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異国から異国へ(日本語クラス(7)、明るい友人)

明るい友人

ぼくがいた頃の鄭州外国語中学校は、中等部・高等部とも、一学年5クラスであった。中等部の3年間は進学コース2、一般コース3の計5組に分かれ、ロシア語クラスの10数名は1組、日本語クラスの15名は2組に入っていた。60人いるクラスでは、10数名しかいないぼくたちは自ずと少数派となる。喧嘩でも勉強でも、団結しなければ英語クラスに太刀打ちできない。競争を煽りに煽る担任の存在もあった、いつしか、「日本語クラス」という存在を主張しようと、内輪での絆を深めていった。

中学校の3年間、クラス替えは一度もなかったが、高校では他校進学や、高校から鄭州外語に進学してきた人が多数いたため、大掛かりなクラス再編が行われた。英語クラスのメンバーがバラバラにされる一方で、日本語クラスは外国語の授業を一緒に受けなければならないので、全員同じクラスに入ることになった。あたりを見回せば、知っている顔は日本語クラスのみ、そのため、新たに同級生になった人よりも、ついつい旧知の人と固まってしまっていた。だから、こんな不満がすぐに上がるようになった。

「日本語クラスの人たちは、内輪だけで盛り上がりすぎよ!もっと英語クラスのみんなと仲良くしなきゃ!」

高1のとある日、日本語クラスの一員であり、学級委員長でもあるぼくは、担任に呼び出され、英語クラスからこんな不満が上がっていると伝えられた。誰がそう言ったのかはだいたい想像がつく、数日前に本人から直接抗議を受けたことがあるからだ。日本風に言えばギャルであるその子は、その頃からやけに体のラインを強調する服を着てくるようになり、日本語クラスきってのイケメンである優男くんを狙っていたのは明らかだった。しかし、優男くんはギャルに興味がないのか、声をかけられてもほとんど無視。諦めきれないギャルは、鬱憤を晴らそうと英語クラスVS日本語クラスの対立に仕立てようというのである。全く、言っていることが正論なだけに、本当に面倒くさい。

かといって、担任の前で「ただの痴情のもつれです」と言うわけにも行かない。時間が経てば自然と仲良くなるので、心配いりませんよと言ったが、担任はどうも納得していない。ここは担任を追及を黙らせる説得力のある言葉が必要だと思い、ぼくは本心を打ち明けることにした。

「先生、ぼくが言っても、意味ないと思います。ぼくだって、日本語クラスの輪に入れないでいるのですから。」

日本語クラスの面々は、確かに中学校のときは、よくぼくの家に遊びに来てくれていた。しかし、もっとも仲のよいリョウは、ぼくに「帰って勉強しろ!」と追い返されてから、口もあまり聞いてくれなくなり、ユウは高校に入ってからプレステを購入したので、来る回数がめっきり減った。ほかのメンバーも、PCゲームなど別の楽しみを見つけるようになり、高1の時点で、ぼくは週末を1人で過ごすことが多くなった。

「なるほど、ぼくと仲良くしたいより、ゲームが目的だったんだ」。そう考えたぼくはがっかりした。たしかに、3、4人を除けば、日本語クラスといえども、ぼくと話すときは口調が丁寧になる。さっきまでふざけあっていたのに、ぼくが表れた瞬間真顔になる。そういえば、中3の卒業時に、日本語クラスの誰かから「張くんとは高校ではもっと仲良くなって、友だちだって言えるようになりたいね」と言われた。こっちは、とっくに友だちのつもりだったんだがというと、「そうなの?なんか張くんって、みんなより年上だから、話しかけるきっかけをつかめないっていうか…」と返された。

日本から帰国時に1年留年したぼくは、周りより1才以上年上だった。今まで気にしたことがないだけに、面と向かって言われたときのショックは大きい。そうか、ぼくは最初から、彼らにこんな目で見られていたのかと、考えれば考えるほど、自分が仲間はずれだという事実に気付く。なにより耐え難いのは、彼らが小学校の話をしているときだった。これから仲良くするのなら、いくらでも努力のしようがあるが、過ぎ去った小学校の話は、ぼくにはどうしようもない。鄭州の異なる区の小学校で小5まで通い、その後日本に行ったぼくは、彼らと子供の頃の話で盛り上がることができない。温故知新で関係を強化し続ける友人がいても、ぼくは聞いているだけでイライラし、遠くから見つめることしかできなかった。

