無理に好かれようとしない
好きや嫌いは感覚だ。
この ”感覚” に無理があると、ひたすらつらい瞬間が訪れると思う。
音楽制作で言えば、自分の「好き」にフタをして、大衆にウケることを狙っていくようなことだ。たまにこういう能力がある人もいるが、自分の「好き」を追いやるのはけっこうしんどい作業だと思う。
僕は大衆ウケを狙った音楽は作らなかったけど、日常においては「好かれよう」としていることが多かったように思う。好かれることが唯一の円滑なコミュニケーションだと思ってた。でも、こんな生き方は疲れるし、その努力はたいして結実しない。人は、他人の ”好かれよう” を見抜いているんだ。
努力は大切だけど、「何に努力するか」はもっと大切だ。自分の人生という有限な時間を、誰にでも好かれるために使うのはずいぶんアホらしいことだった。
やるならば、この人に好かれたい!と思った人に、ど直球に好かれる努力をしたほうが結果もついてくる、と今さらながら思う。
誰からも好かれたいをやめると
誰からも好かれたい、と思うのは癖のようなものだ。
その癖をパッとやめるのは無理だろう。ただ、好かれようとする「しんどい自分」を感じるたびに、その違和感に正直に向き合うことで、徐々に徐々に誰からも好かれることのアホらしさが体に充満してくる。
そして、誰からも好かれるような人間などいないことにやっと気づく。
ありのままの自分を受け入れてくれる人は必ずいるし、そういう仲間が見つかるまでは孤独でもいいじゃないか。
僕はそんな風に考えて、思考も態度も意見も極端に人に寄せていくのはやめた。もちろん急にはやめられなかったけど。
「人に良く思われよう」を続けるということは、他人の価値観の中で生きることだ。自分を失うことに心血を注いでいるのと一緒なのだと思う。これは身を犠牲にして相手のことを考える利他とは別で、「自分のために自分を良く見せたい」という保身のための努力なんじゃないかな。
自分の保身のつもりが、結果的に自分の身を滅ぼしている。なんとも悲しい習慣だと思う。
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誰からも好かれることをやめると、不思議なことにそこからやっと出会いや仲間が生まれる。ありのままの自分で居ることが相手に影響を与えて、相手からの影響も素直に受け入れられる。
もともとこういう関係を望んで「好かれよう」を繰り返していたのに、やめた後から望みが叶うなんて、人間関係は本当に難儀なものだね。
やはり「無理なものは無理」なんだなー。