所有されたくないけれど独りで生きられるほど強くもない
勝手にみられて知ったように好意をぶつけられたくないし、所有物にもなりたくない。
寝て働き、稼ぎ遊ぶ。
「私」を守り、育て、これからを生きるために生を使う。
そうやって「私のために」生きている数々の女性たちがいる。
彼女たちには、カタチがある。
誰かの色に染まりやすいようにとぼやけていないし、人の手によって簡単に変えられるほど軽くない。
そのカタチには、たしかな輪郭と重さがある。
それに焦がれ、憧れている。
私は私のカタチを作れるだろうか。
作りたい。
たしかなカタチをもって生きたい。
それなのに、30年余生きてきた私のカタチはぼやけている。
知識を、経験を積み重ねていくほどに、確かになるはずのカタチ。
所有されたくなくて、すべては「私のために」、生きるためにしていることのはずなのに。
誰かに、何かに溶けてしまう。
容易にその姿を変えてしまう。
そんな軽いカタチ。
知らなければ、誰かの所有物であることに疑問を持たずにこの世界で生きやすく生をなぞれたのだろうか。
学ばなければ、差別や圧力、数々の障壁に無力さを覚え、悲しみで心を折らずに済んだのだろうか。
声を上げなければ、冷ややかな視線と疎外感で息が詰まり、溺れることもなかったのだろうか。
所有されたくない、支配されたくない。
ただただ「私のために」ありたい。
だから知る、学ぶ、声を上げる。
カタチに重さをもたせるために。
知らなかった、学ばなかった、声を秘めていた頃の私には戻りたくはないが。
もし「なかった」私を続けていれば、こんなに生きづらくはなかったのだろうかとも考えてしまう。
「私のために」が、いき苦しい時もある。
けれど不安から逃してくれるのも、守ってくれるのも、言葉を持たせてくれるのも、「私のために」してきたことだから。
独りで生きられるほど強くはないけれど、たぶんぐちゃぐちゃになりながらも「私のために」生きていく。