学級委員長という地位は、そのイライラに拍車をかけた。こっちにそのつもりがなくても、役職のない人から見れば「先生の軍門に下った犬め」と目されるのが委員長である。ユウがインターネットカフェにはまり込んでしまって帰りが遅い、リーがビリヤードクラブに通い詰めている、ジャンが女子に色目を使う、次々と担任経由で入ってくる情報に、本人に注意するのはいつもぼくだ。そのうち、ホームルームでぼくが一週間の総括の発言をしているとき、日本語クラスの男子全員が居眠りするようになるのを目にするようになった。

そんな日本時代以来の仲間はずれに苦しむぼくだが、幸い、まだヤンくんがいた。

ヤンは、元々1年上の日本語クラスの先輩だったが、1年前に風邪をこじらせて心筋炎になってしまい、大病から回復したばかりだった。1年間全く通学できなかった彼は留年することになり、ぼくたちのクラスに入ってきた。

生死の淵をさまよっていたというのに、あるいは、さまよったからか、ヤンは明るく、度胸が据わっていた。体育の授業では忍者走りで全員を笑わせ、仲良くなり始めると、「オレはさあ、サッカーのときにヘディングで相手の肺に穴開けたことがあって、相手はそれで1年間休学したんだ。だからオレの病気と留年はその報い」など、嘘とも本当ともつかない話で、相手の目を白黒させる。先生の事務室に用事で行ったときに、何度ノックしても誰も出ないので、「稲妻キーック!」といってドアを蹴り、音に驚いて別室から出てきた教頭に向かって「地震です!」と悪びれずに言った。そんな彼は、先輩だったため、年齢はぼくと同じ。それが幸いし、二人はすぐに仲良くなった。

仲良くなった後のヤンも、全く変わらなかった。週末に彼の家に遊びにいくことが多くなり、彼はいつも鼻歌を歌いながらパソコンいじりしていた。どんなルートがあるのか知らないが、海賊版の新作ゲームを入手してきては、「ほら、貸したげるから、やってみな」と、爽やかな表情でCDを手渡される。ある日、渡されたのがエロゲーだと気づいたときも、彼は爽やかな表情を崩さなかった。「おまえ、こういうの親にバレたら大変だぞ」と、小心者のぼくは焦るが、ヤンは「ううん、うちは親公認だから大丈夫!」とあっけらかんだ。「ありえねえよ、そんな親!」と呆れ返っていると、ヤンはやはり明るく言った。

「いや、うちは本当だよ。だって、生きているだけで幸せだから。」
「なんだよ、それ?」
「おまえ、何度も来てるのに気付かなかったのか?オレの母さん、ガンだよ。」

たしかに、ヤンの母は会う度に痩せていくような気がしていて、ここ数回は帽子をかぶっていた。しかし、息子以上にいつも笑顔なあのおばさんが、まさかがん治療をしていたとは夢にも思わないぼくは、なにも考えずに見過ごしていたのだ。「えっと…」と返答に困っていると、なんとヤンの母親が部屋に入ってきた。

「こら、ヤン、友だちを困らせるんじゃない!」
「えー、いいじゃん、母さんだって隠さなくていいって言ってたし」
「それはそうだけどね、ショックを受ける人もいるのよ。ごめんね張くん、うちの子、気が利かなくて」

なんなんだこの親子は、なんでガンをただの風邪のように話題にできるんだ。そしてなんでぼくに謝るんだ。目をパチクリさせても、前にあるのはたしかにおばさんの優しい笑顔と白いニット帽、ヤンはといえば、まるで何事もないかのようにパソコンゲーム。なにを言えばいいんだ、なにか気の利いたことを…

「あの!病は気からっていいますし、おばさんなら、きっとよくなりますよ!」

焦ったぼくには、これくらいしか思いつかない。おばさんは少女のように「ニコッ」とし、「いいこと言うわね!ありがとう!」と言って、「じゃ、買い物行ってくるね!」と出かけていった。

ヤンの経験と比べれば、仲間はずれなど全く悩みにさえならないと気づいたぼくは、その日から、日本語クラスの面々との仲で悩むことをやめた。その後も明るさが全く変わらないヤンとは親友であり続け、違う大学に入ってからも、電話で1時間以上話し込むほど連絡を取り続けた。そして、数年前、すでに日本に来ていたぼくに、日系の大手自動車メーカーに就職した彼は連絡してきた。

「オレ、来週出張で東京に行くよ。会わないか?」

二つ返事でOKし、場所を銀座のカフェに決めた。約束の時間に表れた彼は、ぼくの顔を見るなり両手を広げ、力いっぱい抱擁してきた。

「おまえ、元気そうだな!」
「おまえもな!お母さんは、どう?」
「おかげさまで、元気だよ!」

それを聞いたぼくは泣きそうになるくらい安心し、カフェに入った。日本に来てから、友人が益々減ったぼくにとって、その後の2時間は、何度味わっても滋味深いものだった。

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