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ぼくのなかの日本(第20回、母と子)

母と子

この回を書く前、ぼくはできるだけ慎重に、何度も何度も、自分の記憶と対話していた。日本での4年間、父のと間には、前回書いたような温かい記憶がいくつも残っているが、母とはそれらしきものがなにも思い出せないのである。母が冷たい人間だったというわけではない。母にまつわるイメージは父以上に温かく、ぼくを自然と柔らかい表情にしてくれる。あるいはすべてがあまりにも一様に温かいがゆえに、逆に印象に残らなくなり、遂に忌まわしい思い出の方を、目立たせてしまったのかもしれない。

日本での4年間で、母との会話で一番鮮明に覚えているのは、最初の小学校に通っていた頃、夜なのに電気をつけていない真っ暗なボロアパートのなかで、ぼくが両親のベッドに突っ伏して泣き崩れ、母が羽を広げる親鳥のようにぼくを抱き、同じように泣いて謝ってきたことだ。

「ごめんなさい、あなたはまだこんなに小さいのに、こんなにたくさんのつらい思いをさせて。ごめんなさい……」

母はたしかに、「こんなにたくさんの」と言った。あの頃のぼくが小学校で苦労をしていたのはこれまで書いてきたとおりだが、おそらくそれを指して「たくさん」と言ったのではない。小学校でのことを母がどこまで知っていたかどうかはわからないが、すべてを目の当たりにしていたとしても、気の強い母は謝るどころか、きっと「シャキッとしなさい!」とまず叱り、そして慰めてきたことだろう。それなのに、あの日は気の利いた言葉をなにもかけられないほど、母も泣き崩れていて、むしろ先に泣いたぼくのほうが、母を慰めなくてはと思ったほどだ。

暗い部屋には父の姿がなく、バイトに行ったのか大学に行ったのかはわからないが、険悪な雰囲気になりドアをガシャンと鳴らして出ていったのは覚えている。しかしそうなると妙だ、夜になってから喧嘩したとすれば、電気はついているはずだ。明るいうちの喧嘩なら、夜になるまで母子二人とも電気もつけず、食事もせずにいたことになる。さすがにそこまでの放心状態ではないはずだが、いかんせん25年も前のことだ、覚えていないのも無理はないーーというより、忘れていてほしかったのだが。

その後、両親がどう仲直りし、ぼくになんと言葉をかけたのかは、一切覚えていない。少なくとも団地に引っ越してから、ぼくが自宅で泣くほどの事件は起きなかったはずだ。ただ、アルバイトを掛け持ちするくらい忙しかった母が、いきなり「私も大学院に行く」と言い出し、本当に教科書を取り寄せ勉強をし始め、しかも受験準備のために研究生になったのには驚いた。父も少なくとも表面上は応援しており、母が入試問題の数学でわからないところがあると、「こんなこともわからないの?」とまず優越感に浸ってから、丁寧に教えていた。ぼくも興味本位で母が取り組んでいる課題を覗いてみたが、なぜか農業経済関連の内容だった。あれ、おかしいな。なんで農業?母は中国の大学で工学を専攻し、仕事はトラクター工場だったはずだ。トラクターはたしかに農機だけど、母は事務とか広報とかそんな部署しか経験していない、なぜこんなことに興味を持つのだろうと、子供心に大きな疑問符がついた。

ちょうどそれと同じ頃、母のバイト先が変わり、居酒屋チェーンから老舗洋食屋になった。バイト先へ行くには片道1時間近くかかっていたが、そこで働き始めてから、母はむしろ元気になり、よく笑うようになったーーそうなんだ、日本に来てから1年以上、母が笑った記憶がないんだったーーどうやら、オーナーから従業員まで、みんなすこぶる親切な店らしい。バイトの日には店のシェフが残った食材でカツサンドやカキフライを作ってくれることがあり、母はいつもそれを持ち帰り、ぼくに食べさせていた。まだレアな牛肉の美味しさがわからないぼくは、シャトーブリアンで作ったカツサンドを、電子レンジで完熟になるまで加熱する暴挙に出たのを見て、母は目を覆いながらも許してくれ、数ヶ月後にまた同じものを持ち帰ってくれた。「シェフがね、絶対電子レンジに入れちゃダメって言ったから、そのまま食べて」と念を押し、ぼくが苦々しく生肉を頬張り、そのうちあまりの旨さに目を輝かせるのを、ほほえみながら見守ってくれた。

新しいバイトがしばらく続くうちに、ぼくはふと母が大学院に行っていないことに気がついた。あれ、確かに勉強していたはずだ、試験には行ったかな?でも、とにかく今は行っていないから、まあいいやーー

母にとって息子は、薄情なものである。あの頃のぼくが、もしなぜ母が大学院に一度は行こうとし、しかし結局行かなかったことにもう少し興味を持っていれば、その後の行動は大きく変わり、もしかした人生が大きく変わっていたかも知れない。しかし、日本にいたときさえ、母の考えを聞こうとしなかったぼくは、中国に帰ってからは、母が大学院に行こうとしていたことさえほとんど忘れてしまっていた。母の口から当時の思いを聞いたのは、ほんの数年前であり、そのときには、もう取り返しのつかない事態になっていたのだ。

「あの頃、私も無我夢中だった。とにかく、この子の親権は絶対に取られちゃダメと一生懸命考え、そのためにはなによりもまず日本での在留資格を確保しないといけない。それまでは家族滞在だったけど、期待できないわけだから、留学でもなんでも、自力で在留資格を手に入れなきゃダメだった。だから大学院に行こうとした。自分の身元保証人も見つける必要があったし、いろいろ苦労した。結局、そうならずに済んだけどね。」

それを耳にした時のぼくは、「やっぱりそうだったんだ」と知っていた振りをするのに苦労した。30年以上生きてきても、結局母の思いを何一つわかってあげられなかった自分、というよりわかろうとしなかった自分を恥じた。たしかにあのころ、母はとある休日になぜかぼくを連れて、立派な家に住んでいるおじさんのところを訪ねたことがあった。丁寧にあいさつをしてから、晩ごはんにとんかつをごちそうしてもらい、さらに帰りのタクシー代まで出してもらった。今思えば、あの人が身元保証人になるはずだったのだろう。だけどぼくは、母がそんな思慮を巡らせているとはつゆ知らず、ただあの4年間で一度だけのとんかつを心ゆくまで楽しんだ。あの味は、今でも鮮明に思い出すことができる。

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