異国から異国へ(日本語クラス(4)、運命の悪戯)
運命の悪戯
外国語中学校では、当然ながら、外国語の授業が一番重要視される。コマ数は国語や数学よりも多く、授業時間は週平均少なくとも10時間だ。1学年の授業週間が9ヶ月×4=36週間として計算すれば、年間360時間外国語を学習していることになる。6年間なら2160時間だ。日本語能力試験の最上級であるN1は、「学習時間約900時間」を目安としているため、いくらまだ中学生、高校生とはいえ、その2倍以上勉強すれば、大抵はN1に合格できる。実際、高3のときに受けた試験では、1名を除き全員合格した。
合格までは明確な目標があるので、たとえ日本語に興味がなくても、いや、そもそも語学に興味がなくても、みんな歯を食いしばって頑張ってきた。しかし、いざ合格してみると、たちまち目標は失われる。「もう日本語は十分勉強した、大学では違うことをやりたい」と考える人が出てくるのも、自然なことであり、それがその後の進路に大きな影響を及ぼすのは、言うまでもない。
語学にそれなりに興味があったぼくの場合は、心理学や経済学などに一瞬心動いたこともあったが、受験の厳しさを考えてすぐに楽な日本語の道に進むことを決め、北京外大の推薦を決めた。ほかに選べるのは上海外大と広州外大であり、広州は別として、上海外大は明らかに北京外大と張り合っていた。北京外大がわざわざ高校に来て推薦試験をしてくれたのと異なり、上海外大はあくまで学生が上海に来て受験することに拘り、しかもその日程を、北京外大の試験と重なるように設定した。つまり、北京と上海、どっちか選べ、というのである。
昔も今も上海の気質があまり好きになれないぼくは、迷わず北京の方を選んだ。しかし、推薦には行きたいけれど、できれば語学を避けたいという人にとって、上海外大はまたとない選択肢であった。日本との経済的なつながりが北京よりも強いためか、日本語専攻にしか入れない北京外大と違い、上海外大なら商学科に入れるのである。それに飛びついた同級生が、3人いた。
一人はシン、いわゆる優男キャラであり、上海の男性のイメージにピッタリだ。だから彼の選択には誰も驚かない。もうひとりはロウ、娘を溺愛する父親を持つ気の強いメガネっ娘であり、できれば大学では語学を避けたいと言っていたから、これも理解できる。そして最後の一人はイェン、サッカーとRPGをこよなく愛する若白髪の男子で、語学にも商学にも特に興味なし。それなのに、「男子が来れば赤点じゃない限り取る」と公言する北京外大を蹴って、上海外大の受験を決めた。なぜだ、なぜ確率の高い方に行かない。おまえはそんなに上海が好きか?受験の数日前、そう彼に聞いたら、イェンは「ヘヘっ」とはにかんで答えた。
「おまえなら、わかるだろ」
ーーそうか、イェンは、気の強いメガネっ娘が好きなのか。
となれば、ここは二重の意味で、友人が夢を叶えるのを応援するのみ。実際、合格するのは間違いと誰もが思った。推薦の試験は簡単で、しかも外国語大学は男子が少ないから、優先的に取ってくれるはず。イェンよりもむしろロウの方が心配だ。そんな心境で、週末の列車で上海に行き、受験して即帰るという弾丸ツアーを経た彼ら3人を、次の月曜日の朝に教室で迎えようとした。ところが、イェンの姿がいない。
「あれ?イェンは?」
そう聞いてくる同級生に、シンは沈痛そうな面持ちで答えた。
「熱だ。試験当日の朝に高熱が出たんだよ。帰りの列車のなかでもうなされてた。」
「うそ?じゃ、試験はどうなったの?」
「一応受けたけど、たぶんダメじゃないかな、本人の様子を見る限りじゃ…」
6年間同じ日本語クラスにいたぼくたちは、全員奇跡が起きるのを願ったが、やはりめったに起きたいから奇跡である。シンとロウは受かり、イェンは落ちた。あまりにもショックが大きすぎて引きずったのか、その後の広州外大の試験でも、イェンは数学で凡ミスをやらかして落ちてしまった。ほんの数週間前まで希望に溢れていた日々は、今や最難関の「高考(センター試験に相当)」という険しい道しか残されていない。
