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カラス

アドルフが、イライラしてきた。駐車場の中でグルグルと車を走らせながら、暴言を吐き始めた。助手席に座っている彼の妻は、無言、無反応を突き通している。彼は暴言を吐き続ける。彼の後部座席に座っている孫が、「どうしたの?」と、声にした。アドルフは、火がついたかのように、孫に罵声を突きつける。孫の表情は暗くなり、フリーズする。助手席に座っている彼の妻の反応はない。まるで死んでしまったかのよう。彼女の後ろに座っているメアリーは、アドルフの様子を見守る。顔がもみじのような紅色で、興奮している。「アドルフ、私が降りて空いてるとこ見つけるよ。」明るく言う。「はあ!俺がパーキングできないとでも!」車のハンドル操作のコントロールを失い、車が左に揺れ、また右に揺れた。「お前のせいだ!」

メアリーは、アドルフの車椅子をおしながら、外を散歩する。湖まで来た。彼は、今、擬音しか出せない。でも、メアリーは、彼に話しかける。補聴器はもうつけていない。何日か前に、そのゴム部分をちぎって飲み込んでしまったから。話しかけると、笑いかけると、彼はニコニコする。ミラーリング。

以前の彼に笑いかける家族はいただろうか。家族は皆んな、彼の地雷を踏まないよう、慎重に接していた。不安定だった。そして、優しくしては、傷ついていた。結局、彼に誰も反応しなくなっていた。

メアリーは、アドルフの車椅子をベンチの横に止める。そして、ベンチに座る。あったかい陽を浴びる。面白い人だった。根は良い人だった。

「私も、一人の人間なの。あなたを父のように思ってるから、罵声を浴びせられると、凄く傷つくの。悲しくて、ずっと落ち込んでた。」「気にするなって周りは言うけど、私は気にするし、傷つくし、悲しくなる。」電話口で話した。彼がメアリーに罵声をあげる事はそれ以降なかった。

アルツハイマー型認知症と診断され、彼は言葉を失った。擬音しか出ない。でも、よく笑うようになった。

「Krähe..」彼は言った。息が止まった! メアリーは、彼の視線を追う。湖の上をカラスが飛んでいた。メアリーは、驚きを笑顔に変え、彼に重ねる。「Krähe!」「Krähe!」