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目下の中国の出来事を文化大革命になぞらえる風潮について
1 個人的な体験
ぼくが文化大革命再来への懸念をいだき始めたのは、2012〜13年あたりからであった。2012年には尖閣国有化とそれに続く反日デモなど日中関係にとっての大事件があったが、ぼくを刺激したのはそれらの具体的な事件ではなく、異議を許さぬ空気の広がりを肌で感じたことだ。2010年の来日以降、しばらくの間中国でも米国発の様々なプラットフォームやアプリが使用できる状態が続いたが、おおよそ2012年を境目に、ほぼ全てが中国国内からアクセス不能となったのである。
2012年は、アクセスの遮断が一気に進行しただけでなく、WeChatの躍進という点でも中国のネット言論にとって重要な一年だった。国民的アプリ「WeChat」は同年にモーメンツ機能を追加し、海外進出をも果たした。例によってぼくは新サービスに乗り遅れ、モーメンツでシェアされる玉石混交の記事を読むようになったのは、約1年後の2013年からとなった。
始めはよかった。よかったというのは、記事のレベルが高いからではない。WeChatはそれまでのどのSNSとも同じで、9割以上がbullshitだが、少なくともカラフルなbullshitだった。未消化のえのき茸がそのままの形で混じっていたり、肉の食い過ぎでドブ臭さを放っていたり、お腹を空かせすぎたのかなにも入ってなかったりと、シェアされる排泄物の塊を眺めていれば、彼らが昨日なにを食べたのかがわかるのだ。10月1日や全人代の前後になると、bullshitたちは激辛火鍋を食べすぎたためか一様に真っ赤に染まるが、それも一過性のことに過ぎず、むしろぼくはその間に貴重なデトックスの時間を味わうことができていた。
シェアされる記事のほか、ぼくは『南方人物週刊』の記事を愛読していた。現在進行形の事件や風潮の中心人物に焦点を当て、インタビューや実地調査によって彼らの行動と心境を究明し、そこから事件の本質を探ろうとするのがこの雑誌のスタンスだ。中国にいた頃は毎週雑誌を買っていて、それを読めば13億人の巨大国で今何が起き、ぼくは何を知らないのかがおおよそわかった。しかし、まさにWeChatを使い始めた年から、なぜか雑誌記事が芸能ゴシップ中心になってしまった。いわば『文藝春秋』が『週刊文春』になってしまい、その上文春砲をそっくり削除したようなものだ。ぼくは困惑し、モーメンツにこう書き込んだ。
「南方人物週刊はどうしちまったんだ?まるっきり三流ゴシップ誌じゃないか。まさか度重なる検閲に屈したんじゃないだろうな」
その書き込みには、国内の大学院に通う知り合いの返事がすぐに付いた。「君の考えたとおりだよ」と。
そうか、まあ仕方がないーー好きなものが検閲によって消され、あるいは見る影もなく変わり果てるのに慣れた中国人と同様、ぼくは思った。それと同時に、「また何かが代わりに出てくるさ」と根拠のない楽観的情緒に浸っていた。いちいち落ち込んでいたらこの国ではやっていられない、「きっと良くなるさ」という名の麻薬を打ち続けるのがもっとも有効な薬だということは、皆義務教育の頃から知っていた。
ところが、そうだと思わない人間もいる。しかも大物だ。ぼくが尊敬する良心ある学者の銭理群氏である。銭氏は当時「老紅衛兵たちが政権を握ることへの懸念」(对老红卫兵当政的担忧)という長い論評を発表し、2012年に発足した習近平指導部を「老紅衛兵」と位置づけ、はっきりと文革の再来に警戒感を示した。ぼくは自戒の念も込めてこの記事をモーメンツにシェアした。すると、中国の省庁につとめる知り合いから、「何いってんのこいつ。文革が再来するなんてありえないよ」とコメントがついた。正直ぼくも始めはそう思っていたが、3日もしないうちに記事が削除され、そして国内からアクセスできるすべてのサイトから消された。海外にいるぼくは今も検索すればすぐに読めるのだが、中国国内ではとっくに情報の嵐に飲み込まれもみ消されている。ああ、なるほど、これが文革的な出来事なのかと、ぼくは初めて肌で感じ取った。
2013年以降、WeChatの言論状況が好転することはなかった。事件事故の度に多数の人々が声を上げ、モーメンツ上は一時怒りに溢れるが、すぐに削除され大量のbullshitに覆い尽くされてしまうことが、何度も何度も繰り返された。首からプラカードを下げ、富士山のような三角帽子を吊し上げの対象にかぶせるのが文化大革命だとすれば、今は赤いbullshitを相手や相手の家族・知り合いにまで投げつけ、強引の飲み込ませ、同じ赤い排泄物を出すまで徹底的叩きのめすやり方である。ぼくが書き込むものやシェアする記事から中国語が減り始め、たまに中国語で書いても旧知から批判されることが増えてきた。なるほど、潮時だなと思い、2020年の武漢ロックダウンの頃から、モーメンツをすべて削除し、twitterも使わなくなった。それは英断だったと我ながら思う。明らかに精神状態が向上したからだ。
2 今は文化大革命の再来か
モーメンツから1年近く離れ、久しぶりに安定した心境を取り戻したぼくだが、2021年に芸能界への圧力から始まった中国政府一連の高圧的な対内政策は、SNSを超えて世間に急速に広がり、再びぼくを苦悩させた。なにが起きているのかは日本のメディアでも多数報じられているため、それを確認していただくとして、ここではそれらをどのように捉えるかについて、ぼくの基本的なスタンスを示しておきたい。