それでも、推薦を資格を得るくらいの成績だから、イェンが大学に進学できないとは思えない。問題は、あくまで上海にこだわっている彼が、どこに進むのかということである。ここでも、高考という制度のいやらしさが襲いかかる。各大学独自の入試がない中国では、高考の成績が入学を決める唯一の基準となり、受験生は最大3校を志望することができる。しかし、問題なのは、志望校を決めるのが高考終了直後だということである。その時点では、まだ採点が終わっていないため、誰も自分の得点を知らず、志望校の今年の合格ラインもまだ決まっていない。頼りになるのは、自己採点の結果と、例年の合格ラインのみだ。しかも、名門大学は応募が集中するため、第1志望だけでほぼその年の定員を採用でき、第2志望で入ろうとするのはまず無理だ。つまり、いいところに入るには、自己採点でできるだけ正確を期すだけでなく、第1志望の大学の合格ラインが、例年から大きくズレないことを祈る必要があるのである。
イェンと同等かそれ以上の成績の日本語クラスのメンバーが、ほぼ全員推薦を決めたなか、ぼくたちは仲間の悪運がこれ以上続かないことを願った。高考の受験結果は本人弁で「まあまあ」であり、それなりのところに入れるだろうと全員が安心した。実際、大学は悪くない、河南省でもっとも歴史のあるところであり、「名門」といってもいいくらいのところだった。しかし、専攻名を聞いた全員が、唖然とした。
「オレ、ロシア語専攻に入ることになったよ」
いくらなんでも、イェンがロシア語専攻を自ら進んで志望することはありえない。そもそも、うちの中学校はロシア語も教えている、興味があるのなら中1からやっている。何の因果で大学からロシア語を勉強しなきゃいけないのか。「なんでだよ?どうしたんだよ?」と口々に聞くと、イェンは力なく言った。
「調整されたんだ。ロシア語専攻にね。」
高考では名門校に志望が集まるため、たとえ合格ラインを超えても採用されない場合がある。そうしたいい成績を取った受験生への救済措置が、「調整」(中国語は「調剤」)という制度だ。志望校の記入時に「調整を希望する」にチェックすれば、第1志望に入れなかった場合、同格且つ定員未満の大学に回されることになる。しかし、その場合、志望校とは無関係に空いているところに回されるため、文字通り結果は神のみぞ知るところである。その運命に悪戯が、ぼくたちの仲間の身に降り掛かったのである。
「どうすんだよおまえ?行くのか?1年残ってもう一度受験するか?」
実際、どうしても行きたい大学がある場合や、成績が悪すぎて大学に入れなかった人の中には、一縷の望みにかけて浪人し、再度試験に臨む人がいる。しかし、浪人したからといって試験が簡単になるわけではない、1万倍近い倍率の競争は来年も同じだ。それをよくわかっているイェンは、笑いながら首を振った。
「いや、ロシア語でもいいから。行くよ。オレ、もう疲れたんだ。しかし、ロシア語とはねぇ…」
イェンは、たしかに笑っていた。この半年間を振り返って、もはや笑う以外にどうしようもないのかもしれない。その姿は、若白髪も相まって、まるで中年男性がミドルエイジ・クライシスを迎えたかのように見え、ぼくは「頑張れよ」さえ、口に出せなかった。
はたしてイェンが、ロシア語を真剣に勉強したかどうかはわからない。ぼくがお笑いコンビ「ラーメンズ」の動画をSNSでシェアしたとき、イェンが「こいつらの巻き舌、オレよりもうまい」とコメントしたのを見る限り、あまりうまくはないのだろう。「好きな女の子と同じ大学に行きたい」と、至極当然な思いを抱いただけなのに、彼は意味不明な制度のせいでロシア語に回されたのだ。そんな状態でやる気を出せというのが無理である。しかし、だからといって腐らせておくわけにはいかない、そんな老婆心で、「おまえ卒業したらどうすんだよ」と連絡を入れてみた。
「大学院に行くよ」、イェンは即答した。
「どこに?決めてあるのか?」
「ああ、上海外大、日本語学科だ。」
「大丈夫なのか?おまえロシア語専攻だろ?学部と大学院は違うぞ。」
「心配するな。4年間日本語の勉強を欠かせたことがない。絶対受かってみせる!」
ぼくはそれ以上聞かなかった。4年前のリベンジか、好きな女子への思いか、それとも上海へのこだわりか、理由は色々考えられるが、イェンの毅然とした言葉を見れば、彼はこの関門をクリアし、人生をリスタートさせるつもりだろう。となれば、余計な詮索は不要。応援するのみだ。
上の会話から1年後、とある日本語のイベントで上海に行ったぼくは、帰りにイェンに連絡した。
「イベントで上海外大のダイ先生と一緒のテーブルになったよ。面白い人だね。」
「だろ?それ、オレの指導教官なんだよ。ごめんな、デートに行ってたから、会う時間作れなくて。」
そう、彼は受かったのだ。唯一残念なのは、デート相手がロウじゃないことだが、まあ、いいや。
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