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飛行機 村上春樹

段ボールから、2009年29刷発行(1989年臨時増刊)のユリイカを手に取った。新品だ。第一章の村上春樹のインタビューは多分目にしただろう。だけど、その当時の現実とかけ離れていたし、ことさら難しく考える必要もなかったから、再び手にすることのないまま、忘れていた。

春樹再読を決めて、まずは「女のいない男たち」を探した。だけどその本はなくなっていた。そういえば、自称ハルキストを名乗っていたから、「読みたーい」という友人に貸した覚えがある。戻って来なかったんだろう。だから、今、ユリイカの「飛行機」を読んだ。

彼女は27歳で4歳の娘がいる。20歳の男の子と情事する。ワンオペで頼れる人は彼女の側に誰もいないんだろう。彼女の不安と不確かさが、毎日の生活のルーテイーンの下に埋もれてしまっている。確かな実感がないままだから、彼女は空疎なのではないか。気持ちをどうにか埋めなければならない。「から」を彼女は、身体的に埋める。そしてついには自分を彼に投影する。ミラーリングで彼は彼女に「共感」しているから、一体感はそこにある。「彼」の側でたくさん泣いて、身体的充足を得て、「彼」から離陸していく。

「彼」はいったい?! 受動的で、だけど「共感的」感受性は高い。そして「空」の彼女の治療的過程で重要な役割を担うが、彼女に去られてしまう。彼にとっては「やれやれ」である。

ちょっと強気で言っちゃうと、彼にとってはこの上なく「迷惑」な話である。「共感性」の高い彼は、ある時期だけ、ある人の癒しとして存在する。「この人チョット、危ないかも」センサーがビリビリしていない (typicalとatypicalの間のグレーゾーンにいる) 。だから、偏見も恐怖もなくある人を受け入れる。もし、「彼」が「弟」や「甥っ子」で、家族が心配していたら、自分を大事にして!と、言いたいところだ。。。利用されてるっぽい。。天真爛漫であることのリスク。それを伝えたい。。。

まっ。それは一端置いといて、春樹の井戸に潜ってみる。春樹の無意識を感じてみる。なにが言いたいのか? 私の腹が感じる言葉は、neurodiversityだ。
春樹は、「彼」を通して「彼女の病」を表現している。そして彼女に「必要な助け」も。彼女の治癒過程に必要なもの。それは、精神的、そして身体的「共感」である。

「二人の肉体の触れ合いはいつも物静かでひっそりとしたものだった。そこには正確な意味での肉の喜びというものは なかった。もちろん男と女が交わることの喜びがなかったと言ったら、それは嘘になる。でも、そこにはあまりにも多くの別の思いと要素と様式がいりまじりすぎていた」。

「飛行機」

「彼」に抱かれて泣くことで、自分らしい、本当の眉分を解放しよう としているのであるが、言語化されないその身体的表現は、真の自己解放にはつながらないのである。分身に 「抱かれて泣」くことで、夫が象徴的に体現している社会規範の風圧をやり過ごそうとするのは、自閉的な自己世界に閉じこもることでしかないのかも知れない。

村上春樹「飛行機」あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか


ここまで整理したら、Kate Winslet主演映画を思い出した。「とらわれて夏」Labor Day。

父性が決定的に欠落していた母子家庭と、家族愛を失っていた脱獄半が、運命的な出会いを果たす。その奇跡のような補完関係が。。。。

映画批評

identity diffusion 拡散

アイデンティティの確立に失敗し、アイデンティティを確立できないままでいると、自信を失い、自己嫌悪感や無力感に陥り、自分自身で物事を主体的に選択することができなくなります。 自分らしさや自己の確立ができないことをアイデンティティ危機状態といいます。

「二十歳になったばかり」 の「彼」には、女性の 「結婚生活における問題」というものがよく分からないのである。「まだできたての泥のように若」い「彼」 の自我は、「彼女」 の 「結婚生活における問題」を映し出す格好の白紙のスクリーンとして機能する他ない.。女らしさ (妻らしさ、母親らしさ) の規範(性役割)、ルーティンによって、「彼女」 の自分らしさ (本当の自分) が抑圧され、(詩) が失われていく不安と虚しさ。自己実現から疎外され、「どこにも行けないのかもしれない」という不安に陥り、自己枯渇感に苦しむ「彼女」。↓彼」は、「彼女」 のこうした不安、虚しさを映し出す鏡なので
ある。

村上春樹「飛行機」あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか