ある学会誌のJ-Stageへの登載作業をして思ったこと。

 ある学会誌をJ-Stageへと登録する作業をしつつ思ったこと。
 
 ある学会に所属しているのだが、その学会の学会誌をJ-Stageへと登載する作業を担当した。作業が単純だったので、それをしながら、あれこれ思いをめぐらせた。

 ほぼ登録作業を終えて、この学会誌はJ-Stageで検索できるようになった。もちろん、私は、他の学会に入っているわけだが、そこのいくつかの学会誌はリポジトリがない。これが何を意味するかということである。

 学会誌だから、会費を納入している学会員には配布される。逆に言えば、非会員は大学図書館で閲覧することしかできない。なぜ、その学会は、リポジトリで閲覧可能にしないのだろうか。その本質的な理由は、その学会が、その学会誌を販売しているからである。無料で学術系のリポジトリで閲覧可にしたら、会費を納入している学会員に不公平になる。

 ただし、もしその学会誌が新刊で購入できず、絶版になったらどうだろう。結局図書館に行くことになる。つまり無料である。(ただし、在庫している図書館がなかったらそれもできないが。)ちなみに私が登録作業をした学会は、この問題を回避するために、J-Stageへの登載は、最新刊から遡って5年までとした。

 ところで、学術論文の賞味期限というのはどれくらいだろう。新聞や雑誌のコラムよりも遙かに長いだろう。
 そうしたコラムがその時どきのタイムリーな話題を取り上げるのに対し、学術論文はそもそも射程が長い。とくに人文系は。だから賞味期限は、10年?あるいは20年?100年くらいあっても不思議ではない。半年で役割を終える論文は、学術論文の資格を持たないかもしれない。

 そして読者数についてもまた、その長いスパンで数える必要がある。紀要論文などの読者は少ないと言われるが、この長い年月で考えると以外と隠れた読者は多いかもしれない。だとすれば、学術論文は、これらのことを念頭に置いて、公刊されなければならないはずだ。

 そしてここからすると、リポジトリで閲覧できない先にあげた学会誌はよろしくない。それは、その学会誌が、学術論文を発表する媒体としての本質を十分に体現していないからだ。
 とはいえ、ここで再び冒頭の問題がぶり返される。つまり、そもそもその学会誌が有料販売されているという点である。

 そしてじつはこのことは、そうした学会誌の問題の先にもうひとつの問題がある。それは、そもそも有料で店頭販売されている論文集というものの存在だ。これは自分にも身に覚えがある。もう20年前くらいに、知人たちと「教科書」の体裁をとった論文集を出したことがある。

 その論文集に書いたのが、書籍にものを書いたはじめてのことである。『文化論のアリーナ』というタイトルで晃洋書房から出た。(ちなみにいま、Amazonで調べてみたら、古本で、笑える値段で売っている。)私は、そこに「教養のゆくえ──ラファエル・ケーベルと大正教養主義」という論文を書いた。
 お雇い外国人教師であるケーベルが大正教養主義にどのような影響を与えたか、という内容のものである。岩波の思想の古い特集号や、同志社から出ていた『パイデイア』という雑誌の特集号などを探してきて、高橋英夫の岩本禎を扱った『大いなる暗闇』を引きながら、せっせと書いた。

 出来は悪くないと思うし、ケーベルの文献のひとつになるのではないかと思う。しかし──ここからが問題である──、この拙論は、CiNiiでもJ-Stageでもヒットしない。なぜなら販売された論文集は、その論文集のタイトルはヒットするが、そのなかに収録されている論文のタイトルは検索不可だからである。これらの学術系リポジトリにも大学のそれにも登録できない。つまり検索不可なのである。
 そして言うまでもなく、そういう文献は拙論に限らない。無数にあるはずだ。こうした文献はどうなるのだろう。
だとすれば、それほど売れる見込みのない学術論文集を有価公刊するということは、どういうことだろう。
出版するまえに、きちんと考えなければならない。

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