロマンチシズムでとらえる旧友が決裂したのは、必然である。というより、決裂はそれ以前に発生しており、あの日の言葉で判明しただけに過ぎない。そして、「そうはいっても、高考は今の中国でもっとも公平な試験だ」という論調にも反吐が出るほどの反感を抱く。個人が不公平なものをそのまま放置し、順応しようと努力するのは勝手だが、社会がそうすれば、不公平はより苛烈になるのみであり、そのことは拡大し続ける中国の教育格差を見れば一目瞭然である。「比較的マシ」な高考をロマンチシズムの対象にするのではなく、高考を含めて、不公平だらけの教育制度、戸籍制度、各種の制度を徹底的に批判する、それしかないと、ぼくは確信している。

とはいえ、この話はもう終わったので、今後教育制度の議論は出てこない。次回からは、中学校から英語ではなく、日本語を勉強する一群が、どのような経歴をたどり、なにを思ったのかを、書いてみたい。

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