おそらく最も耳目を集めるのは、芸能界叩きから始まった政策を「文化大革命」になぞらえた記事だろう。執筆者たちは中国近代史上の出来事を振り返り、毛沢東が1942年に延安で行った文芸活動に関する講話を引用したり、文革開始のきっかけとなった文芸批判の論文に言及したり、さらには革命劇しか許されなかった時代と芸能人叩きを重ねてみたりする。なるほど、一理はある。
だが、一理だけである。ぼく自身、「文革的」な体験をしたと上に書いたが、「的」があるのとないのとでは大違いだ。「的」が意味するのは、ぼくが事のいきさつに不安と恐怖を持ち、「文革もこんな雰囲気だったんだろうな」という主観的な想像だ。決して目下の中国が文革そのものというわけではない。もちろん、今の状況が文化大革命ほど悪くないというつもりでもない。新型コロナ以降、自分が中国のことに関してどれほど無知だったのかを痛いほど思い知らされ、今の状況がおそらくぼくに見えているものより数倍も悪く、水面下で文字通り生きるか死ぬかの闘争が行われていると確信する。もしかしたら一部の人にとって、状況はまさしく文革の再来と同じかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、今を文革と並べて、こんなにも共通点があるのだから再来に違いないとするのは無意味と考える。なぜなら、今は文革を連想させる現象が起きているだけであって、背景や本質、事件に巻き込まれる関係者、事件の影響までもが同じということではないからだ。とかく人間というものは、理解し難い現象にぶつかると過去の経験から学ぼうとする。過去の経験が大いに役立つことは事実だが、それを無反省に現在や未来に当てはめるのは愚の骨頂であり、類似点を見つけたことに満足し思考停止に陥る恐れさえある。今の中国の状況を文革というフィルターを通して見ることは、文革との共通点や相違点を探す作業に神経を取られてしまうことになり、その結果現実に即して深く観察し思考することが蔑ろにされてしまう。その上、文革に関係する資料公開がほとんど進んでいない現状において、多くの人ーーとりわけ日本人ーーは、そもそも文革とはなにかを全く理解していない。文革で目下の現象を説明しようとする彼らは、つまるところ複雑な現象をより難しい言葉で語り直しているだけで、実際は何の説明にもなっていない。文革というショッキングの言葉は利用されているだけで、多くの議論の中身は十分な調査、研究、取材を伴っておらず、思い込みと幻想に満ちたファンタジーの域を出ていない。
他方、「文革的」状況を深読みすると称し、中国政府は経済を成長させ、国民を豊かにしようとする方向性を変えていないとする楽観的な論調も存在する。こちらはやや冷静であり、文革が来たととにかく騒ぎ立てる一派よりは論理がしっかりとしているが、基本的な姿勢の点でぼくは賛同しかねる。なぜなら、こうした論調の基盤には、「中国の動きによって経済はどうなるのか、日本は損をしないのか」という利益面の関心しかないためだ。成長とか増収とか、そういった成長主義そのものへの批判もさることながら、「中国でなにか妙なことが起きている。それなら日本にとってチャンスはあるのか。或いは危機を察して早めに売り抜けるべきか」という思考回路において、中国で起きたことによって苦しむ人がいることは全く視野に入って来ず、カラスが生ゴミを食い散らかし、収拾がつかなくなればさっさと飛び去って素っ頓狂な声を上げるのと同じである。
また、普段から中国政治を観察している好事家は、目下の混乱と抑圧は共産党の上層部の権力闘争による揺り戻しと称し、来年3月の政治日程をこなせばすべてが再び軌道に乗ると嘯く。一見長期的な視点に立つこの意見は、実際はもっとも短絡的なものだ。江沢民以降の中国の政治情勢を見れば、締め付けとゆとりの繰り返しだったことは事実だが、締め付けたあとに元通りのゆとりに回復したことは一度もない。束縛や制限、社会にはびこる自己検閲と密告は、締め付けの度にエスカレートし、締め付けがなくなっても壊れたバネのように元通りに戻れない。三歩進んで二歩下がることを繰り返し、中国は習近平時代を迎えたのであり、決していきなり毛沢東並の個人崇拝をやろうとするキチガイが登場したわけではない。揺り戻し論者は、そうした中国の空気を肌で感じとっていないか、はたまた大多数の中国国民と同様、奴隷でいることにすっかり慣れきってしまっただけである。
ここまでがぼくが目にした日本語の記事のスタンスであり、それのどれにも賛同できないのは上に書いたとおりである。それならあんたはどう思うのかと聞かれれば、ぼくは「よくわからない」としか答えられないだろう。なにか良くないことが起きているのは確実だが、結論を出すのは時期尚早だ。そもそもコロナ禍の現状において、ほとんどの方は中国に渡航し現地の様子を見ることさえできない。それなのに風のうわさだけを頼りにあーだこーだ主張するのは、アクセス回数と視聴率稼ぎ以外に何の意味もない。今求められるのは、複雑怪奇な中国で起きていることを自分が聞いたことのあるほかの言葉に言い直す性急さではなく、入手しうる限りの情報をつぶさに解読し、仮説を立てて次々に起きる出来事で仮説を検証する真摯な態度である。